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喫茶ストーンリバーのバイト日記  作者: 水無月菜乃花


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第7話「送別会」

8月29日


開店準備をしながら、三度目のため息をついた。


「それ、何回目?」


カウンターの中からマイさんの声が飛んできた。


「数えてたんですか」


「数えてないけど、多い」


コーヒーカップを棚に並べながら、麻衣さんがちらりとこちらを見る。


「陽菜ちゃんがいないの、そんなに寂しい?」


「……そうですね」


「あら、素直」


「隠しても仕方ないんで」


「ふうん」


マイさんは少しだけ黙って、手元のカップを並べ続けた。


「そんなに寂しいなら、来てほしいって言えばよかったじゃない」


「気を遣わせることになるじゃないですか。試合、見に行きたがってましたし」


そこまで言って、言葉が止まる。


「……それに?」


「いや……」


「カッコ悪いから?」


図星だった。


「……まあ」


マイさんが小さく笑う。


「だったら最後までカッコつけなさいよ」


「え?」


「自分で決めたことなんだから、最後まで貫きなさいって言ってんの」


返す言葉がなかった。


マイさんはカップを棚に戻しながら、何でもないような口調で続ける。


「今回は陽菜ちゃんのことを思って我慢したんだから、それはそれでよかったのかもしれないけどね」


「どういうことですか?」


「どうもこうもないわよ」


肩をすくめる。


「たまにはカッコ悪くても、自分の気持ちをちゃんと言ったほうがいいこともあるの」


少しだけこちらを見て、付け加えた。


「覚えときなさい」


「……はい」


その言葉が、なぜだか胸の奥に残った。


※※※


今日は午前中から、常連さんたちが次々と声をかけてくれた。


「康介くん、辞めるんだって?」


「寂しくなるねえ」


「大学、頑張れよ」


レジを打ちながら、コーヒーを運びながら、そのたびに頭を下げる。


二年前、初めてこの店に立った頃は、常連さんの顔と名前を覚えるだけで精一杯だった。


それが今では、誰がブラックで、誰が砂糖を二つ入れるのかまで自然にわかる。


そんなことを考えていると、昼過ぎにドアベルが鳴った。


「こんにちは」


田中さんだった。


いつもの窓際の席に座り、コーヒーを一口飲んでから、ふと思い出したように口を開く。


「康介くん、今日で最後なんですってね」


「シフト自体は31日もあるんですけど、今日が送別会で」


「そうなの」


田中さんはカップを置いて、小さく笑った。


「実はね、洋平さんに呼ばれてるの。送別会、参加させてもらっていいかしら」


「え、来てくれるんですか?」


「もちろん。二年間お世話になったもの」


その言葉に、胸の奥が少し温かくなった。


しばらくして、今度は勢いよくドアが開く。


「よう」


松本さんだった。


席につくなり、いつもの調子で言う。


「康介くん、俺も今日参加させてもらうよ。マスターから連絡もらってな」


「松本さんもですか」


「当たり前だろ。常連の特権ってやつだ」


豪快な笑い声が店内に響く。


グラスを磨きながら、ふと手が止まった。


さっきまで、自分は何を考えていたんだろう。


陽菜ちゃんのことばかりだった。


試合のこと。


颯太のこと。


自分の情けなさのこと。


でも、この二年間で繋がったのは陽菜ちゃんだけじゃない。


田中さんがいて。


松本さんがいて。


マスターがいて。


マミさんがいて。


マイさんがいて。


この店に来るたびに話しかけてくれる人たちがいる。


「……ありがとうございます」


気づけば、口からそんな言葉がこぼれていた。


「なんだ急に」


松本さんが笑う。


「いや、なんか……」


うまく説明できない。


田中さんが優しく笑った。


「楽しみにしてるわ、今夜」


静かにカップがソーサーに置かれる音がした。


※※※


午後五時になると、マスターがぽつりと言った。


「閉めるぞ」


いつもより二時間早い閉店だった。


暖簾をしまい、ドアに鍵をかける。


営業中の店が少しずつ片付いていく音が、いつもとは違って聞こえた。


そのままテーブルを動かし、椅子を並べ始める。


「……あの、マイさん」


「なに?」


テーブルクロスを広げながら、マイさんが振り向きもせず答えた。


「今日って、俺の送別会ですよね」


「そうよ」


「なんで俺が準備してるんですか」


ようやくマイさんが手を止めてこちらを見る。


「じゃあ誰がやるの」


「いや……」


「うちの両親や常連さんにやらせる気?」


「……そりゃそうですね」


「わかったら手を動かす」


「はい」


言われるまま椅子を並べていく。


マスター。


マミさん。


マイさん。


田中さん。


松本さん。


そして俺。


六人分。


少しだけ寂しい気もしたけれど、それでも十分だと思えた。


「もう一脚持ってきて」


マイさんが何気なく言った。


「え?」


「椅子」


「でも六人じゃないですか。マスター、マミさん、マイさん、田中さん、松本さん、俺で――」


その瞬間。


カラン、とドアベルが鳴った。


「遅くなりました! 手伝います!」


息を切らした声だった。


振り返る。

挿絵(By みてみん)

そこに、陽菜ちゃんが立っていた。


「なんでここに?」


思わず声が出た。


「なんでって、今日先輩の送別会じゃないですか」


陽菜ちゃんは当たり前みたいな顔をしている。


「でも試合は——」


「終わったんで、急いで帰ってきました」


頭がうまく追いつかない。


試合が終わって、そのまま来た。


じゃあ、最初から——。


「知ってたのよ、最初から」


マイさんが何でもない顔で口を挟んだ。


「陽菜ちゃん、送別会のこと忘れてたわけじゃないの。試合が終わったら来るつもりだったんだから」


「……え?」


「最初からその予定だったんだけど、面白いから康介には内緒にしようって、私が言ったの」


マイさんがにっこり笑う。


「お父さんもお母さんも、田中さんも松本さんも、みんな知ってたわよ」


全員。


俺だけ知らなかった。


つまり俺は、一人で勝手に落ち込んで、一人で勝手に悩んでいたわけだ。


「……聞いてないですよ、そんなこと」


「言ってないもの」


悪びれる様子はまったくない。


隣で陽菜ちゃんが少し申し訳なさそうに笑った。


「すみません。私も、それでいいかなって……」


「陽菜ちゃんいなくて寂しかったのよね?」


マイ

さんがこちらを見る。


「そんなことないですよ」


「素直じゃないわね」


「……」


「朝から何回ため息ついてたと思ってるのよ」


返す言葉がなかった。


「え、そうなんですか?」


陽菜ちゃんが目を丸くする。


「そんなに笑わなくても」


「すみません」


そう言いながらも、全然申し訳なさそうな顔じゃない。


マイさんも肩を揺らしている。


奥ではマスターとマミさんまで笑っていた。


なんだか馬鹿らしくなってきて、俺もつられて笑ってしまった。


※※※


送別会は、気づけば二時間が過ぎていた。


マスターはコーヒーの話をした。


マミさんは俺の失敗談を次々に暴露した。


ソフトクリームを盛大に床へ落とした話も、今では立派な笑い話だった。


「最初は本当に頼りなかったのよ」


田中さんがそう言えば、


「今じゃ立派なもんだ」


松本さんが笑う。


「私の知らない先輩がいっぱいですね」


陽菜ちゃんが楽しそうに目を輝かせる。


その言葉を聞いて、少しだけ思った。


俺も知らなかった陽菜ちゃんがいたように、陽菜ちゃんも知らない俺がここにはいる。


それでいいのかもしれない。


気づけば、ずっと笑っていた。


二年間の全部が、この席に集まっているような気がした。

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