第二十九話 ゲキジョウヘンゲンラビリンス
爽やかな、いや生臭い磯の香りに嫌気が差し、俺は瞼を開いた。
「…………」
いつの間にか寝ていたらしい。まさか、こんなところで寝てしまうとは、よっぽど疲れていたのだろうか。何もしてないのに。
「――よく眠れた?」
「あぁ、うん、まあまあ……」
目をこする俺にかけられた目覚めの挨拶に、反射的に応える。
なんて素晴らしい覚醒の時だろうか。若い女性の声は、まだ眠気に片足を突っ込んでいる頭によく響く。
……ん? 若い女性の声?
現実に引き戻されていく脳よりも速く、俺は声の方へと目を向けた。
「――ふうら、さん?」
眼前の光景は、俺の脳みそを容赦無く叩き起こした。
直ぐ隣で、膝を折りたたんで座り、水色の水着に身を包み読書をしている、俺の想い人、風羅小夜。
空のような色のビキニは、控えめな胸と尻を包み込みつつ、彼女の透き通るような白さを持つ肌もあってか、その全てに清涼感を与えている。
その光景のインパクトたるや。ビックバンに匹敵すると言っても過言ではないだろう。
下手すれば吹き飛ばされる。そもそも近づくことすら容易ではない! 今ここに俺が腰を下ろせていることが奇跡!! まさしく、夏の女神が運んだ高貴なるいたずら!! 否! 聖なる贈り物!!
にしても、海に来てまで本を読むとは、風羅さんは読書家の鑑だな。
「……あの」
「うん?」
「その、あんまり見ないで……」
「…………」
ごふっ!
本でそれなく隠した顔から放たれる渾身の右ストレートは小細工無用の一撃! 空気を割いたそれは、この場に留まることに全力を注ぐ俺の身体に容赦無く叩きつけられる!
その後の赤らめた表情が、更に追い打ちと言わんばかりに満身創痍の身体にジャブを打ち込んでいく!
……彼女は俺の視線が嫌だったから、見られるという恥ずかしさと共に本で表情を読まれないようにして、素直に俺にそう言ったのだろう。
可愛い。Kawaii。超かわいい。
その後も本を顔が付くくらい近づけ恥ずかしさを噛み締めている姿がより一層、俺の何かを刺激していく。
反則だろう。こんなの。
惚れるなっていう方が無理な話だ。
好きになるなっていう方が無理な話だ。
「ええと、悪い。風らさ――」
バコンッ!
「いだっ!」
にやけが止まらない俺の横顔に、何かがクリーンヒットした。
「なっ、えっ……!?」
一瞬の、タイミングの良い出来事に、俺はすぐ様痛みの原因を作った物が飛んできた方へと目を向ける。
そこに、こちらに小走りで向かってくるちんまりした女子が一人。
「すみませーん、り・ん、先輩ー」
清々しいほどの作り笑顔の水元だ。
その表情を見た瞬間理解した。こいつワザとやりやがった。
恐らく、直ぐ目の前に落ちているビーチボールを力一杯俺に向かって飛ばしてきたのだろう。
飛んできたのが、ビーチボールで良かった……。
「手元が狂っちゃいました」
「うん、そうだな。"たまに"あるよな」
「いやー、申し訳ないです」
精一杯の笑顔と、おちゃめな子のように舌をちょろっと出した仕草も、何もかも怖い。
手元が狂ったとかどう考えても嘘だ。絶対、風羅さんと一言二言話したから狙ってきたに決まってる。
だがしかし、今の俺は幸福ゲージマックスだからな。そんなに痛くなかったし、追求は避けてやろう。
「そうだ、折角ですし、りんりん先輩もビーチバレーどうですか?」
「いや、俺は遠慮しと――」
「ど、う、ですか?」
「そうだな、もう少ししたら――」
「そうですか、やっぱり身体動かしたいですよね」
「いや、だから――」
「レッツゴー!」
強引に腕を引っ張られ、オアシスからの強制退場を食らいそうになるのを俺は必死に拒否した。
クソ! 本来なら女子に腕を引っ張られるなど、羨ましがられるシチュレーショントップスリーに入るのに、今は素直に喜べねえ!
「なーにを、遠慮してるんですかー。ほらほら早くー」
「――九賀羽君?」
このまま水元の思い通りとなってしまうのかと、半ば諦めかけたその時、俺を呼ぶ声が一つ。
その聞き覚えのない声に、俺は視線をその方向へとやった。
そこには、知らない女子が立っていた。
灰色のパーカーを身に纏っている、眼鏡をかけた知的そうで、しかし地味目で端正な顔立ちの女子。
可愛いよりも美人という言葉が似合う彼女は、不思議そうな目で俺を見ていた。
「あ、あの、誰ですか?」
「やはり、憶えていないんですね」
憶えていない? ということは、俺が知らないだけで顔見知りなのか?
いや、しかし、こんな美人さんを忘れるとは思えない。でも、事実記憶にはないわけで……。
記憶の海を全力で捜索するも、彼女の情報は出てこない。
そんな、時間停止した空間に、一筋の声が遠くから、ビーチバレー組の方から聞こえてきた。
「おお! やっぱ、来てくれたのか!」
声と共に、こちらに向かって走ってくる筋肉の塊が一人。
「いやー、来てくれると思ってたぜ! 結菜!」
ゆいなと呼ばれた子の頭をぽんぽんと叩き、それはそれは嬉しそうな表情を霧茅は見せていた。一方のゆいなさんは、恥ずかしそうにしつつも満更でもない表情だ。
つか、ゆいな? 何処かで聞いたことがあるような単語だが、何処で聞いたんだっけか。
「あの、きりりん先輩、お知り合いですか?」
「ああ、橋元結菜。俺の彼女だ!」
頬を赤らめる彼女の肩を引き寄せ、霧茅は断言した。
橋元結菜。そうだ、前に霧茅が言ってた彼女さんの名前だ。確か、俺と中学が一緒らしい子だ。全然、記憶にないけど。
「へ、へえ、彼女さんですか……」
そんな橋元さんが霧茅の彼女だという情報に、水元はビーチバレー組の方をチラチラと見ながら、先ほどの怖い笑顔を引っ込めている。
どうしたのだろうか? 別に動揺する場面ではないと思うが。
というか、「来てくれると思ってたぜ」ということは最初から、霧茅は橋元さんを誘っていたという事なのか?
「なあ、霧茅。橋元さんも海に誘っていたのか?」
「ああ。隠してて悪かった」
言い訳などいらぬと言わんばかりの、霧茅らしい謝罪だ。
いや、欲しいのは謝罪じゃなくてだな。
「しかし、野郎三人の中に彼女さんを誘うとか中々だな」
「いや、結菜が俺と二人きりじゃまだ無理って言うからさ。じゃあ、凛や柳となら大丈夫なんじゃねって思ってさ」
「いや、言うほど大丈夫じゃねえだろ」
「なんだか、見方を変えればエロい会話ですな」
いつの間にか蹴珠が復活していた。つか、こいつは知らない女子が居ても、全然平気そうだな。変なところで女性耐性が高い。アイドル耐性は死んでるが。
「そんなことより、九賀羽君は本当に私のことを憶えていないんですか?」
「えっ、いや……」
強引に話を戻された。このまま有耶無耶になって欲しかったのに。
それにしても丁寧に喋るな、橋元さんは。
「まあまあ、凛だって中学の頃は……な」
「おいなんだ今の間は」
「そうだったんですか。あの、すみません。今まで色々と」
「何が?? いや、何もないからな!?」
「あの、まだまだ人生これからなので、私でよければ微力ながら協力しますよ?」
「いや、いいよ! つか、なにこれ!? 俺が悪いのか? 橋元さんを憶えてない俺が悪いのか!?」
とてつもなく理不尽な気がするが、憶えていない俺も悪いので取り敢えず謝っておく。
「まあ、別にいいですけど。九賀羽君とは、中学の頃に一回話しただけですし」
それだったら、憶えていなくて当然だ。
ここで、「ふう」と息を吐き、橋元さんは改めて俺たちを順に見ていく。
「ところで、あなた達は公とどういったご関係ですか?」
そこまで驚くことではないし、反応するところでもないが、敬語で丁寧に喋っていた人が人を名前で呼ぶと、こうグッとくるものがある。
しかし、今訊くのか。別に、今更訊くほどのことでもない気がするのだが。
「えっと、私は二年の水元揺です」
「そう。で、公とは"ただの"友達なの?」
「えっ? そうですよ? 友達というより後輩と言った方が正しいですけど」
仏頂面を崩さないが、橋元さんの声の調子は少しイラついているように感じられた。
何か、水元が橋元さんに怒らせるようなことを言っただろうか?
「そうですか。――ああ、九賀羽君と蹴珠君は以前から話を聞いているので大丈夫です」
「ほほう。では、次は――」
蹴珠の言葉に、俺は風羅さんの方を――橋元さんに興味がないのか、それとも単に続きが気になるからなのか、本を読んでいる風羅さんの方を向いた。
「風羅、小夜です」
本から目を離し、上目遣いで自己紹介する姿の破壊力たるや。
正面から食らったら、もしくは俺に向けられたものなら再起不能になっていただろう。
「それで、公との関係は?」
「ただの知り合いです」
スパッと答えた風羅さんは、そのまま本に目を戻した。
しかし、何故橋元さんはそこまで"公との関係"を気にするのだろうか。
そりゃ、霧茅と恋人関係なら、霧茅と自分の知らない女子の関係を気にするのは、そこまでおかしな話でもないが。どうも、そういった単純な理由だけじゃない気がする。いや、あくまで俺の勘だけど。彼女の警戒心を感じさせる目を見ていると――いや、あくまで俺がそう感じるってだけで、露骨にそうだというわけではないのだが。
「そ、そうだ。せっかくだし、結菜もビーチバレーしねえ?」
そして、この霧茅の動揺っぷり。今回だけじゃないっぽいな。これは。
「ビーチバレー? ああ、あそこに居る人たちも公の友人なのね……」
「あ、ああ。ついでだし、あいつらも紹介するよ」
「ま、待ってください!」
コート上に残っていた、上園、月下、金潟、星喰の元に向かおうとした二人を止めたのは水元だった。
「少しだけ、待っててください」
言いたいことを察してくれと、水元は必死に目で霧茅に訴える。
その訴えが通ったのか、霧茅は橋元さんの方に向き直った。
「その前に、ほら、前から話してた玲を紹介するよ」
「れい? ああ、木窯さんも来てたんだ。でも、別に後でもいいんじゃない?」
「いや、それこそビーチバレー組が先でも玲が先でもいいからさ」
言ってることが強引過ぎやしませんかね。
だが、霧茅の必死の? 訴えが通じたのか、疑問符を浮かべながらも橋元さんはそれに了承した。
「ふう。一安心」
二人が、木窯が居るであろう海の家へと向かったのを確認し、水元は胸を撫で下ろした。
「なあ、何か都合悪いことでもあったのか?」
「そういえば、りん先輩はいつきんの本性を知りませんでしたね」
本性?
「なんだよそれ」
「私が説明するより、目で見た方が早いです」
そう言って指差した方向に、俺も倣い視線を向ける。
そこには、仲睦まじく歩く霧茅と橋元さんを睨みつけている金潟さんの姿があった…………。
――こええよっ! なにあれ!? あんな金潟さん初めて見たんだが!?
「……なあ、俺の知ってる金潟さんは何処へいったんだ?」
「裏側へ引っ込みましたね」
「マジかよ。早く助けなきゃ」
「先輩、落ち着いてください。あれが、いつきんの本性です。普段はおとなしく内気ですが、それは全てあの本性を開放しないために意図して演じていたに過ぎないんです」
「ええぇ……」
「まあ、嘘ですけど」
「ここまで全部嘘です、と言って欲しい」
「それは無理です。あくまで前言だけ嘘です」
そうか。嘘じゃなくて、現実か……。これは、全国の金潟さんファンが死滅するな。
「なあ、敢えて説明を求めたいんだが」
「見たとおりですよ。嫉妬です。獣ですよ。オスを狙う獣。今のいつきんは、いつどうやって橋元さんからきりりん先輩を奪おうかと思考してるはずです」
「俺の知ってる小動物金潟は獣になってしまったのか」
「加えると、あの状態になったら暫くはあの状態が続きますよ」
「人はそれを、獣化と呼ぶ」
「極めて自然に会話に乱入してくるのマジやめて」
「すまぬ」
しかし、これはかなり面倒な事になったんじゃないか? 今まで、なあなあできていた金潟の恋愛が、ここにきて決着へと全力疾走を始めている。
このまま、二人が正面衝突した時のことを考えるだけで、身震いが止まらない。
「……りんりん先輩。ここは一旦、休戦としましょう」
「水元。俺は、お前と争ったことなんて一度もないぞ」
「その発言には疑問を持たざるを得ないですね」
「そうか、悲しいな」
「話を戻しますけど、りんりん先輩にもいつきんが暴走しないよう協力して欲しいんです」
「俺にとっちゃ、金潟さんは既に暴走してるけどな」
「私としても、いつきんの株を下げたくないんですよ」
いつになく真面目な口調で、水元は言った。
そりゃそうだ。大切な友人が、醜態? を晒そうとしているのだから。
「分かった。俺としても、金潟さんが正気に戻った時に悶絶するのは見たくないからな」
「嘘ですね」
「すみません。正直に言うと、ちょっと見てみたいです」
「素直なのはいいことです。でも、今は真面目に協力してください」
「分かってるよ。なあ、蹴珠」
「そうですぞ。水元さんの頼みとあらば、我輩も全力でサポートしますぞ!」
心強くない。だがしかし、その心意気には素直にありがとうと言っておこう。
さて、となると何をすればいいかだが。
「単純な話。二人に金潟さんを近づけさせなければいいんだよな?」
「そうですね。でも、恐らく不可能です」
「そうか? 難しいだろうけど、適当な理由付けて金潟さんを遠ざけるくらい出来そうだけど」
「そういえば、りんりん先輩はこの後の予定については聞かれていないんですか?」
「予定? いや、何も」
「実はですね――」
どうせ大した予定じゃないだろう。
「火七海先輩の別荘に泊まりに行くんですよ」
「……えっ?」
その、予想だにしない予定に、俺は素直に驚いた。
あとがき
不「輝耶ちゃんー、遂にわたしたちにも次回予告の当番が回ってきたよー」
火「そうね。まあ、いつも通りにやりましょ」
不「うんー。それにしても、輝耶ちゃん別荘持ってたんだねー」
火「前に言わなかった?」
不「そうだっけー?」
火「言ったわよ。まあ、いいわ。次回は私と所縁のある子が出てくるわよ」
不「それは楽しみだねー」
火「そうね。次回『ユウガニキラビヤカニオシトヤカニ』」
不「次回も見逃せないねー」




