第1話「俺の青春」
7月21日
今日から夏休み。
駅から歩いて五分。商店街の端っこにある小さなお店の前に俺は立っていた。
『喫茶StoneRiver』
暖簾の向こうから、豆を挽く音と、コーヒーの匂いがする。
カウンターに六席、窓際にテーブルが三つ。
こぢんまりしているけど、それがいい。
マスターの石川洋平さんと奥さんのマミさんが二人で切り盛りする、小さな喫茶店だ。
「ストーンリバーはイギリスの言葉で石と川、俺たちの名前から取ったんだ」
最初の面接のとき、笑いながらそう教えてくれたマスターがやけにかっこよくて、ここで働けるのが心底楽しみになったのを今でも覚えている。
今日もバイトは十時から。
俺——上野康介、高校三年——は、その暖簾の前で少しだけ深呼吸した。
高一の夏休みから始めて、二年間働いてきた、俺の青春の全てが詰まった店。
今日、俺はこの店を辞める。
※※※
暖簾をくぐると、カウンターの中でマスターがコーヒーを淹れていた。
「おう、康介。来たか」
「おはようございます」
エプロンを手に取りながら、俺は切り出した。
「あの、マスター、ちょっと話があって」
「なんだ」
「夏休みいっぱいで、辞めなきゃいけなくなりました」
マスターが手を止めてこちらを向いた。
「急だな。どうした」
「学校のバイト許可が二年生までだったみたいで。本当は三年になる前に辞めないといけなかったんですけど」
「じゃあ何で続けてたんだ」
「それが、この制度あまり機能してないみたいで、俺にバイト認定が降りてること自体、学校側が忘れてたらしいんです。今日一年の時の担任に確認取られて発覚して、流石にすぐ辞めるのは迷惑かけるから、夏休みいっぱいは猶予もらいました。今の担任に至っては、俺がバイトしてること自体知らなかったみたいで」
「適当な学校だな」
マスターが呆れたように笑った。
「そんなんなら許可なくやってても気づかれないんじゃないか」
「いや、流石にそれは……それに受験勉強もしないといけないですし」
「今からで間に合うのか」
「やるしかないんで」
「まあそうだな」
マスターが肩をすくめた。
「落ちたらうちで働いてくれよ。戦力になるし」
「縁起でもないこと言わないでください」
マスターが豪快に笑った。
奥からマミさんが「あなた、デリカシーないよ」と言った。
「褒めてんだよ」
「褒めてないから」
初対面のかっこよさが嘘みたいだ。
……いや、よく考えたら最初からおかしかった。
「イギリスの言葉」ってなんだよ。ただの英語じゃねーか。
マスターが「寂しくなるな」と、さらっと言った。
笑いながら言うから、冗談なのか本気なのか分からない。
でもまあ、この人はそういう人だ。
「久しぶりにこれを使うか」
マスターが引き出しを開けて、一枚の紙を取り出した。
『アルバイト募集 履歴書不要』
二年前、俺がバイトを始めるきっかけになった張り紙だった。
※※※
「履歴書不要って、マジ?最高じゃん」
思わず声が出る。
目の前にある張り紙を、もう一度見直す。
『アルバイト募集 履歴書不要』
明日から夏休み。
バイトを探さないとと思っていた矢先にこれだ。運命としか思えない。
高校生といえばアルバイト。
そんな単純な理由で、入学してすぐにでも始めるつもりだった。
——なのに、入った高校はバイト禁止。
それでも諦めきれなくて、一学期中ずっと担任に食い下がった。
勉強も行事も手を抜かず、とにかくアピールし続けた。
その結果——今日。
「上野、バイトの件、許可する。頑張れよ」
終業式のあと、担任にそう言われた。
その足で帰る途中、この張り紙が目に入った。
次の瞬間にはもう暖簾をくぐっていた。
店に入ると、カウンターの中に長身の男の人がいる。
「すみません、外の張り紙を見たんですけど」
顔を上げたその人は、パッと見て俳優みたいな顔をしていた。
「いつから来れる?」
名前も年齢も、何も聞かない。いきなりそれだけ聞いてくる。
「え、いきなりですか?」
「なんだ、冷やかしか?」
奥から女の人が顔を出した。
「あなた、そんな言い方しないの。びっくりするじゃない」
「いや、冷やかしかどうか確認しただけだ」
「確認の仕方ってものがあるでしょ」
その人が俺に向かって「ごめんね」と苦笑した。
「いや、明日からでも来れます」
「じゃあ明日の十時から。よろしくな。ええと」
「上野です。上野康介」
「そうか、俺は石川洋平だ」
石川。
その名前を聞いた瞬間、入り口の看板に目がいった。
「あ、店の名前って」
石川さんが少し得意げな顔をした。
「そう、イギリスの言葉で石と川。俺たちの名前から取ったんだ」
そう言って笑うこの人がとてもかっこよくて、明日からここで働けることが心底楽しーー
「おい、何ぼーっとしてんだ」
※※※
マスターの声で我に帰ると、もう夕方になっていた。
「す、すみません、ちょっと懐かしくなって」
「感傷に浸るのは辞めてからにしろ」
マスターがカウンターから顔を出した。
「それより、バイト決まったから」
「え、もう?張り紙貼ったばっかりじゃないですか」
「貼ったらすぐに飛び込みで入ってきて、働きたいって言うから、その場で即採用した」
「……早すぎませんか」
マスターが少し得意げな顔をした。
「どっかの誰かみたいだろ」
返す言葉がなかった。
「ほら、挨拶しろ」
マスターが厨房のドアを開けた。そこに女の子が立っていた。
黒くてまっすぐな髪。大きな目。
俺の顔を見るなり、ぱっと表情が明るくなる。
「あ、こんにちは!森陽菜です、よろしくお願いします!」
深々とお辞儀をする。
顔が上がる。
その瞬間、心臓が跳ねた。
なんだこれ。頭が一瞬真っ白になって、でも目が離せなくて。幼稚園の頃、初恋の担任の先生を初めて見た時以来の感覚だった。
「う、上野康介です、よろしく」
我ながら情けない声が出た。
「上野さんが先輩になるんですね!」
その子——陽菜ちゃんがにこっと笑った。
その笑顔を見た瞬間、さっきの感覚が確信に変わった。
そんな俺を気にもとめず、陽菜ちゃんはマスターに向き直った。
「あの、私、学校にも許可もらってるんですけど、許可証とか持ってきた方がいいですか?」
マスターが「別にいい」と言った。
「学校はどうでもいい。ただ親御さんの許可は必要だから、今日の夜に電話で説明させてくれ。でないと変なことになりかねないから」
そう言ってマスターがちらりと俺を見た。
「あれは何もかもいきなりすぎて、親が怪しい仕事じゃないかって最初全然信じてくれなくて」
「闇バイト扱いされたぞ」
「…すみません」
陽菜ちゃんがぷっと吹き出した。
声を立てて笑う顔が、眩しかった。
接客用の笑顔とは違う、マスターの冗談に素直に反応した、飾りのない笑顔だ。
こんな可愛い笑顔を見ながら働けるなんて、このバイトがさらに楽しくなりそうだ。そんな気持ちで胸がいっぱいになった。
そう思った瞬間。
「あ、こいつは夏休みいっぱいで辞めるから、短い間だけどよろしくな」
マスターがさらっと言った。
陽菜ちゃんが「え」という顔でこちらを見た。
その目と、一瞬だけ、視線が合った。
——そうだった。
俺、辞めるんだった。
陽菜ちゃんとマスターの顔を見比べながら、すでに今朝の発言を後悔し始めていた。
喫茶ストーンリバーのバイト日記〜最後の夏休み〜
第一話「辞めるの辞めたい」




