第8話「選ばれたのは…」
8月30日
今日は模試と三者面談のため、夏休みの間としては珍しく学校に来ていた。
模試の手応えは悪くなかった。
三者面談でも、担任から特に問題はないと言われた。
志望校についても、
「このまま頑張れば十分届くと思うぞ」
と背中を押してもらえた。
順調だ。
少なくとも、受験に関しては。
面談が終わり、席を立とうとしたときだった。
「そういえば」
担任が思い出したように口を開く。
「バイトの方は、もう辞める目処ついてる?」
「夏休みいっぱいで辞めます」
「そうか。あとは受験に集中してくれよ」
「はい」
それだけの会話だった。
担任にとっては、ごく当たり前の確認。
俺だって、ずっと前からわかっていたことだ。
それなのに。
校門を出た瞬間、胸の奥に重いものが落ちてきた。
夏休みが終わる。
バイトも終わる。
頭ではわかっていたはずなのに、改めて言葉にされると、急に現実味を帯びてくる。
そんなことを考えていると、見覚えのある背中が目に入った。
直樹だった。
声をかけようとして、ふと足を止める。
直樹はスマホを耳に当てていた。
「あ、りおちゃん? 今終わったから行くね」
……りおちゃん?
聞き慣れない呼び方に、思わずその場で立ち止まる。
ちょうど電話が終わったところで声をかけた。
「直樹」
「あ、康介」
振り返った直樹が少し驚いた顔をする。
「どうした」
「この後どっか行かないかと思ったけど、邪魔だったか」
そう言うと、直樹が少し困ったように笑った。
「まあ、ちょっとな」
「そうなのか」
「最近、いい感じの子がいてさ」
「……へえ」
思わずそんな声が漏れる。
「そうか」
「うん」
少し前まで、女の子の話なんてほとんどしなかった直樹が、どこか嬉しそうな顔をしていた。
「お前のおかげだよ」
「……何が?」
直樹は少し笑った。
「じゃあな」
軽く手を上げると、そのまま駅の方へ歩いていった。
意味はよくわからなかった。
でも、その背中はなんだか楽しそうだった。
しばらくその背中を見送る。
……俺も。
気づけば、足は商店街の方へ向いていた。
※※※
暖簾をくぐると、真っ先に陽菜ちゃんがこちらを向いた。
「あれ? 先輩、その制服……」
「今日は模試と面談があって、学校行ってたんだ」
「あ、そうなんですね。お疲れ様です」
陽菜ちゃんが少し笑う。
「じゃあアイスコーヒーですか?」
「うん、頼む」
「はい。少し待っててください」
カウンターの向こうで、陽菜ちゃんがグラスに氷を入れる。
その様子をぼんやり眺める。
さっきまで胸の中にあった重たいものが、少しだけ軽くなっていく気がした。
「それにしても先輩——」
陽菜ちゃんが何か言いかけた、そのときだった。
カラン、とドアベルが鳴る。
「あ、颯太。いらっしゃい」
陽菜ちゃんがぱっと顔を上げ、笑顔で手を振った。
入ってきた颯太と目が合う。
ほんの一瞬だけ。
颯太はすぐに視線を陽菜ちゃんへ戻した。
「陽菜、昨日なんで帰っちゃったんだよ」
その言葉に、思わず手が止まった。
「え、昨日? 送別会あるって言わなかった?」
「そんなこと聞いてない」
「そうだっけ」
「聞いてないって」
少しずつ、颯太の声に棘が混ざっていく。
陽菜ちゃんも困ったように眉を下げていた。
その様子を見ながら、ふと思い出す。
昨日。
試合が終わったあと、陽菜ちゃんはここへ来てくれた。
颯太と一緒に帰るんじゃなく。
まっすぐ、この店へ。
そう思うと、なんとなく心に余裕が生まれていた。
「昨日は俺の送別会だったから」
気づけば口を開いていた。
「陽菜ちゃん、それに来てくれたんだよ」
「先輩……」
陽菜ちゃんが少し驚いた顔をする。
颯太がこちらを向いた。
「送別会?」
「俺、明日でここのバイト辞めるから。マスターたちが開いてくれてて、陽菜ちゃんも試合が終わってから来てくれたんだ」
しばらく沈黙が落ちた。
「でも試合には、仕事休んでまで来てくれたんですよね」
颯太がゆっくり言う。
「そうだね」
それは事実だった。
否定するつもりはない。
「それって、お店より試合を選んだってことですよね」
その言葉が少しだけ引っかかった。
「でも、送別会にも来てくれたよ」
「それは試合が終わったからで」
「試合が終わってから、真っ先にここに来てくれたんだ」
自分でも、なぜこんなに言葉が出るのかわからなかった。
「それって、送別会を選んでくれたってことじゃないのかな」
颯太の表情が少し硬くなる。
「仕事を休んでまで来たんですよ」
「送別会に駆けつけてくれたんだよ」
「試合を——」
「送別会を——」
「もう、二人ともやめて!」
陽菜ちゃんの声がカウンターに響いた。
俺と颯太が同時に顔を上げる。
陽菜ちゃんは真っ直ぐこちらを見ていた。
「私は、颯太の試合も大事だった」
少し間を置く。
「先輩の送別会も大事だった」
静かな声だった。
だからこそ、いつもより重く聞こえる。
「だから、両方行けるように考えただけなの」
俺も颯太も、何も言えない。
「それなのに、どっちを選んだとか、どっちの方が大事だったとか……勝手にそんな話にしないでよ」
店の中がしんと静まり返る。
その静けさが、余計に胸に刺さった。
「……ごめん」
颯太が小さく言った。
俺も少し遅れて口を開く。
「ごめん」
陽菜ちゃんは小さく息を吐いた。
怒っているというより、困っているような顔だった。
「私、仕事中なんで」
それだけ言うと、くるりと背を向けてカウンターの奥へ戻っていく。
残されたのは、俺と颯太だけだった。
気まずい沈黙が落ちる。
しばらくして、颯太がぽつりと言った。
「……俺が悪かったです」
「俺もだよ」
それ以上、言葉は続かなかった。
同じ方向を向くことが、なんとなくできなかった。




