エピソード0 別離
「あなたと行くわけにはいかないわ」
背を向けた少女の声は、ゆっくりと言い聞かせるように、冷静に語られた。
「……その理由を聞かせてくれるね。この前会ったときは二人でここを出ることに前向きだったと思ったんだが」
答える声もまた冷静さを保って響くが、こちらはわずかに語尾が震えたかに聞こえた。
「やはり、わたくしが神殿を出るわけにはいけないでしょう」
「そうだろうか。君が最後の力のある姫巫女というのなら、今姫巫女の時代が終わるのも五十年後に終わるのも、大差ないと思うけど?」
「いいえ。その五十年でできる事があるわ」
「私の為に、その五十年を使う気はないと。神殿の礎になると言うのだね?」
低い問いかけの後に、沈黙が訪れた。
ややあって、一度は背を向けた少女が再び男へと向き直る。視線をそらすことなく互いの真意を探ろうとする視線は、やがて、少女の方からゆっくりとはずされた。
「……そうよ」
堅い少女の声は、その部屋で強い意志を持って響く。
そこにあるのは決意か。
緊迫した空気の中、男が更に少女の意思を問う。
「では、その子はどうするつもりかな。……殺す気か」
低く問いかける声は断罪するように響き、少女はびくりと肩をふるわせて顔を上げた。
「いいえ!」
反射的に響いた少女の叫び声に、はじめて感情がこもった。
では、と言いかけた男だったが、しかしそれを遮るように少女が静かに宣言する。
「……いいえ。この子は神殿で産みます」
一瞬感情が見えたその声は、すぐにまた冷静な物へと戻っていた。
男はその様子にわずかに表情を硬くし、追求する低い声が厳しさを増す。
「私達の子も、神殿に差し出すのか」
少女は口をつぐんだ。
男は小さく息をつく。
「エリノア。君は、私とその子と三人の未来を見たいと、歩みたいと思ったのではなかったのか……? なぜ自らしがらみにとらわれようとする」
沈黙が訪れた。男はそれ以上答えを促すそぶりはなかったが、ややあって、少女は顔を上げると、強く意思のある目をして、真正面から男を見据えた。
「……全ては、時の定めるままに。わたくしは姫巫女。わたくしはその定めに従い神殿を導かねばならない」
「巫女など居なくても神殿は回る」
「そうだとしても。わたくしはあなたを選ばない。わたくしには、ここでやらなければならないことがあるから。それは、わたくしにしかできないことなのだから」
きっぱりとした物言いの真意を探るように男はその視線を受け止めた。
ややあって、再び男は小さく息をついた。
「その、君の成すべき事とはなんだ」
その言い分を全て退けてみせる、彼女の憂いを絶ってみせる、そう決意している男を前に、少女は沈黙を答えとした。
静かに閉じられた瞳が、男を拒絶していた。
答える気はないのだと。
「……そうか。それが君の答えか」
つぶやくような声はわずかに震え、落胆したその心情は、男をよく知る少女には確かに伝わっていた。けれど彼女は動かなかった。その表情さえ変えることもなかった。
男は少女に背を向けると、静かにその場を去った。後に残された少女は振り返ることのない背中を、やはり静かに見送ったのだ。
すぐそばで眠っているのは、ようやく首が据わったばかりの乳児だ。起こさないように気をつけながらコンラートは手早く荷物をまとめる。しかし、持っていく自身の物など、そうないことに気付く。必要な物をひとつひとつ確認するだけの作業だ。
黙々と行う作業を手伝うでもなく、ただ部屋の片隅からじっと見つめていた若い神官が、おもむろに息を吐いた。
「あなたが、そんなに愚かな人だとは思いませんでしたよ。残念です」
漏れ聞こえてきたのは、失望したと、嫌みを滲ませた小さなつぶやきだった。
コンラートはそんな彼を見つめ、全てを受け入れたような穏やかな表情で小さく肩をすくめた。
「私は、愚かだとは思っていないよ」
返された言葉は落ち着いた声で静かに紡がれる。
しかし年若い神官はその言葉に反応して、ぐっとコンラートをにらみつけた。
「あなたは……! あなたは神殿に残るべきだった……!」
コンラートが穏やかであろうとするほどに青年と言うには幼さの残る神官は激高する。
「あなたのような人が、今、衰退していく神殿を支えるべきではないのですか!」
その言葉を受けた彼は、静かに首を横に振った。
「私のすべき事は、他にあったという事だ」
「それが、姫巫女様の産み落とした赤子を育てるという事だと……? そんな物は他の人間にまかせればいいのです! あなたには、あなたにふさわしい、そしてあなたでなければ出来ないことがあります!」
それは、コンラートを慕えばこその言葉だった。コンラートもまた、この若い神官の将来を期待し、目をかけてきた。
彼の還俗を惜しむ神官に、コンラートは静かに笑みを浮かべた。
「……これは、私にしかできないことなんだよ」
かみしめるようにつぶやいて、そして抱えきれない心情を吐露する。
しかし、それこそ意味が理解できないと、若い神官は探るようにコンラートを見つめた。
「これ以上、私は、失いたくないのだ」
笑みを浮かべたままだったが、表情に陰りが差した。自嘲めいたコンラートの笑みに、神官は息をのむ。
「まさか、姫巫女様の……」
「私にしか、出来ないことなんだよ」
もう一度呟いたコンラートに、彼は口をつぐむ。握りしめた拳を振るわせながら、怒りに声を震わせながら神官もまた、もう一度呟いた。
「あなたは、愚かだ……!」
若い神官が背を向けてさってゆく。それを感じながら、コンラートもまた、彼に背を向けた。
「……コンラート様……」
躊躇いがちな、小さな声だった。
扉続きの隣の部屋に目を向けると見慣れた少女が、遠慮がちに彼を見ていた。
「ラウラ」
コンラートはほほえみかける。
まもなく彼は彼女と結婚をする。かりそめの夫婦として、姫巫女が密かに産み落とした子を育てるためだ。
「すみません、少し、話を聞いてしまいました」
ラウラが申し訳なさそうに、そして囁くような声で呟く。
彼女の声が小さいのは、そのすぐ隣で眠っている赤子を起こさない為なのだろう。
「その、よかったのですか……?」
「なにが?」
安心させるように微笑むコンラートに、ラウラは心配そうに彼を見つめた。
「エンカルト様は、気付かれたのでしょう……?」
戸惑う声に、コンラートは、小さな笑みを浮かべた。
「彼は信頼して良い。神殿の不利益になることは決して口にしないよ。それに彼がいれば、きっとこれ以上の追求を避けてくれるだろうからね」
ラウラはコンラートの穏やかな瞳を見つめ、それからそばで眠っている赤子に目をやる。
「……はい」
ラウラはどこか不安げにうなずいた。
けれど彼女は決意していた。これから先、何があろうとコンラートを信頼し、ついていくのだと。そして、自らに与えられたこの小さな命を守るのだと。
「……君にも、迷惑をかける」
「迷惑などでは……!!」
ラウラはとっさに大きな声を出した。そして、はっとして赤子を見る。赤子は、ぴくりとまぶたを少しだけふるわせて、そのまま穏やかな寝息を立てている。
「私は、姫巫女様に信頼していただけて、そして、この子を託して下さって嬉しいのです。けれど、コンラート様は……」
「未練はないよ。一番大切な物は、もう、私の手からすり抜けて行ってしまったんだよ。これ以上、失いたくはないんだ」
心配そうに見つめるラウラから目をそらし、コンラートは赤子の頬をさらりと撫でた。
ラウラは切なげにそんな彼を見つめていた。
二人はこの日、エドヴァルドの神殿を出た。