第7話 見舞いの花
本来の目的地である、驚台総合病院に着いた時には午後二時をまわっていた。
駐車場に車を止め、正面玄関から中に入ると、一気に病院特有の消毒のニオイに包まれた。
一階の総合受付には広い待合が用意されており、ちらほらと席で待っている患者の頭が見える。怜は慣れた様子でそこを通過し、待合室の奥にあったエレベーターに向かった。
「お見舞いの花を届ける吉野のおばあちゃんなんだけど、ずっと肺を患ってるらしくて、少し前に別の病院からここに転院してきたらしいんだ。家の近くから転院してきて、周りに知り合いもなかなかいないみたいで、だからご家族からお見舞いの花を依頼されてね」
ちょうどやってきたエレベーターに乗り込み、花を持つのとは反対の手で六階のボタンを押しながら怜は話を続ける。
「毎週水曜のこの時間にお見舞いに来てほしいんだけど、一応一つだけ注意事項があって。おばあちゃん、時々記憶が混同するっていうか、意識がぼーっとしてる時があるっていうか、まあ、分かりやすく言うとちょっとボケ気味なんだよね」
ボケ気味。かなり分かりやすい表現だ。
「だから、行っても一葉くんに気付かないことも多いと思うし、同じ話を何回もされることとかも多分あると思うんだけど、できるだけ調子を合わせてあげてほしいんだ」
「分かりました、気を付けます」
途中で点滴を引いた患者や、見舞いに来たのだろう家族などが乗り込んでくる中を、エレベーターは目的の六階へと向かった。
点灯していた六階のボタンの光が消え、扉がゆっくりと開く。怜に続いて降りると、そこは人の出入りが頻繁な一階などとは違い、静かなところだった。
ここに一体どれだけの患者が入院しているのか、その気配をほとんど感じない程廊下は静まり返っており、それだけに、歩く足音がやけに大きく響く。
エレベーターを降りてすぐのナースステーションを通り過ぎ、病室が並ぶ廊下を進んだ。
入口に掲げられたネームプレートには、どの部屋もだいたい五、六人の名前が差し込まれている。簡単に抜き差しができ、簡単に書き換えられるようになっているネームプレートは、そこにいる人々の目まぐるしい入れ替わりを表しているようだ。
きっと、今ここにある名前も、一葉が次に見る時には違う名前になっているのだろう。そう思うと不思議だった。同じ時間は、二度と来ない。
そんなことを思っていると、「―――あれ?」と前を歩いていた怜がふいに足を止めた。
「こんなところに、落とし物かな」
軽く腰を屈めて、ひょいとそれを摘まみ上げる。怜が拾い上げたのは、廊下の端に落ちていたタオル地のハンカチだ。周りに人の気配は無く、当然落とし主も分からない。
「参ったな」
言いながら、少し困ったように頭を掻き、怜がこちらを振り返る。
「一葉くん、悪いんだけど、ちょっとこれ預けてくるから先に行っててくれる?」
「え?」
「大事なものかもしれないし、落とした人も困ってるかもしれないからさ」
「え、でも―――」
「お見舞いの時間も迫ってるし、そっちはそっちで守らなきゃいけないから」
ちょうどそこにあった廊下の時計を見ながら、怜が肩をすくめる。
「吉野のおばあちゃんの病室は、そこの角を曲がってすぐの個室だから」
落とし物ぐらい、別にこのタイミングじゃなくても―――と思いはするが、廊下の先を指しながら、頼んだ、と見舞いの花を差し出されれば、異論を唱える隙もない。思わず条件反射的に受け取ってしまった一葉に、「じゃ、よろしくね」と怜は踵を返す。
拾ったハンカチをぱんぱんと軽くはたき、自分のもののように薄い上着に突っ込みながら離れていく足取りは、だが、どう見積もっても落とし物を早く届けようとしているようには見えない程緩やかだ。その中に、フンフン―――、と聞き覚えのある鼻歌が聞こえてきたのも多分、気のせいではない。
一葉は何も言えず、ただその後ろ姿を見送った。
ネームプレートを確認して一度足を止め、軽く深呼吸をする。
スライド式のドアをノックして中に入ると、「あら、いらっしゃい」と柔らかい声と笑顔に迎えられ、一葉は少しばかり戸惑った。
吉野のおばあちゃん。
怜がそう呼んでいたその人は、入院生活が長いのか、足を動かすよりベッドの上にいるのが当たり前という様子で、かけられた布団の上からでも分かる程薄い体は、筋肉も脂肪もそげ落ちた骨と皮だけのようになっている。
一葉が「見舞う」ことになった相手は痩せ細った、だがそれでも、穏やかな表情を浮かべた女性だった。
「どなたかしら?」
「―――ええと、吉野さんに花を届けに来ました」
「あらまあ、こんなキレイなお花、どうもありがとう。これは何のお花かしら」
誰から、とは聞かれないんだな。
ボケ気味、とは聞いていた。だがそれでも、赤の他人をこうまで友好的に迎え入れてくれるとは。
笑う女性、吉野さんは、一葉が渡した花を抱え、顔を近づけて香りを確かめている。
純粋に花を贈りたくて来たわけではないため、その姿に少しばかり罪悪感のようなものが生まれるが、気にしても仕方がない。
なんせ、それが仕事だ。赤の他人でも関係なく、「見舞う」ために見舞う、それが「見舞いの花」という依頼だと聞いた。
肺を患っていると聞いていた通り、鼻には酸素チューブがとりつけられており、そばには点滴も下げられ、細い腕につながっている。見た目で確かな年齢は分からないが、一葉に祖母がいたとして、恐らくそれくらいの年代だろうと思えた。
祖母、か―――。
そんな存在、会ったこともないし、いるのかも分からない。いたとして、別に会いたいとも思わないが。
ベッド脇の棚には、今一葉が渡したのと同じような花が飾られていた。いや、同じようなというより、ほぼ同じと言った方が正しいかもしれない。間違いなく、先週怜が持ってきたものだろう。
毎週の同じ時間に同じような花束を渡されても分からない。怜も今のようなやり取りを毎回繰り返してきたのだろうか。
「ええと、あれはどこにやったかしら」
花を抱えたまま、吉野さんが忙しなく辺りを見回し始める。
「何ですか?」
「花瓶をね、どこにやったのかしらと思って。椿の柄が入った花瓶なんだけど、ご存じない?」
聞いてくる吉野さんのそば、棚に飾られた花の花瓶には、椿が描かれている。
「―――ああ、僕がやっておきますよ。椿の花瓶ですね。探してこの花を飾っておきます」
「あらそう? どこのどなたかも分からないのに、ご親切にありがとう」
「……いえ」
言って花を受け取り、さり気なく棚の花瓶を取って外の手洗い場に向かう。
背中に不思議そうな視線が寄せられるのを感じた。だが、振り返ったりはしない。
閉めたスライド式のドアが端に当たって小さく跳ねるのを聞いて、一葉は無意識にほっと息をついていた。




