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喫茶ストーンリバーのバイト日記  作者: 水無月菜乃花


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9/10

第9話「お疲れ様でした」

8月31日


最後のバイトの日。


暖簾をくぐると、いつもの時間に陽菜ちゃんが立っていた。


「おはようございます」


いつもと変わらない声。


いつもと変わらない笑顔。


それなのに、昨日のことが二人の間に薄い膜みたいに残っていた。


「おはよう」


それだけ返して、エプロンを手に取る。


普段ならこのあと、「今日も暑いですね」とか、「昨日テレビですとりーと出てましたよ」とか、どうでもいい話をしながら開店準備をする。


今日は、それがなかった。


陽菜ちゃんはグラスを並べ、俺はコーヒーカップを拭く。


店内には食器の触れ合う音だけが響いていた。


気まずい、というより。


何を話せばいいのかわからない。


昨日のことを口にしたら、また同じ話になってしまう気がして、お互い何も切り出せなかった。


※※※


開店すると、店はいつも通りだった。


田中さんが来て。


松本さんが来て。


注文を取って、コーヒーを淹れて、料理を運ぶ。


接客をしている間だけは、不思議なくらい昨日のことを忘れられた。


「陽菜ちゃん、これ持っていきなさい」


帰り際、田中さんが小さな包みを差し出した。


「え、いいんですか?」


「ハンカチ。長く使えるやつにしたから」


「ありがとうございます!」


嬉しそうに頭を下げる陽菜ちゃんを見ながら、思わず苦笑する。


……今日で辞めるの、俺なんだけどな。


そんな顔をしたのが伝わったのか、田中さんがこちらを見て笑った。


「康介くんのも、ちゃんと用意してあるから」


「あ、そうなんですね」


「心配しなくていいの」


先回りされてしまった。


接客の合間、何度か陽菜ちゃんと目が合った。


でも、そのたびにどちらからともなく視線を逸らしてしまう。


その小さな沈黙が、昨日の出来事を思い出させた。


※※※


夕方。


陽菜ちゃんのシフトが終わる時間になった。


制服に着替えた陽菜ちゃんが、ロッカーから戻ってくる。


「お先に失礼します」


「お疲れ様」


「……はい」


それだけだった。


いつもなら、もう一言くらい何か話していた。


「また明日お願いします」とか。


「今日も忙しかったですね」とか。


そんな何気ない一言すら出てこない。


陽菜ちゃんは小さく頭を下げると、そのまま店を出ていった。


ドアベルの音だけが、静かに店内へ響いた。


カウンターの向こうで、マスターがちらりとこちらを見る。


何も言わない。


でも、その目は「わかってるだろ」と言っているようだった。


※※※


閉店後。


最後の片付けを始める。


テーブルを拭き、椅子を上げ、床にモップをかける。


二年間、何百回も繰り返してきた作業だった。


最初は手順を覚えるだけで精一杯だった。


モップのかけ方ひとつでマスターに注意されたこともある。


今では、考えなくても体が動く。


ふと、カウンターを見る。


初めてソフトクリームを巻いた日。


田中さんに自分の好みを教えてもらったこと。


松本さんが孫の野球の話をしてくれたこと。


麻衣さんに何度もからかわれたこと。


マスターにコーヒーを教わったこと。


二年間。


この店には、本当にたくさんの思い出があった。


それなのに。


気づけば頭に浮かぶのは、この夏のことばかりだった。


初日に「ミックスジュース」が言えたと嬉しそうに笑っていたこと。


小さな字でメモを書きながら、「書いたという事実が大事なんです」と真顔で言っていたこと。


夏祭りの浴衣姿。


花火を見上げていた横顔。


「先輩が辞めるまでに、ちゃんと一人前になります」


そう言って笑った顔。


たった一か月だった。


それなのに、その一か月が二年間の思い出に並ぶくらい、大きな存在になっていた。


思わず、小さく笑う。


我ながら、現金なものだ。


※※※


片付けを終え、マスターとマミさんに最後の挨拶をした。


「二年間、お世話になりました」


頭を下げる。


「おう」


マスターはいつも通り短く返した。


少しだけ笑って続ける。


「また顔出せ。コーヒーくらい飲ませてやる」


「……はい」


マミさんも柔らかく笑った。


「お疲れ様。受験、頑張ってね」


「ありがとうございます」


エプロンを畳み、カウンターへ置く。


二年間身につけていたそれが、急によそよそしく見えた。


ロッカーで荷物をまとめ、スマホを取り出す。


通知が一件。


陽菜ちゃんからだった。


『お疲れ様でした』


短い一文。


絵文字も、スタンプもない。


それでも、その短さが昨日からの距離をそのまま表しているようで、胸が少し痛んだ。


『お疲れ様』


そう返せば、それで終わる。


明日からはもう、一緒に働くこともない。


このまま終わる方が、きっと楽だ。


スマホを見つめたまま、動けなかった。


そのとき、不意に麻衣さんの言葉が浮かぶ。


――たまにはカッコ悪くても、自分の気持ちを素直に伝えた方がいいこともあるのよ。


……カッコ悪くても。


確かに今の俺は、全然カッコよくない。


でも、このまま終わる方が、もっと後悔する気がした。


気づけば、通話ボタンを押していた。


スマホを耳に当てる。


呼び出し音が、一度鳴る。


その瞬間だった。


……すぐ後ろで、同じ着信音が鳴った。


思わず振り返る。


店の入り口。


陽菜ちゃんが、スマホを耳に当てたまま立っていた。

挿絵(By みてみん)

目が合う。


何も言わない。


少しだけ照れくさそうに笑う陽菜ちゃんを見て、


俺も、思わず笑ってしまった。

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