第8話:侵食される日常と、手放せない心地よさ
雨の夜にあのずぶ濡れの美青年を拾い上げてから、ちょうど一週間が経過していた。
月曜日の朝。遮光カーテンの隙間から差し込む澄んだ光が、寝室の壁に柔らかな白のグラデーションを描き出している。
葵は、目覚まし時計の不快な電子音が鳴り響くよりも数分早く、自然と瞼を持ち上げた。
「……ん」
微かに身じろぎをして、シーツの感触を確かめる。
いつもなら週の始まりの朝といえば、全身を鉛の鎧で覆われたかのような激しい倦怠感と、胃の奥にへばりついた重たい吐き気とともに目を覚ますのが常だった。月曜日の朝など、この世で最も忌むべき呪いのような時間帯だったはずだ。重い身体を無理やり引きずり起こし、充血した目で鏡を睨み、ため息とともに一日を始める――それがここ数年間、藤堂葵が繰り返してきた月曜の儀式だった。
しかし、今朝の目覚めは驚くほどに軽やかだった。
頭の芯を覆っていた澱のような頭痛は消え失せ、四肢の先までしっかりと血が巡っているのが分かる。
何より、鼻腔をくすぐる空気の質がまるで違っていた。
以前のこの部屋は、締め切った湿気と埃っぽさ、そして脱ぎ散らかした衣類から微かに漂う生活臭が淀んでいた。それが今や、窓から取り込まれた新鮮な朝の風とともに、ほんのりと香る柔軟剤の爽やかなリネンの匂いと、廊下の向こうから微かに漂ってくる清潔な石鹸の香りに満ちている。
葵はベッドから抜け出し、素足でフローリングを踏みしめた。
ペタ、と吸い付くような床の感触。埃ひとつ、髪の毛一本すら落ちていない。
一週間前までは、足の踏み場を探して書類の山やつまづきそうな雑誌の束を避けて歩いていたのが、今では嘘のように広々とした空間が保たれていた。
「……本当に、夢じゃないのよね」
葵は独り言を呟きながら、クローゼットの扉を開けた。
そして、そこに掛けられた一着のブラウスを目にした瞬間、葵の口元が思わず感嘆の吐息を漏らした。
真っ白な、とろみ素材のスキッパーブラウス。
普段ならクリーニング店に出すか、あるいは自分で洗濯機に放り込んだ挙句、シワシワになった生地を「ジャケットを着て隠せばいいや」と妥協して着ていた服だ。
そのブラウスが今、まるで高級ブティックのディスプレイのように、寸分の狂いもなく美しく整えられてハンガーに掛かっていた。
襟元には立体的なロールが保たれ、前立ての合わせ目は定規を当てたように真っ直ぐ。袖口のカフスにはピシリと端正な折り目がつけられ、生地全体にふんわりとした上質なスチームが行き渡っている。
(……完璧すぎる)
葵は指先でそっと生地に触れた。滑らかな手触りと、ほのかに残る温もり。
昨夜、葵が泥酔から目覚めてベッドへ移動した後、湊が夜なべをしてアイロンを掛けてくれたのだ。
『葵さんのブラウスは繊細な素材が多いですから、当て布をして低めの温度でスチームをかけないとテカりが出ちゃうんです。僕、葵さんが会社で一番かっこよく見えるように、毎日完璧に仕上げておきますね』
そう言って、葵の目の前で慣れた手つきでアイロン台を操っていた湊の横顔が脳裏に蘇る。真剣な眼差し、すっきりと通った鼻筋、そして長い睫毛。まるで芸術品を手入れする職人のようなその所作は、到底ただの家出少年とは思えない手際の良さだった。
葵はそのブラウスを身に纏い、チャコールグレーのテーパードパンツに足を通した。
肌に触れる生地の清潔感と、ピシリと決まったシルエット。
それだけで、背筋がすっと自然に伸び、胸の奥から仕事へと向かう活力が湧き上がってくるのを感じた。服ひとつで、これほど人間の気分が変わるものなのかと、葵は鏡の中の自分を見つめて驚きを隠せなかった。
リビングへ出ると、キッチンからコトコトと心地よい煮炊きの音が響いていた。
「あ、葵さん! おはようございます」
エプロン姿の湊が、パッと顔を輝かせて振り返った。
休日に一緒に買い揃えた、深いネイビーのカットソーに薄いグレーのパンツ。すっかり部屋に馴染んだ姿は、どこからどう見ても『新婚生活を送る若き夫』か、あるいは『忠実極まりない完璧な執事』だった。
「おはよう、湊くん。……あのブラウス、アイロン掛けてくれたのね。ありがとう、すごく綺麗でびっくりしたわ」
「えへへ、喜んでもらえてよかったです! 葵さんの肌の色にあの白がすごく映えるので、一番いい状態で着てほしくて」
湊は照れくさそうに笑いながら、手際よく小鉢をテーブルへと運んだ。
今朝のメニューは、鶏ささみと三つ葉をあしらった滋味あふれる卵粥と、ふっくらと焼き上げられた甘塩のタラ、そして大根と油揚げの赤出汁だった。
「週の初めは胃腸に負担をかけないように、消化に良くて身体が温まるお粥にしてみました。梅肉と刻み海苔を添えてあるので、お好みで味を変えてみてくださいね」
「お粥……! 嬉しい、月曜の朝ってあんまり重いもの入らないから、すごく助かるわ」
葵は向かい合って座った湊とともに手を合わせ、スプーンでお粥をすくった。
ふうふうと息を吹きかけ、口の中へ運ぶ。
鶏ガラと昆布の優しい出汁がお米の一粒ひと粒に染み渡り、卵のまろやかさと三つ葉の爽やかな香りが鼻腔を抜ける。梅肉を少し崩して混ぜれば、程よい酸味が食欲を心地よく刺激した。
「……美味しい。身体の芯から解けていくみたい」
「よかったです。いっぱい食べて、今日も一日頑張ってくださいね」
湊は葵がお粥を美味しそうに頬張る姿を、まるで宝物でも見つめるかのように優しい眼差しで見つめていた。その瞳には、打算も邪念も何一つなく、ただひたすらに葵を満たすことへの喜びだけが湛えられている。
朝食を平らげ、歯磨きを済ませてメイクを整えた葵が、バッグを手に玄関へ向かおうとした、その時だった。
「葵さん、待ってください!」
キッチンから小走りで戻ってきた湊の手には、淡い桜色のクロスで丁寧に包まれた、長方形の小さな包みが握られていた。
「……え? それ、何?」
葵が目を瞬かせると、湊は両手で大切そうにその包みを葵へと差し出した。
「お弁当です。葵さん、いつもお昼はコンビニのサンドイッチか、カップ春雨スープで済ませてるって言ってたじゃないですか」
「お、お弁当……!?」
葵の口から、素っ頓狂な声が漏れた。
「はい! 会社の給湯室に電子レンジはありますか? なくても美味しく食べられるように、冷めても固くならないおかずを中心に詰めておきましたから。外で買うよりずっと健康的ですし、葵さんの午後のお仕事のエネルギーになればいいなって思って」
差し出された包みからは、まだほんのりと温かい温もりが伝わってくる。
葵はおずおずとその包みを受け取った。
手作りのお弁当。
学生時代に母が作ってくれて以来、一度たりとも自分の生活に関わったことのなかったアイテム。独身の一人暮らしになってからは、お弁当箱のコーナーに立ち寄ることすら皆無だった。
それを、十八歳の男の子が早起きして作ってくれたのだ。
「な、中身は何が入ってるの……?」
葵が尋ねると、湊は得意げに指を折って数え上げた。
「えっとですね、メインは豚肉のインゲンと人参巻きの甘辛照り焼きです。冷めてもパサつかないように、お肉の内側に薄く小麦粉を振って肉汁を閉じ込めてあります。それから、葵さんの大好きな甘めの出汁巻き卵と、ブロッコリーのおかか和え、自家製のきんぴら蓮根と、ミニトマト。ご飯は十六穀米で、真ん中にハチミツ梅干しを乗せておきました。あ、お箸とお手拭きも巾着の横にセットしてありますからね!」
「……っ」
完璧すぎる。
栄養バランス、彩り、冷めた時の食感の計算に至るまで、完全にプロの料理人の配慮だった。
「あ、あのね、湊くん……これ、毎朝作るのは大変でしょう? 朝ご飯だけでも十分すぎるのに、お弁当までなんて……」
「大変なんかじゃないです!」
湊はブンブンと首を横に振った。
「僕が作りたくて作ってるんです。葵さんが僕の作ったご飯を食べて、午後も元気にお仕事できるって考えたら、楽しくて仕方ないですから。……それとも、僕のお弁当、迷惑でしたか……?」
湊がキュッと眉を寄せ、捨てられた仔犬のように不安げな瞳で葵を見上げてくる。
そんな顔をされて、断れる人間がこの世にいるはずがない。
「め、迷惑なわけないじゃない! ものすごく嬉しいわよ! 大切に食べるわ!」
葵が慌てて包みを胸元に抱きしめると、湊の表情は一瞬で満開の向日葵のように明るくなった。
「よかった……! あ、それから葵さん、足元見てください」
「え?」
言われるがままに玄関のたたきを見下ろした葵は、再び息を呑んだ。
そこには、葵が今日履いていく予定だった黒のレザーパンプスが、寸分の狂いもなく真っ直ぐに揃えられて置かれていた。
それだけではない。
先週末の雨水や泥でかすかにくすんでいたはずのレザーの表面が、専用のクリームで丁寧に磨き上げられ、まるで新品のように艶やかな光沢を放っていたのだ。かかとのゴムの減りまで綺麗に拭き取られ、靴の内側には爽やかな除菌消臭スプレーの香りが漂っている。
「靴も、磨いてくれたの……?」
「はい! 『お洒落は足元から』って言いますし、何より営業やプレゼンで外を歩く葵さんの靴がピカピカなら、葵さんの自信にも繋がるかなって思って。昨日、葵さんがお昼寝してる間に磨いておきました」
湊は当然のことをしたまでだと言わんばかりに、屈託のない笑みを浮かべている。
葵は靴に足を滑り込ませた。
手入れされた革がしなやかに足の甲を包み込み、驚くほど吸い付くようなフィット感を生み出す。
「……ありがとう、湊くん。本当に行ってくるわね」
「はい! いってらっしゃい、葵さん!」
湊は玄関の上がり框の上にきちんと両膝を揃えて座り、深々と頭を下げた。
ドアノブに手をかけ、外へ踏み出す葵の背中に、温かな声が投げかけられる。
「今日も一日、葵さんが笑顔で過ごせますように!」
パタン、と静かに閉まった扉の向こうの温もりを背中に感じながら、葵はエレベーターへと歩き出した。
磨き上げられた靴が、廊下の絨毯を軽やかに踏みしめる。
手の中には、まだ温かい手作りのお弁当。
胸の奥が、ぎゅっと締め付けられるような、甘くて重い感情で満たされていた。
***
正午過ぎの『スタジオ・アーク』のオフィス。
普段なら社員食堂へ向かうか、コンビニのビニール袋をぶら下げて自席で虚無の表情でサンドイッチを詰め込む時間帯だ。
葵は自席のデスクを片付けると、給湯室の隣にあるリフレッシュルームの丸テーブルに腰を下ろした。窓から初夏の陽光が差し込む明るいスペースだ。
バッグから取り出したのは、淡い桜色のクロスに包まれたお弁当箱。
周囲に人がいないことを確認し、葵は少し緊張しながら結び目を解いた。
現れたのは、シックな木目調の二段重ねのランチボックス。
上段の蓋をそっと外した瞬間、葵の口から「わぁ……」と感嘆の声が漏れた。
――そこには、まるで料理雑誌の巻頭グラビアのような、完璧な小宇宙が広がっていた。
艶やかな照りをまとった豚肉の野菜巻きが、一口サイズに美しく切り揃えられて三つ並んでいる。断面から覗くインゲンの鮮やかな緑と、人参の鮮烈なオレンジ色が美しいコントラストを描いていた。
その隣には、焦げ目ひとつない黄金色の出汁巻き卵。一切の型崩れもなく、ふっくらとした厚みを保っている。
ブロッコリーのおかか和えは、深い緑色に鰹節の茶色がアクセントとなり、きんぴら蓮根は飾り切りが施されていて見た目にも涼やかだ。隙間には赤く熟したミニトマトが瑞々しく収まり、彩りのバランスは完璧だった。
下段を開ければ、ふっくらと炊き上げられた十六穀米。紫がかったご飯の中央に、大粒のハチミツ梅干しが鎮座し、周りには香ばしい白ごまが散らされている。
「……本当に、十八歳の男の子が作ったの、これ?」
葵は添えられていた木製のお箸を手に取り、まずは豚肉の野菜巻きを口に運んだ。
サクッ、ジュワッ。
噛み締めた瞬間、葵の目が丸くなった。
美味しい。
冷めているはずなのに、お肉が驚くほど柔らかい。湊が言っていた通り、薄くまぶされた小麦粉が肉汁をしっかりと閉じ込めており、噛むほどに豚肉の甘みとタレのコクが溢れ出してくる。中のインゲンはシャキシャキとした絶妙な歯ごたえを残し、人参は甘辛いタレを吸ってとろけるように柔らかい。
すかさず、十六穀米を一口。
プチプチとした雑穀の香ばしさと、ふっくらとしたお米の甘みが、肉巻きの濃厚なタレを優しく受け止める。
次に出汁巻き卵を口へ運ぶ。
冷えてもなお、ジュワリと上品な一番出汁が染み出してくる。朝食で食べた時とは少し配合を変えているのだろうか、冷めた状態でも出汁の香りが際立つよう、ほんの少しだけ塩気を利かせた味付けになっていた。
「……嘘でしょ。冷めても美味しいお弁当の工夫まで知ってるなんて……」
箸が止まらない。
きんぴら蓮根の小気味よい歯ごたえ、ブロッコリーに絡む出汁醤油と鰹節の風味、そして口直しにぴったりの甘酸っぱい梅干し。
一口食べるごとに、全身の細胞にじわじわとエネルギーが満ちていくのが分かった。
添加物だらけのコンビニ弁当を食べた後のような、喉の渇きや胃もたれは一切ない。ただひたすらに、身体に優しく、心を満たす味。
「あれ? 藤堂マネージャー、珍しいですね!」
不意に背後から声を掛けられ、葵はビクッと肩を跳ねさせた。
振り返ると、チームの若手女性デザイナーのミホと、同期のエースディレクターである結城が、ランチのサンドイッチを手に立っていた。
「え? あ、ミホちゃん、結城くん」
「葵さんがリフレッシュルームでお昼なんて珍しいじゃないですか。いつもデスクでパソコン叩きながらゼリー飲料飲んでるのに」
結城が親しげに笑いながら、葵の向かいの椅子を引いて腰を下ろした。
そして、結城とミホの視線が、葵の手元にある木目調のお弁当箱へと吸い寄せられた。
「……えっ!? 葵さん、それ、お弁当ですか!?」
ミホが目を丸くして身を乗り出してきた。
「え、すごい! めちゃくちゃ美味しそう! 彩り綺麗すぎませんか!? 肉巻きに飾り切りの蓮根まで入ってる……! え、葵さん、自炊始めたんですか!?」
「えっ、あ、いや……これはその……」
葵は動揺を隠すように、箸を握りしめたまま視線を泳がせた。
まさか『雨の日に拾った十八歳の美少年に作ってもらいました』などと口が裂けても言えるはずがない。
「ちょっと……生活リズムを見直そうと思ってね。たまにはこういうのもいいかなって……」
「へぇー、藤堂がねぇ」
結城が面白そうに目を細め、お弁当のおかずをじっと観察するように見つめた。
「家庭的アピールか? でもさ、藤堂の性格からして、平日の朝からこんな手間の掛かる肉巻きとか飾り切りなんてするか? 冷凍食品すら入ってないし、卵焼きの巻き方なんて完全にプロの手際だぞ」
「ぐっ……」
痛いところを突かれ、葵の喉が詰まる。結城は同期なだけあって、葵のズボラな私生活をある程度察しているのだ。
「まさかとは思うけどさ」
結城が少し身を乗り出し、からかうような、けれどどこか探るような視線を葵に向けた。
「彼氏でもできた? これ、どう見ても誰かに作ってもらった『愛妻弁当』……いや、『愛夫弁当』に見えるんだけど」
「ぶっ……!?」
葵は飲んでいたお茶を吹き出しそうになり、激しくむせ返った。
「ゲホッ、ゲホッ……! な、何言ってるのよ結城くん! そんなわけないでしょ! 私に彼氏なんてできるわけないじゃない!」
「あはは、冗談だよ冗談。そんな真っ赤になって否定するなよ」
結城は笑いながらサンドイッチの包装を開けたが、その瞳の奥には微かな違和感が残っているようだった。
「でもさ、葵さん、最近なんか雰囲気変わりましたよね」
ミホがじっと葵の顔を見つめながら言った。
「肌がすごくツヤツヤしてるし、いつも着てる白ブラウスも今日めちゃくちゃ綺麗にアイロン掛かってて素敵です。それに……なんだか、いつもピリピリしてた空気が柔らかくなって、すごく余裕がある大人の女性って感じがします!」
「え……そう?」
「はい! 憧れちゃいます!」
ミホの無邪気な賛辞に、葵は気恥ずかしさで顔から火が出そうだった。
肌がツヤツヤなのも、ブラウスが綺麗なのも、心に余裕があるのも――すべて、あの部屋で待っている湊のおかげなのだ。
葵は平静を装いながら、残りの十六穀米をお箸ですくい、口の中へ運んだ。
噛み締めるたびに広がる、優しい出汁の風味と甘み。
(……どうしよう)
胸の奥で、小さな警鐘がチリチリと鳴り響いていた。
同僚たちに嘘をついている罪悪感。
そしてそれ以上に――自分の生活のすべてが、あの少年の手によってあまりにも鮮やかに塗り替えられていることへの、甘美な戦慄。
肌艶も、身だしなみも、健康も、精神の安定すらも。
藤堂葵という三十三歳の社会人の基盤が、出会ってわずか一週間の青年に、完全に依存し始めているという現実。
お弁当箱の底が見えた時、葵の胸に残ったのは、満腹感とともに押し寄せてきた底知れない居心地の良さと、逃れられない予感だった。
***
午後八時半。
普段の葵ならまだまだ残業のピークでオフィスを駆け回っている時間帯だったが、今夜は驚くほどスムーズに業務が片付き、葵は定時を少し過ぎただけの電車に乗ることができた。
体調が万全で集中力が増した結果、仕事の効率が劇的に上がったのだ。
駅からマンションへと向かう夜道。
涼やかな初夏の風を浴びながら歩く葵の足取りは、自分でも驚くほど軽快だった。
早く帰りたい。
一刻も早く、あの部屋へ戻りたい。
以前の「荒れた部屋へ帰るのが億劫で、無意味に残業していた日々」が、まるで遠い前世の出来事のように思える。
マンションのエントランスを抜け、エレベーターで二階へ。
二〇五号室の前に立ち、鍵を差し込む。カチャリと音がした瞬間、内側から勢いよくドアが開かれた。
「葵さん! おかえりなさい!」
飛び出してきた湊が、満面の笑みで葵を迎えた。
「今日、すごく早かったですね! お疲れ様でした!」
「ただいま、湊くん。……ふふ、本当に早かったでしょ? お弁当のおかげで、すっごく仕事が捗ったのよ」
「本当ですか!? 綺麗に食べてくれたんですか?」
「もちろん! お米一粒も残さず食べたわ。同僚にも『すごく美味しいお弁当』って羨ましがられちゃった」
葵がバッグから空になったお弁当箱を取り出して渡すと、湊はそれを受け取り、まるで世界一の名誉あるトロフィーでも手に入れたかのように胸元に抱きしめた。
「嬉しい……! 葵さん、綺麗に食べてくれてありがとうございます! 明日ももっと美味しいの作りますね!」
無邪気に喜ぶその笑顔は、どこまでも純粋な愛くるしさに満ちていた。
部屋へ足を踏み入れると、そこは今夜も完璧なユートピアだった。
爽やかなラベンダーのルームフレグランスがほのかに香り、エアコンは快適な二十四度に保たれている。
ふと脱衣所に目をやると、洗濯機の上には、葵が週末に出した洗濯物が寸分の狂いもなく畳まれ、種類ごとに美しく仕分けられていた。タオル類はホテルのように端が揃えられ、葵の下着類までもが丁寧に専用の引き出しに収められている。
さらに浴室を覗けば、水垢ひとつない鏡と、カビ予防のために水滴が完璧に拭き取られた壁面。浴槽にはちょうど良い湯加減の風呂が沸かされ、蓋の上には入浴剤の小袋が添えられていた。
キッチンでは、換気扇のフィルターが新しいものに取り替えられ、冷蔵庫の中身は賞味期限順に整然と並べ直されている。
「……湊くん、あなた今日、一日中掃除してたの?」
葵が呆気にとられて尋ねると、湊は洗い物をしながら振り返った。
「あ、気付きました? 葵さんがいない間、ちょっと時間があったので、エアコンのフィルターのオゾン清掃と、クローゼットの防虫剤の交換、それから靴箱の消臭もやっておきました。葵さんが帰ってきた時に、一番気持ちいい空間にしたかったので」
「……」
言葉が出なかった。
家事代行サービスを頼んだとしても、ここまで行き届いたサービスを提供してくれるスタッフがどれだけいるだろうか。
自分の生活圏の隅々まで、湊の手が入っている。
彼の手が入っていない場所を探す方が難しいほどに、葵の日常は湊の配慮と労働によって埋め尽くされていた。
夕食は、葵の好物である鰆の西京焼きと、具沢山の豚汁、そしてたたき牛蒡の胡麻酢和えだった。
温かい食事を平らげ、風呂で手足を伸ばし、心身ともに極上のリラックス状態になった葵は、リビングのソファに深く沈み込んだ。
向かいの床には、葵のために淹れたカモミールティーをローテーブルに置き、ちょこんと正座した湊がいる。
葵はマグカップから立ち上るハーブの香りを吸い込みながら、ふう、と長い息を吐き出した。
「……ねえ、湊くん」
「はい、何ですか葵さん?」
「私ね、この一週間で、自分がどんどんダメ人間になっていく気がするの」
葵は苦笑交じりに言った。
「朝起きれば極上の朝ご飯があって、アイロンの掛かった綺麗な服があって、お弁当まで持たせてもらって。夜帰ってくればピカピカの部屋とお風呂と美味しいご飯……。こんな至れり尽くせりの生活、贅沢すぎてバチが当たりそうだわ」
「バチなんて当たりませんよ」
湊は柔らかく微笑んだ。
「葵さんは毎日、外で責任を背負って一生懸命働いてるんですから。家の中にいる時くらい、これ以上ないくらい甘やかされるべきです」
「でもね、本当に……私、湊くんがここからいなくなったら、もう一人で生きていけないかもしれないわ」
冗談めかして言った言葉だった。
かつては一人でこなしていたはずの家事も、生活の維持も、今では湊なしでは成立しないほどに、彼女の生活能力は湊の手によって奪われていた。
もはや、コンビニ弁当を食べて荒れた部屋に帰る生活など、想像しただけで耐えられない。
「……もう、湊くんを手放せない身体にされちゃったみたい」
自嘲気味に笑った葵。
けれど。
「――手放さなくて、いいですよ」
静かな、けれど驚くほど澄んだ低音が、部屋の空気をスッと切り裂いた。
「……え?」
葵が顔を上げると、湊がゆっくりと身を起こし、ソファに座る葵の足元へと近づいてきていた。
床に膝をつき、葵を見上げる湊の瞳。
そこには、先ほどまでの「従順な大型犬」の無邪気さは微塵もなかった。
深く、暗く、光を吸い込むような漆黒の双眸。
夜の帳が降りた部屋の中で、湊の瞳の奥に宿る冷徹なまでの光が、葵をじっと射抜いていた。
「手放さなくていいんです、葵さん」
湊はそっと手を伸ばし、ソファの上に置かれた葵の指先へと触れた。
ひんやりとした葵の指を、温かい湊の指が一本ずつ絡め取るように包み込んでいく。
「僕がいないと生きていけないように、僕が葵さんの生活を全部奪ったんですから」
「湊……くん……?」
葵の心臓が、ドクンと嫌な、けれど抗えない跳ね方をした。
湊は葵の指先をそっと引き寄せ、自分の頬へと押し当てた。
上目遣いに葵を見つめるその顔に、薄く、妖艶な笑みが浮かぶ。
「朝の服も、お昼のお弁当も、夜の温もりも……全部僕が葵さんに刷り込みました。葵さんが仕事中も、ご飯を食べる時も、寝る時も、僕のことだけを考えるように。……ちゃんと成功してるみたいで、すごく嬉しいです」
「っ……」
息が詰まる。
計算だったのだ。
この完璧すぎる家事も、細やかな気遣いも、ただの恩返しや親切心などではなかった。
藤堂葵という大人の女を、自分の手で完全に飼い慣らし、依存させ、自分なしでは呼吸すらままならないようにするための――恐ろしいほどに緻密で、有能すぎる囲い込み。
「僕から離れられないなら、ずっと僕を飼っていてください」
湊は葵の掌にそっと唇を落とした。
柔らかな唇の熱が、葵の皮膚を通して脳天へと甘い痺れを走らせる。
「どこにも行かないで。僕だけを必要としてください。葵さんの世界のすべてを、僕で満たしてあげるから……」
耳元で囁かれたその言葉は、少年の懇願ではなく、獲物を完全に捕らえた捕食者の宣告だった。
逃げなければならない。
大人の理性はそう叫んでいた。この子は危険だ。このままでは、生活だけでなく、自分の心も魂もすべてこの少年に喰らい尽くされてしまう。
それなのに。
葵の身体は、湊の手のひらの温もりから逃げ出すことができなかった。
ピカピカに磨かれた部屋、温かいお茶、満たされた胃袋、そして自分だけに向けられる狂おしいほどの執着。
そのすべてが、あまりにも甘美で、あまりにも心地よすぎて。
(……あぁ、本当に……もう手放せない……)
葵は湊の黒髪にそっと手を伸ばし、その頭を優しく撫でた。
湊は満足そうに目を細め、喉を鳴らす猫のように葵の膝へと頭を擦り寄せてくる。
侵食されていく日常の心地よさに身を委ねながら、葵は自分を縛る甘い鎖の存在を、完全に受け入れてしまっていたのだった。




