第二十話 「…………」
朝。珍しく凄く早く学校に着いてしまった俺は、暇を持て余し校内をぶらついていた。
やはり、朝早くの学校というものは少しそわそわする。
まだ少し冷たい空気が漂うコンクリート製の廊下は、人の声が全くしないのもあって、ここが学校ではない全く別の世界なのではないかと錯覚させる。もし、俺が中学生だったら喜んで錯覚されてただろう。
普通から外れた日常舞台。学校という建物が見せる、隠されていた姿。
そんな、特別で居心地の良い時間がいつまでも続けばいいが、特別だからこそ、あまり長く浸りたくないという気持ちもあるものであり。
だが、個人的にはもう少し浸っていたかったというのが正直なところだ。
「早いね、火七海さん」
例日比数倍の爽やかな挨拶が出来たと思う。
だが、対する火七海さんは、俺と真逆の気持ちらしい。その感情が顔から惜しみなく滲み出ている。
仕方ない。いつもの俺なら、この爽やかで心地よい気分に身を任せ、会話を展開させようとするが、相手がそういう気分ならやめておこう。
どうにも、まだ先日の一件が尾を引いているようだ。
……ふむ、このまま黙ってバイバイは俺としても気分が悪いな。せっかく良い気分だし、仲直りできないか試してみるか。
俺は、すれ違い立ち去ろうとする火七海さんを呼び止めた。
「なに?」
「いや、ほら、何と言うか。仲直りがしたい、というか」
「そう。でも、もう遅いわ」
「遅い?」
「もし、もう少し早くそう言ってくれたら、仲直りしてたかもしれないわね」
表情変えずに意味深な言葉を残し、火七海さんはすたすたと歩いて行った。
もう少し早く言ってくれたら? どういう意味だ?
何が遅いんだ?
訊きたかった。でも、今の火七海さんが答えてくれるわけがないから、俺はただその後ろ姿を見送るしかなかった。
やはり、今日は良い日だ。
教室には、まだ誰もいない。誰も来ていない。よし、もう一眠りしよう。
そう、机に突っ伏そうとした瞬間、教室に入ってくる一人の影が目に入った。
サラサラとした肩ほどまで伸びた真っ直ぐな黒髪に、少し眠そうな目。
風羅さんだ。あっ、目が合った。
おはよう。
そう言えない俺ヘタレ。
俺は、心の中でため息をつく。全く、絶好のタイミングだというのに、目が合ったのに、先ほどの爽やか気分に身を任せた俺は何処にいったのやら。スーパー爽やかタイムは、もう終わってしまったというのか。
「――あの」
「えっ?」
目の前には、風羅さん。
鞄も何も持っていない風羅さん。どうやら、机に置いたらしい。
……いや、それよりもなんだ? 何故、彼女が目の前に立っているんだ? 何故、俺に話しかけてきたんだ?
「少し、いい?」
「あっ、はい……」
ほとんど無意識に声を出したと思う。
それほどに、自分が応えたかどうかすら分からないほどに、その唐突すぎる出来事に、俺は緊張していた。
しんとした教室で、俺の鼓動は高鳴り、速さを増す。
大丈夫。聞こえるわけがない。落ち着け。落ち着いて。でも、見れない。視界が、思考が、意識がブレていく。
汗を額に感じ、俺は自然にそれを袖で拭った。
「火七海さんから聞いたんだけど、その、不地方さんに、上園君にぶつかるように命令した、っていうのはほんと?」
聞き返しそうになった。
現実に引き戻された感覚。
変な汗も引いていった。代わりに、寒気が全身を襲った。
例えるなら、親に、隠していたテストが見つかった時の心境。
隠していたものがバレた。
風羅さんに、好きな人に――。
「それに、昨日水元さんが私と上園君に、その――色々言ったのも、九賀羽君の入れ知恵だって」
わーい、九賀羽君って、初めて呼んでもらえたぞー。
時間とは恐ろしいもので、俺は早くも冷静さを取り戻しつつあった。
もしかして、昨日の放課後、火七海さんが風羅さんに話していた内容はこれか? さっき言ってた「もう遅い」という言葉も、この事を風羅さんに言ってしまったからなのか?
つか、取り敢えず否定しないとな。にしても、風羅さんとのファーストコンタクトがこんな形で実現するとは、火七海さんには、後でちゃんとお礼をしないと。
「いや、違うよ。不地方さんとも、水元とも知り合いだけど、そんなことを言った憶えはない」
「そうなんだ。ごめん、変な疑いかけて」
「いいよ。それよりも――」
「嘘よ」
静かな教室に響く、女子の声。
教室に入ってきたのは、余裕を顔に貼りつけている火七海さんだった。
「風羅さん騙されないで。九賀羽は嘘をついてる」
「いや、だから嘘じゃないって――」
「嘘しか言ってないでしょ。薫を利用した嘘つき野郎」
嘘つき野郎――女はお前だろ。
不地方さんの話はともかく、水元のは作り話じゃねえか。あと、俺は不地方さんを騙してねえ。ちゃんと話して、ちゃんと了解を得てんだよ。
「あんたは、薫も水元さんも風羅さんも、みんな利用した」
「…………」
「全ては、龍と風羅さんを引き離すためにね!」
「引き離す? 上園君と……?」
心の底で、さぞほくそ笑んでいるんだろうな。火七海さんは。
さて、どうするかな。今の状況じゃ、何しても風羅さんの俺に対する印象がマイナスにしかならねえしなあ。
「九賀羽は、風羅さんのことが好きなのよ。だから、邪魔な龍と風羅さんの仲を引き裂こうとした!」
「えっ……」
風羅さんは、絶句しこちらを向いた。
まあ、どっちにしろ印象悪化は避けられないか。しかし、爽やかな朝が一転、人生史上最悪の朝になってしまったな。
どうしてくれようか。火七海さん。
「九賀羽君……それって」
「…………」
勢いで告ってみるか? いや、そんなの馬鹿のやることか。
じゃあ、どうする? この論点がズレ始めた状況で、否定の言葉が意味をなすのか?
って、落ち着け俺。否定は大事だ。自分の気持ちのために人を利用した俺は、紛れもないクソ野郎だ。
そこだけは、せめて、そこだけは否定しなければ。
「嘘だよ。火七海さんは何か勘違いしてて、デタラメ言ってるだけだ」
「風羅さん、あいつの言葉は信用しないで! あいつの言葉こそ、全てデタラメだから!」
「…………」
風羅さんは、混乱している。
恐らく、上園の知り合いという体で近づいた火七海さんの無茶苦茶な言葉を信じるか、それとも今日初めて話した俺の弁解の言葉を信じるか。
どちらも信用に足らない。しかし、どちらも否定することは出来ない。
これは、不味い。俺は、こんなの望んでない。
風羅さんが傷つく展開など、望んでいない。
「…………」
冷たい汗が頬を伝った。心臓が異常な高鳴りを始めた。呼吸が荒い。吐きそうだ。口の中が酸っぱくなってきた。
この選択は間違っている。
決意を固めたというより、勢いで――。
「……ごめん、風羅さん。全て、火七海さんの言う通りだよ」
「えっ……」
ダークヒーローなんてクソみたいな役、演じたくなかったよ。
「嘘をついたのは俺の方だ。全部、俺のせいだ。ごめん。本当にごめんなさい」
どうせ叶わぬ恋ならば。
嫌われてしまおう。
その方が諦めもつく。
良い機会だ。
さようなら。
もう二度と君を好きになりませんように。
視界の端で、口元を緩ませる彼女の顔が見えた。
そうか。これが、お前が描きたかった光景か。
なるほどね。
俺は、お前を許さねえから。




