第10話「寂しくなんかない」
8月31日 夜。
「……陽菜ちゃん?」
スマホを耳に当てたまま、目の前に立つ陽菜ちゃんを見つめた。
耳元では、まだ呼び出し音が鳴っている。
その音は、目の前の陽菜ちゃんのスマホからも聞こえていた。
お互い、少しだけ苦笑いして、同時に通話を切る。
「帰ったんじゃなかったんだ」
ようやくそれだけ言うと、陽菜ちゃんは少し照れくさそうに笑った。
「一回帰りました。でも……やっぱり、このままは嫌だなって思って」
スマホをポケットにしまう。
「先輩と、ちゃんと仲直りしたくて」
思わず笑ってしまう。
「それ、俺も」
「え?」
「電話しようと思った理由」
陽菜ちゃんも小さく笑った。
「一緒ですね」
その一言で、昨日から張りつめていた空気が少しだけほどけた。
それでも、お互い何から話せばいいのかわからなくて、店の前でしばらく黙ったまま立っていた。
先に口を開いたのは陽菜ちゃんだった。
「先輩。ちょっとだけ、昔の話をしてもいいですか」
「うん」
陽菜ちゃんは、小さく頷いた。
「私、小さい頃から近所ですごく仲のいいお兄ちゃんがいたんです」
「十歳上で、キャッチボールとか、自転車とか、いろんなこと教えてくれて。本当のお兄ちゃんみたいな人でした」
少しだけ遠くを見るような目になる。
「でも、そのお兄ちゃん、高校を卒業したら芸人になるって言って、地元を出ることになって」
声が少しだけ小さくなった。
「会えなくなるのが寂しくて。でも、寂しいって言えなくて」
少しだけ笑う。
「最後に会った時、『芸人なんてなれるわけないじゃん』って言っちゃったんです」
胸が少し痛んだ。
「言った瞬間、後悔しました」
「でも謝れなくて、そのまま逃げちゃって」
「最後が、あんな終わり方だったこと、ずっと後悔してました」
少し間を置いて、陽菜ちゃんは真っ直ぐ俺を見る。
「だから今日、このまま先輩と終わるのだけは嫌だったんです」
その言葉だけで十分だった。
「……謝るのは俺の方だよ」
陽菜ちゃんが首を傾げる。
「颯太と張り合ってさ」
苦笑いする。
「子供みたいだった」
少し息を吐く。
「正直、嫉妬してた」
「颯太は陽菜ちゃんのことを昔から知ってる」
「俺の知らない話をたくさん知ってる」
「俺は、この一か月しか知らない」
「敵わないって勝手に思って、焦って」
「それで昨日みたいなことになった」
全部言い終えると、不思議なくらい胸が軽くなった。
「ごめん」
陽菜ちゃんは少し黙ってから、柔らかく笑った。
「先輩がそんなこと考えてたなんて、全然知りませんでした」
「言ってなかったからね」
「でも、聞けてよかったです」
その笑顔を見て、昨日までの気まずさが少しずつほどけていく気がした。
しばらく他愛もない話をしてから、陽菜ちゃんがぽつりと言う。
「……今日で、本当に最後なんですね」
「うん」
今しかない。
そう思った。
「明日から、寂しくなるね」
言った瞬間、自分でも照れくさくなった。
陽菜ちゃんは一瞬だけきょとんとした。
そして、いつものように笑って言った。
「寂しくなんかないですよ」
——え。
頭の中が真っ白になった。
その一言だけが、何度も頭の中で繰り返される。
さっきまであんなに仲直りしたがってくれていたのに。
俺だけだったのか。
そう思った瞬間、胸の奥がすっと冷えていく。
言葉が出なかった。
「あ、もうこんな時間」
陽菜ちゃんが時計を見る。
「それじゃあ、また」
軽く手を振って、商店街の向こうへ走っていく。
呼び止めることもできず、その背中を見送った。
「……寂しくない、か」
夜の商店街に、その言葉だけが静かに溶けていった。
※※※
9月1日。
新学期初日。
校門をくぐっても、昨日の言葉が頭から離れない。
寂しくなんかない。
何度思い返しても、その一言だけが胸に引っかかる。
ため息をつきながら昇降口へ向かって歩いていると——
「先輩」
後ろから声がした。
聞き慣れた声。
でも、おかしい。
学校で俺を「先輩」と呼ぶ後輩なんているはずがない。
ゆっくり振り返る。
そこに立っていたのは——
制服姿の陽菜ちゃんだった。
「……え?」
思わず間の抜けた声が漏れる。
うちの学校の制服。
何度見ても見間違いじゃない。
「な、なんで」
陽菜ちゃんが少し照れくさそうに笑った。
「実は私たち、同じ高校なんです」
「…………は?」
思考が止まる。
「一昨日、先輩が制服で来たじゃないですか」
「え……じゃあ、あの時から?」
「はい」
陽菜ちゃんは頷いた。
「でも、その後すぐ色々あって、言うタイミングがなくなっちゃって」
少しだけいたずらっぽく笑う。
「だから昨日、言ったんです」
「寂しくなんかないって」
その瞬間。
昨日の言葉の意味が、一気に繋がった。
寂しくなんかない。
もう会えなくなるわけじゃない。
明日からも。
これからも。
学校で会える。
昨日まで胸につかえていたものが、一気にほどけていく。
思わず笑ってしまった。
陽菜ちゃんもつられて笑う。
「もう、授業始まりますよ」
陽菜ちゃんがそう言って歩き出す。
「先輩、またあとで」
そう手を振って、校舎の中へ入っていった。
俺はしばらくその場に立ち尽くしたまま、その後ろ姿を見送る。
そして、小さく笑った。
喫茶ストーンリバーのバイト日記 〜最後の夏休み〜
最終話「卒業辞めたい」
完




