第9話「お疲れ様でした」
8月31日
最後のバイトの日。
暖簾をくぐると、いつもの時間に陽菜ちゃんが立っていた。
「おはようございます」
いつもと変わらない声。
いつもと変わらない笑顔。
それなのに、昨日のことが二人の間に薄い膜みたいに残っていた。
「おはよう」
それだけ返して、エプロンを手に取る。
普段ならこのあと、「今日も暑いですね」とか、「昨日テレビですとりーと出てましたよ」とか、どうでもいい話をしながら開店準備をする。
今日は、それがなかった。
陽菜ちゃんはグラスを並べ、俺はコーヒーカップを拭く。
店内には食器の触れ合う音だけが響いていた。
気まずい、というより。
何を話せばいいのかわからない。
昨日のことを口にしたら、また同じ話になってしまう気がして、お互い何も切り出せなかった。
※※※
開店すると、店はいつも通りだった。
田中さんが来て。
松本さんが来て。
注文を取って、コーヒーを淹れて、料理を運ぶ。
接客をしている間だけは、不思議なくらい昨日のことを忘れられた。
「陽菜ちゃん、これ持っていきなさい」
帰り際、田中さんが小さな包みを差し出した。
「え、いいんですか?」
「ハンカチ。長く使えるやつにしたから」
「ありがとうございます!」
嬉しそうに頭を下げる陽菜ちゃんを見ながら、思わず苦笑する。
……今日で辞めるの、俺なんだけどな。
そんな顔をしたのが伝わったのか、田中さんがこちらを見て笑った。
「康介くんのも、ちゃんと用意してあるから」
「あ、そうなんですね」
「心配しなくていいの」
先回りされてしまった。
接客の合間、何度か陽菜ちゃんと目が合った。
でも、そのたびにどちらからともなく視線を逸らしてしまう。
その小さな沈黙が、昨日の出来事を思い出させた。
※※※
夕方。
陽菜ちゃんのシフトが終わる時間になった。
制服に着替えた陽菜ちゃんが、ロッカーから戻ってくる。
「お先に失礼します」
「お疲れ様」
「……はい」
それだけだった。
いつもなら、もう一言くらい何か話していた。
「また明日お願いします」とか。
「今日も忙しかったですね」とか。
そんな何気ない一言すら出てこない。
陽菜ちゃんは小さく頭を下げると、そのまま店を出ていった。
ドアベルの音だけが、静かに店内へ響いた。
カウンターの向こうで、マスターがちらりとこちらを見る。
何も言わない。
でも、その目は「わかってるだろ」と言っているようだった。
※※※
閉店後。
最後の片付けを始める。
テーブルを拭き、椅子を上げ、床にモップをかける。
二年間、何百回も繰り返してきた作業だった。
最初は手順を覚えるだけで精一杯だった。
モップのかけ方ひとつでマスターに注意されたこともある。
今では、考えなくても体が動く。
ふと、カウンターを見る。
初めてソフトクリームを巻いた日。
田中さんに自分の好みを教えてもらったこと。
松本さんが孫の野球の話をしてくれたこと。
麻衣さんに何度もからかわれたこと。
マスターにコーヒーを教わったこと。
二年間。
この店には、本当にたくさんの思い出があった。
それなのに。
気づけば頭に浮かぶのは、この夏のことばかりだった。
初日に「ミックスジュース」が言えたと嬉しそうに笑っていたこと。
小さな字でメモを書きながら、「書いたという事実が大事なんです」と真顔で言っていたこと。
夏祭りの浴衣姿。
花火を見上げていた横顔。
「先輩が辞めるまでに、ちゃんと一人前になります」
そう言って笑った顔。
たった一か月だった。
それなのに、その一か月が二年間の思い出に並ぶくらい、大きな存在になっていた。
思わず、小さく笑う。
我ながら、現金なものだ。
※※※
片付けを終え、マスターとマミさんに最後の挨拶をした。
「二年間、お世話になりました」
頭を下げる。
「おう」
マスターはいつも通り短く返した。
少しだけ笑って続ける。
「また顔出せ。コーヒーくらい飲ませてやる」
「……はい」
マミさんも柔らかく笑った。
「お疲れ様。受験、頑張ってね」
「ありがとうございます」
エプロンを畳み、カウンターへ置く。
二年間身につけていたそれが、急によそよそしく見えた。
ロッカーで荷物をまとめ、スマホを取り出す。
通知が一件。
陽菜ちゃんからだった。
『お疲れ様でした』
短い一文。
絵文字も、スタンプもない。
それでも、その短さが昨日からの距離をそのまま表しているようで、胸が少し痛んだ。
『お疲れ様』
そう返せば、それで終わる。
明日からはもう、一緒に働くこともない。
このまま終わる方が、きっと楽だ。
スマホを見つめたまま、動けなかった。
そのとき、不意に麻衣さんの言葉が浮かぶ。
――たまにはカッコ悪くても、自分の気持ちを素直に伝えた方がいいこともあるのよ。
……カッコ悪くても。
確かに今の俺は、全然カッコよくない。
でも、このまま終わる方が、もっと後悔する気がした。
気づけば、通話ボタンを押していた。
スマホを耳に当てる。
呼び出し音が、一度鳴る。
その瞬間だった。
……すぐ後ろで、同じ着信音が鳴った。
思わず振り返る。
店の入り口。
陽菜ちゃんが、スマホを耳に当てたまま立っていた。
目が合う。
何も言わない。
少しだけ照れくさそうに笑う陽菜ちゃんを見て、
俺も、思わず笑ってしまった。




