第2話「ミックチュジューシュ」
7月22日
今日もいつものようにバイトに向かいながら、昨日のことを思い出していた。
新人の子に一目惚れをしてしまい、辞めるのをやめようかと一瞬思ったが、よく考えたら俺が辞めるから新しい子を入れたわけで。今更撤回したら陽菜ちゃんの採用はどうなるんだという話だし、マスターにも迷惑がかかる。
どう転んでも、俺は辞めるしかない。
そう結論づけたはずなのに——
開店前に店に着くと、すでにエプロンをつけた陽菜ちゃんがカウンターの前に立っていた。
「あ、おはようございます!」
ぱっとこちらを向いて、笑顔で頭を下げる。
昨日と同じ顔なのに、また胸の奥がざわっとした。
やっぱり可愛い。でもそんなことは言えない。
「おはよう、ずいぶん早いね」
「緊張して早く来ちゃいました」
そう言いながら全然緊張してなさそうな顔をしている。それがまた心に刺さる。
マスターがカウンターから顔を出した。
「康介、今日から森の教育係な」
「え、俺ですか」
「お前しかいないだろ」
確かに。マスターとマミさんは店を回すのに手一杯だ。バイトは俺と陽菜ちゃんだけ。
「わかりました」
「よろしくお願いします!」
陽菜ちゃんが俺に向かって深々とお辞儀をした。
顔が上がる。……その笑顔でまた、決意が揺らいでしまう。
※※※
まず最初にドリンクメニューを一通り説明した。
陽菜ちゃんはエプロンのポケットから小さなメモ帳を取り出して、一言一句逃さず書き留めていく。
字が小さい。ものすごく小さい。
「コーヒー、紅茶、ミルク……」
呟きながら、せっせとペンを走らせている。
その横顔が妙に真剣で、思わず目が止まった。
俺はそのメモ帳をちらりと覗いた。
「コーヒー」「紅茶」「ミルク」「ジュース」
一語一語、丁寧に書いてある。
「……それ、書く必要ある?」
陽菜ちゃんが顔を上げた。
「必要あります」
即答だった。
「コーヒーとか、普通にわかるだろ」
「書かないと不安なんです」
「読めない字で書いても不安じゃないの?」
「書いた、という事実が大事なんです」
なんか、妙に哲学的なことを言われた。
でも、その言い方がなんか可愛くて、それ以上突っ込めなかった。
そのまま説明を続けていると、隣でぶつぶつ言う声が聞こえてきた。
「……ミックチュジューシュ、ミックシュ……」
「何言ってんの?」
陽菜ちゃんが顔を上げた。
「先輩、ミックチュジューシュって言えますか?」
「……なんて?」
「だから、ミックチュ……あ、もう!」
陽菜ちゃんが小さく頭を抱えた。
「これ言いにくくないですか?舌がもつれる」
「ミックスジュースね」
陽菜ちゃんがじろっとこちらを見た。
「……今ちょっとバカにしましたよね」
「してない」
「絶対しました。じゃあこれ言えます?」
陽菜ちゃんがメモ帳に何かを書いて、こちらに突きつけた。
『キャラメルマキアートフラペチーノ』
俺は一瞬間を置いた。
「……キャラメルマキア、アートフラ」
「フラペチーノ、です」
陽菜ちゃんが静かに言った。
「……わかってる」
「言えてなかったですよ」
「うちにないメニューだから言う必要がない」
「さっきバカにしましたよね」
「……してない」
陽菜ちゃんが頬を膨らませてこちらを見た。
怒ってる。でもなんか、それがまた可愛かった。
「お互い様ってことで、ミックチュジュースは私が覚えます」
また噛んだ、と思ったがそのまま続ける。
「先輩はキャラメルマキアートフラペチーノを練習しておいてください」
「うちにないから練習しない」
「ズルいです」
ヤバい、こんなやりとりが楽しくて仕方ない。
※※※
しばらくして、厨房からマミさんの声が飛んできた。
「三番テーブル、ミックスジュースお待ちどうさま」
陽菜ちゃんがぴくっと反応した。
「あの、先輩」
「なに?」
「これって、出す時に名前言いながら出すんですよね?」
「そうだよ、お待たせいたしました、ミックスジュースです、って」
陽菜ちゃんの目が、すっと真剣になった。
「私にやらせてください」
「……できる?」
「やります」
返事が早かった。
陽菜ちゃんがグラスをソーサーに乗せて、両手でしっかり持つ。三番テーブルに向かって歩き始める前に、一度だけ小さく深呼吸をした。
まるで戦地に赴く人みたいだった。
三番テーブルのお客さんは気づいていない。
陽菜ちゃんがテーブルの前に立った。
一呼吸。
「お待たせいたしました、ミックスジュースです!」
店内に響く大きな声。
完璧だった。
グラスをテーブルに置くと、お客さんが驚いたように「あ、ありがとう」と言う。
陽菜ちゃんがカウンターに戻ってくる途中、こちらを振り返った。
小さく、でもはっきりと、ガッツポーズをしていた。
カウンターに戻ってきた陽菜ちゃんが、そのままの勢いで手を差し出してきた。
「やりました!」
「……お疲れ」
思わずハイタッチを返してしまった。
陽菜ちゃんがにっこり笑う。
これはズルい、と思った。
※※※
閉店後、マミさんが「今日はお疲れ様、ちょっとだけ付き合って」と言って、テーブルにジュースとお菓子を出してくれた。
小さな歓迎会、という感じだった。
四人でテーブルを囲んで、陽菜ちゃんが「こんなことまでしてもらって、ありがとうございます」と深々と頭を下げた。
「今日はありがとうございました。上野さんにも色々教えてもらって」
「康介でいいよ」
「え?」
「上野さんって言われると、なんか落ち着かないから」
「じゃあ、私も陽菜でいいです」
「……わかった」
マスターが「なれなれしいな」と言った。
「あなたが言いますか」とマミさんが笑う。
しばらくして、マミさんが陽菜ちゃんに聞いた。
「陽菜ちゃんって、なんでバイトしようと思ったの?」
「高校生といえば部活かバイトじゃないですか」
「まあ、そうね」
「あと……働いてる人って、かっこいいじゃないですか」
マミさんが「あら」と言った。
「小さい頃からずっと一緒にいた友達が、中学で部活始めて。最初は普通だったんですけど、どんどん活躍するようになって。なんか、置いてかれてる気がして」
「それで?」とマスターが珍しく真剣な顔で聞いた。
「でも、自分でやりたいと思える部活も特になくて。だから高校に入ったら絶対バイトしようって決めてたんです。働いてる方がかっこいいし、自分も何かやってる感じがするから」
「夏休み初日に張り紙見つけて飛び込んできたのはそういうわけか」とマスターが言った。
「そうです、もう運命だと思って」
「見どころあるな」
マスターにしては珍しく、素直な褒め言葉だった。
「そういうわけで、これからもよろしくお願いします!」
陽菜ちゃんがまた深々とお辞儀をした。
マスターが「康介、しっかり教えてやれよ」と言った。
「わかってます」
そう答えながら、さっきの陽菜ちゃんの話を思い返していた。
この子には、ちゃんと自分の理由がある。負けたくない気持ちも、だから動くっていう芯の強さも、全部本物だ。
外見とか仕草とか、そういうことじゃなく、陽菜ちゃんという人物そのものに惹かれてしまった自分がいる。
この子のことをもっとちゃんと知りたい。本気でそう思った瞬間、
「康介先輩が辞めるまでに、ちゃんと一人前になります」
陽菜ちゃんがまっすぐ俺を見て言った。
その言葉で、再び自分の立場を思い出した。
…やっぱり、辞めなきゃダメ?




