第3話「LINE交換と男友達」
8月1日
陽菜ちゃんがストーンリバーにやってきて、10日が過ぎた。
この短期間で、陽菜ちゃんは基本的な仕事をほとんど覚えた。最初はミックスジュースひとつ運ぶのに戦地に赴くような顔をしていたのに、今ではひとりで軽々とこなしている。
常連の田中さんや松本さんとも、気づいたらすっかり仲良くなっていて、まるで昔からずっとここにいたような、そんな存在になっていた。
本人も毎日楽しそうで、それを見るのが俺も嬉しかった。
ただ、昨日だけは少し様子が違った。
小さなミスが重なって、閉店の頃にはすっかり落ち込んでいた。「私、向いてないのかもしれないです」と呟いた声が、帰り道もずっと頭に残っていた。
2年間働いてきた俺にはわかる。こういうことは意外と引きずるもんだ。今日もへこんでいるだろうから、先輩としてしっかり励ましてやろう。そう思いながら店のドアを開けると——陽菜ちゃんの明るい笑い声が聞こえてきた。
「そうなんですか? あ、康介先輩、おはようございます!」
陽菜ちゃんが話の途中で俺に気づいて、ぱっと顔を向けた。昨日あんなに落ち込んでいたのに、もう顔色が戻っている。
「おはよう、今日も元気だね」
「昨日はすみませんでした。今日からまたよろしくお願いします!」
深々とお辞儀をする。
心配するようなことでもなかったな、と思った。
「今、康介先輩のこと聞いてたんです」
「俺の?」
隣を見ると、見慣れた顔があった。
マスターとマミさんの娘、マイさん。俺より6つ上の24歳で、普段は別の仕事をしているが、夏休みや年末年始など忙しい時期になると手伝いに来てくれる。俺がバイトを始めた頃からの付き合いだ。
「あ、康介」
マイさんが俺を見てにやっとした。
「あんた、辞めるんだって? 私に相談もなしに」
「相談するようなことじゃないですよ」
「二年もいてそれ?」
「学校の決まりなんで」
「そんなのほっとけばいいのに」
マイさんが呆れたように笑った。
「真面目なんだから。まあ、あんたらしいわね」
「……どうも」
「でも」とマイさんが陽菜ちゃんに向き直った。
「陽菜ちゃんだっけ?この子がいてくれるなら何とかなりそうだし、まあ辞めてもいいわよ」
「何ですかそれ」
「事実じゃない」とマイさんが笑う。「ね、陽菜ちゃん」
「私、そんなに頼りになりますかね」と陽菜ちゃんが首を傾けた。
「なるなる。何てったって今日は私が教えてあげるんだから」
「ありがとうございます!」
陽菜ちゃんがまた深々とお辞儀をした。
マイさんがちらりと俺を見て、小さく口の端を上げた。
何かを言いたそうな顔だったけど、俺は見なかったことにした。
※※※
その日、マイさんが陽菜ちゃんに教えていたのはソフトクリームだった。
「これが作れないと夏は乗り越えられないわよ」
マイさんがコーンを持って、機械のレバーを引く。なめらかな白いクリームがくるりと巻かれていく。
「はい、やってみて」
「え、いきなりですか」
「こういうのはね、習うより慣れろ、よ」
陽菜ちゃんが恐る恐るコーンを構えた。レバーを引く。クリームが出てくる。少し歪んだけど、ちゃんと巻けた。
「できた!」
陽菜ちゃんが振り返って、俺に向けて差し出してきた。
「康介先輩、見てください!」
「……まあまあだね」
「まあまあ!?」
「上出来だよ、初めてにしては」
「最初からそう言ってください」
マイさんが「ふふっ」と笑った。
「康介が初めて作った時なんてひどかったよ。クリームの量が分からなくてレバー引き続けて、そこらじゅうソフトクリームまみれになって」
「言わなくていいですよ」
「お父さんに怒られてたもんねえ」
「言わなくていいですって」
陽菜ちゃんがぷっと吹き出した。
「康介先輩にも、そんな頃があったんですね」
「あった、あった」とマイさんが嬉しそうに続ける。
「やめてくださいって言ってるじゃないですか」
陽菜ちゃんがまた笑った。
俺はその笑顔を見ながら、そっぽを向いた。
でも、悪い気はしなかった。
※※※
しばらくして、常連の田中さんの注文が入った。
陽菜ちゃんがドリンクを作りながら、確認するように言った。
「田中さんってシロップ二つなんですよね」
それを聞いたマイさんが少し驚いた顔をして言う。
「まだ始めたばかりなのによく知ってるわね」
「全部メモしてますから」
得意そうに語る陽菜ちゃんに、マイさんがさらに続ける。
「それと、今日みたいな暑い日は氷を少し多めにするといいのよ。頼まれなくてもね」
「そういう気遣いがあるんですね」
「常連さんはそういうので喜ぶから」
陽菜ちゃんが「なるほど」と言いながらメモ帳を取り出した。
「それも書くの?」とマイさんが笑う。
「書いた、という事実が大事なんです」
「またそれか」
つい横から口を出してしまう。
「いいじゃないですか、私のやり方なんですから」
「読めない字で書いても意味ないだろ」
「読めますよ、だいたいは」
「だいたいって何だよ」
「完璧じゃなくてもいいんです、書いた事実が——」
「それはもう聞いた」
マイさんが俺たちのやりとりを見ながら、くすっと笑った。
「2人とも、仲いいわね」
「いや、そういうわけじゃ…」
「はい!」
陽菜ちゃんが即答した。相変わらずズルい。
マイさんがドリンクを持っていくと田中さんが受け取りながら、顔を上げた。
「あら、マイちゃん。久しぶりじゃない」
「お久しぶりです、田中さん」
「新しく入った陽菜ちゃんって、麻衣ちゃんにそっくりね。姉妹みたい」
「そうですか?」と陽菜ちゃんが少し照れたように聞いた。
「そうよ。洋平さんが採用した理由がよくわかるわ。あなたがなかなか顔出さないから寂しかったんじゃないの」
「もう、田中さんったら」とマイさんが頬を染めた。
陽菜ちゃんが「マイさんに似てるなんて、嬉しいです」とにこにこしている。
次に田中さんが俺の方を見て言った。
「康介くんは両手に花ね」
「え?」
「美人二人に囲まれて、楽しいでしょう?」
「そんなことは……」
「あら、違うの?」
田中さんが楽しそうに笑いながら顔を戻す。
マイさんがこちらをちらりと見て、口元を押さえた。
陽菜ちゃんは「両手に花って何ですか?」と首を傾けていた。
俺はドリンクを作る手に、妙な力が入っていた。
※※※
閉店後、締めの作業を終えて休憩室に向かうと、扉の向こうから声が聞こえてきた。
「陽菜ちゃんって、彼氏いるの?」
思わず足を止めて、耳を澄ませてしまう。
「そんなのいませんよー」
「でもモテるでしょ?」
「そんなことないですよ。仲良い男友達とかはいますけど、付き合うとかまだよくわからなくて」
なんとなく、それ以上聞くのが怖くなって、扉を開けた。
「お疲れ様です」
「あ、康介先輩。お疲れ様です!」
陽菜ちゃんがぱっと振り返った。聞いていたとは気づいていない様子だった。
「お疲れ、康介」とマイさんも笑った。
こっちは多分気付いてる。
俺はロッカーに向かって着替え始めた。
背中越しに二人の会話が続いている。
「陽菜ちゃん気に入っちゃった。もっといっぱい話したいな」
「私もです! マイさんって面白いですよね」
「でしょ。あ、LINE交換しよ?」
「はい!」
スマホを取り出す音がした。
これはチャンスかも。
バイトの連絡は基本的に店の電話で済む。だから陽菜ちゃんとLINEを交換する自然な機会がなかった。でも今なら、この流れに乗れば——。
俺は急いで着替えを済ませて、ロッカーからスマホを掴んだ。椅子に腰を下ろして、さりげなくテーブルの上に置く。画面が上になるように。
しばらく待った。
「……あ、同じ機種ですね」
陽菜ちゃんがようやく気づいた。
「そうだね」
「そのケース、かわいいですよね。私も欲しかったんですけど売り切れてて」
「……そうなんだ」
「どこで買ったんですか?」
「ネットで」
「ネットかあ……」
会話が終わった。
マイさんがこちらをちらりと見た。「だめじゃん」という顔だった。
少し間があってから、マイさんが口を開いた。
「そういえば康介、あんたのLINEって知らないわ。二年もいたのに今更だけど、交換しとく?」
「あ、そうですね。お願いします」
QRコードを読み込む音がした。交換が終わったところで、マイさんがちらりと陽菜ちゃんの方を見た。(ほら、早く。)目が完全にそう言っている。
今しかない。
「……陽菜ちゃんも、どう?」
声が少し上ずった。我ながらぎこちなかった。
「はい、ぜひ!」
ピコン、と音がした。
友達リストに「森陽菜」が追加された。アイコンは犬の写真だった。
「犬飼ってるの?」
「はい、大好きなんです!」
「……可愛いな」
「でしょ!」と陽菜ちゃんが笑った。
本当に、可愛い。
※※※
陽菜ちゃんが先に帰った後、マイさんが俺の隣に腰を下ろした。
「感謝しなさいよ」
「……何がでしょう」
「交換できたの、私のおかげでしょ」
「なんのことだか」
「とぼけなくていいって」
マイさんが笑う。
「どうせその前の話も聞いてたんでしょ」
「いや、そんなことは」
「彼氏いないって聞いた瞬間、入ってくるの遅くなったわよね」
図星だった。何も言えなかった。
「でも仲のいい男友達がいるって聞いた後は急いで入ってきたわね」
「……別に」
「その男友達って、部活頑張ってる友達のことかもね」
「……その話も聞いたんですか」
「いろいろ話してくれたわよ」
バイトを始めるきっかけになった幼馴染。その子が男の子かもしれないと思った途端、なんだか胸が苦しくなった。
「ま、頑張んなさいよ」
「だから何をですか」
返事はなかった。
マイさんはそのまま休憩室を出ていった。
俺はしばらくその場に座ったまま、スマホの画面を眺めた。
友達リストの「森陽菜」。アイコンの犬。
…仲のいい男友達。
……気にすることじゃない。
でも、気になった。




