第9話:年齢確認。まさかの十八歳!?
日曜日の午後二時。初夏の乾いた風が、洗い立てのレースカーテンを柔らかく膨らませていた。
藤堂葵は、すっかり定位置となったリビングのソファに深く腰を沈め、休日の穏やかな日差しを浴びながら手元のマグカップに口をつけていた。
カップの中に注がれているのは、湊が丁寧に淹れてくれた水出しのアイスカフェオレだ。深煎りの豆から抽出された香ばしい苦味と、低温殺菌牛乳の濃厚な甘みが絶妙なグラデーションを描き、氷がカランと涼やかな音を立てる。
視線を少し横に巡らせれば、ピカピカに磨かれたフローリングの上で、湊が黙々とクイックルワイパーを操っていた。
先日の買い物で新調した淡いサックスブルーのシャツに、アンクル丈のスラックス。無駄のないしなやかな背中が、床を拭く動作に合わせてリズミカルに上下している。さらりとした黒髪の隙間から覗くうなじはどこまでも白く、伏せられた切れ長の瞳には職人のような真剣さが宿っていた。
「湊くん、そんなに根詰めて掃除しなくても大丈夫よ。午前中にも掃除機をかけてくれたじゃない」
葵が声を掛けると、湊はピタリと手を止め、パッと花が綻ぶような満面の笑みを葵に向けた。
「ダメですよ、葵さん。休日は埃が立ちやすいですし、葵さんが裸足で歩いた時に少しでもザラついたら嫌ですから。僕が完璧にしておきます」
「もう……本当に徹底してるんだから」
葵は苦笑しながら、再びカフェオレに口をつけた。
あの雨の夜から一週間あまり。葵の生活は、恐ろしいほどの速度で『九条湊』という存在に最適化されていた。
朝は出汁の香りで目覚め、アイロンの利いた服を着て、手作りのお弁当を持って出社する。定時で仕事を切り上げて帰宅すれば、温かい風呂と絶品の夕食が待っており、夜はくだらない愚痴をすべて受け止めてもらった上で安らかな眠りにつく。
激務でボロボロだった肌には艶が戻り、目の下の隈は消え失せ、職場の同僚たちからは「最近の葵さん、すごく綺麗で雰囲気が柔らかくなった」と絶賛される始末だ。
まさに、天国のような日々。
これ以上の幸福が人生にあっていいのだろうかと、背筋がむず痒くなるほどの充足感に満たされていた。
――そう、あの封筒を手にするまでは。
「あ、そうだ。湊くん」
葵はローテーブルの端に置かれていた、一通の長形三号の白い封筒を指先でトントンと叩いた。
今朝、郵便受けを確認した際に入っていた、マンションの管理会社からの通知書だ。
「ちょっと確認しておきたい書類があってね。これ、マンションの定期確認通知なんだけど」
「管理会社から……ですか?」
湊の手がわずかに止まり、その整った眉がピクリと動いた。
「ええ。単身者向け物件なんだけど、防災と防犯の規約見直しで、同居人の有無についての定期調査アンケートが同封されててね。一週間以上継続して滞在する同居人がいる場合は、防災名簿への登録と、緊急連絡先の届け出が必要なんだって」
葵は封筒から取り出したA4の書類を広げながら、何気ない口調で続けた。
「もちろん、湊くんの事情は分かってるわ。本家に居場所がバレたくないんでしょう? だから管理会社には『私の親族の一時滞在』って名目で申請を通そうと思うの。ただ、申請書類に同居人の氏名と生年月日、それから身元確認ができる公的証明書のコピーを添付しなきゃいけなくてね」
葵としては、事務手続きの一環としての軽い確認のつもりだった。
家出をしてきたと言っても、身元確認の手続きくらいは済ませておかないと、万が一の火災や震災の際に湊の安全を守ることができない。それは部屋の契約者である大人の葵として、当然果たすべき義務だった。
ところが。
「……身分、証明書……」
湊の喉から、掠れたような小さな声が漏れ出た。
クイックルワイパーを壁に立てかけ、湊はゆっくりと葵の前へと歩み寄ってきた。その表情は、先ほどまでの明るい笑顔とは打って変わり、何か致命的な秘密を前にしたかのように強張っている。
「どうしたの? あ、もしかして……本当に何も持ってない? 最初の夜に『身分証も全部置いてきた』って言ってたものね。もし保険証もカードもないなら、ちょっと管理会社に相談して――」
「……いえ」
湊は葵の足元に正座すると、躊躇いがちに視線を伏せた。
そして、スラックスの右ポケットに手を差し入れ、薄型の小さな二つ折りの革製パスケースを取り出した。深みのあるフォレストグリーンの上質なカーフレザー。金属の控えめなロゴが刻印されている。
「……持って、います」
「えっ、持ってたの?」
「嘘をついていて、すみませんでした。……あの雨の夜、警察に突き出されるのが怖くて、身元がバレたらすぐに元の家に連れ戻されると思って……何も持っていないって、嘘をつきました」
湊は深々と頭を下げた。その肩が、罪悪感からか微かに縮こまっている。
葵は目を丸くしたが、すぐに苦笑して手を振った。
「いいのよ、そんなこと! あの時はパニックだったんでしょうし、警戒するのも当然よ。身分証があるなら話が早くて助かるわ。ちょっと見せてもらってもいい?」
「……はい」
湊はパスケースから、プラスチック製のカードを一枚、慎重に引き抜いた。
差し出されたのは、表面に顔写真とICチップが埋め込まれた、最新のマイナンバーカードだった。
「これです……」
なぜか湊は、カードを手渡す瞬間にぎゅっと唇を噛み締め、まるで裁判官から判決を言い渡されるのを待つ罪人のような、怯えた瞳で葵を見つめていた。
(そんなに怯えなくてもいいのに。別に怒ったりしないわよ……)
葵は微笑みながら、湊の手からカードを受け取った。
公的なプラスチックカードの、ひんやりとした感触。
葵はまず、表面に印刷された顔写真に目を落とした。
証明写真特有の無機質な白い背景。正面からフラッシュを浴びて撮影されたはずのその顔は、雑誌の表紙を飾るグラビアのように完璧な美しさを誇っていた。少し硬い表情をしてカメラを見つめる瞳は澄み渡り、スッと通った鼻梁と引き締まった輪郭が、奇跡のようなバランスで収まっている。
「……証明写真でここまで綺麗な人、初めて見たわ」
思わず本音が漏れ出た。
そして葵の視線は、写真の右側に印字された文字情報へと滑り落ちた。
氏名:九条 湊
住所:東京都港区……(実家の住所だろう、高級住宅街の番地が並んでいる)
そして、その下の段。
生年月日:二〇〇八年四月十四日
「…………」
葵の目が、その数字の上でピタリと止まった。
二〇〇八年。
四月、十四日。
文字のフォントを一つずつ確認する。インクの掠れはない。公的な印字だ。
葵の脳内で、年号と西暦の計算機が、カタカタと乾いた音を立てて急速に回転を始めた。
(……ええと? 今年は、二〇二六年よね)
(二〇二六年引く、二〇〇八年)
(……二六年引く、八年)
(十六、十七……)
「…………十八?」
葵の口から、掠れた疑問符が零れ落ちた。
いや、計算間違いだ。疲れているのだろう。仕事のしすぎで、算数の引き算すらまともにできなくなっているに違いない。
葵は一度ギュッと目を閉じ、再び開いてカードの印字を凝視した。
二〇〇八年四月十四日。
今日は五月。四月の誕生日を過ぎている。
ということは。
満、十八歳。
今春、高校を卒業したばかり。
「……じゅう、はち……?」
葵はゆっくりと顔を上げた。
目の前で正座している湊は、耳まで真っ赤に染め上げ、逃げ場を失った小動物のように葵の反応をじっと窺っていた。
「湊、くん……?」
「……はい」
「これ……生年月日……間違ってないわよね?」
「はい……間違いありません」
「湊くん、今、何歳……?」
「……先月、十八歳になりました」
消え入りそうな、けれど紛れもない肯定の返答。
――ドカンッッッ!!!!
葵の脳内で、巨大な活火山が大噴火を起こしたかのような衝撃が炸裂した。
「じゅ……っ、十八ぁぁぁぁぁぁぁぁぁっっっ!?」
葵の口から、これまでの人生で一度も出したことがないほどの絶叫が飛び出した。
持っていたカフェオレのグラスがテーブルの上でガタガタと激しく音を立てて揺れ、氷が激突する。
葵はソファから弾かれたように飛び起き、マイナンバーカードを両手で掲げながら、鬼気迫る形相で後ずさりした。
「う、嘘でしょ!? 十八歳!? ハタチ超えてないの!? 二十一とか二十二とかじゃなくて、じゅうはち!?」
「あ、あの、葵さん、落ち着いてください……!」
「落ち着いていられるわけがないでしょーーーーっっ!!」
葵は頭を抱え、リビングの中央を猛スピードで往復し始めた。
混乱。錯乱。激震。パニックの極致。
三十三歳。大手デザイン会社のマネージャー。社内では冷静沈着なトラブルシューターとして知られる藤堂葵の理性は、完全に粉微塵に吹き飛んでいた。
「待って、計算がおかしい! 私、三十三歳よ!? 三十三引く十八は……じゅうご!? 一回りどころか、十五歳差!? 私が高校受験に必死になってた時、あんた生まれたばっかりじゃないのよ!!」
「そ、それはそうかもしれませんけど……!」
「お酒! あんた、金曜日の夜に『お酒は体質的に飲めないんです』って言ってたわよね!? 体質じゃなくて未成年だからでしょ!!」
「未成年じゃありません!」
湊が必死に反論した。
「民法改正で、成人年齢は十八歳に引き下げられました! 僕は法律上、立派な大人です! お酒やタバコは二十歳からだから飲めないって言っただけで、嘘はついてません!」
「屁理屈をこねるんじゃないわよ!!」
葵は両手で自分の頬を挟み込み、白目を剥きそうになりながら天井を仰いだ。
高校を卒業したばかりの、十八歳。
その事実が持つリアルな重みが、葵の全身に冷水を浴びせかけるように突き刺さっていた。
二十歳を少し過ぎたフリーターくらいの年齢だろうと、勝手に思い込んでいたのだ。背も高く、体格もしっかりしていて、何よりあの卓越した家事能力と落ち着いた物腰。どう見ても世慣れた大人の青年に見えていた。
それが、まさかの十八歳。
数ヶ月前まで、制服を着て学校に通っていた正真正銘の若者。
(……私、何をしていたの……!?)
走馬灯のように、この一週間の記憶がフラッシュバックする。
深夜にずぶ濡れの十八歳を部屋に連れ込み。
エプロンを着せて朝食を作らせ。
お弁当を持たせてもらって喜び。
週末にはショッピングモールで服を着せ替えさせ。
金曜日の夜には泥酔して愚痴をぶちまけ、あまつさえ太ももの上に頭を乗せて膝枕をさせ、頭を撫でてもらっていた……!?
「うわぁぁぁぁぁぁぁぁっっ!!」
葵はその場にドサリと崩れ落ち、カーペットの上に額を擦り付けた。
恥ずかしい。死にたい。羞恥心と罪悪感で、身体中の毛穴から炎が噴き出しそうだった。
三十三歳の大人の女が、十代の少年に生活のすべてを依存し、甘やかされて蕩けていたのだ。
客観的に見てどうだ。
完全に『若い男の子を部屋に囲っていい気になっているヤバい独身OL』そのものではないか!
もし会社の同僚たちに知られたら?
同期の結城に「おいおい藤堂、高校出たての男の子を囲って愛妻弁当作らせてたのかよ」と冷笑され、後輩のミホに「葵さん……軽蔑します」と引き攣った笑顔を向けられる光景が、あまりにも鮮明に脳裏をよぎる。
それどころか、世間体はどうだ。
保護者の同意もない十八歳の少年を、密室で同居させている。法的に成人とはいえ、高校を卒業したばかりの少年を囲い込んでいるという事実は、倫理的にも社会的にも、葵の築き上げてきたキャリアを一撃で粉砕しかねない劇薬だった。
「……犯罪よ」
床に突っ伏したまま、葵は震える声で呟いた。
「私……社会的に終わるわ。捕まるんじゃないかしら。未成年略取……いや、もう成人だから未成年じゃないけど、でも実質的に子どもじゃない! 私の半分近くしか生きてないのよ!?」
「子ども扱いしないでください!」
強い声だった。
床に這いつくばる葵のすぐ横に、衣擦れの音がして湊が膝をついた。
葵がおずおずと顔を上げると、湊は傷ついたような、けれど激しい情熱を宿した瞳で葵を見つめ下ろしていた。
「僕は子どもじゃありません。ちゃんと自分の意志で家を出て、自分の意志で葵さんのそばにいるんです。犯罪なんかじゃありません!」
「でも、十八歳よ!? まだ高校を出たばっかりで、これから大学に行くか就職するか、人生の可能性が無限に広がってる時期なのよ! そんな大事な時期の子を、三十三歳の行き遅れOLが自分の家事代行として部屋に閉じ込めておくなんて……そんなの、許されるはずがないじゃない!」
葵の声には、自分自身に対する激しい嫌悪と焦燥が混ざっていた。
家事が完璧だから。居心地がいいから。自分を全肯定してくれるから。
そんな身勝手な理由で、この青年の未来を搾取していたのではないか。
大人としての良心が、激しい警鐘を鳴らし続けていた。
「出て行ってもらわなきゃ……」
葵は震える唇で呟いた。
「やっぱり、こんなのダメよ。ちゃんとした公的な支援機関に行って、自立の手続きをするべきだわ。私みたいな中途半端な大人が、あなたを匿っちゃいけないのよ……!」
「嫌です!!」
湊が、葵の肩を掴んだ。
強い力だった。細身に見えていた腕のどこにそんな力があるのかと思うほど、葵の身体を逃がさないように、骨張った指先が肩に食い込む。
「嫌だ……! 絶対に出て行きません!」
「湊くん、離して――」
「離しません! 年齢なんて、関係ないじゃないですか!」
湊の切れ長の瞳から、大粒の涙がポロポロと零れ落ちた。
端正な顔をぐしゃぐしゃに歪ませ、十八歳の少年は、すがるように葵の顔を覗き込んできた。
「十八歳だから何なんですか!? 僕が二十歳を過ぎてたら良くて、十八歳ならダメなんですか!? 僕が葵さんのためにご飯を作るのも、部屋を掃除するのも、葵さんが笑ってくれるのが嬉しくてやってることなんです! 誰かに強制されたわけじゃない! 僕が……僕が、葵さんのそばにいたいからやってるんです!」
「湊くん……」
「捨てないでください……っ。年齢を知ったからって、急に他人みたいに突き放さないでください……! 僕には、葵さんしかいないんです……!」
湊はそう叫ぶと、葵の肩を抱きしめたまま、その額を葵の胸元へと強く押し当ててきた。
ガタガタと震える長身の身体。
葵のブラウス越しに、湊の熱い涙が染み込んでくる。
その泣き声の痛々しさに、葵の胸が激しく締め付けられた。
十八歳。
大人ぶって、完璧な家事をこなし、葵を甘やかしてくれていたけれど――こうして泣きじゃくる姿は、やはりまだ脆く傷つきやすい、一人の若い少年そのものだった。
何かから逃げてきて、孤独の底で怯えている子どもを、年齢を理由に無慈悲に追い出すことなど、葵にはできなかった。
(……どうして、こんなことになっちゃったのかしら)
葵は天を仰ぎ、深く、重いため息を吐き出した。
追い出せない。
けれど、今までと同じ距離感でいることなど、もう絶対に不可能だった。
「……分かったわ」
葵は湊の背中に手を添えるのを躊躇い、空中でその手を止めた。
「追い出したりはしない。次の行き先が見つかるまでここにいていいっていう約束は、破らないわ」
湊がハッとして顔を上げた。涙で濡れた瞳が、微かな希望を宿して葵を見つめる。
けれど葵は、努めて冷徹な、一線を引いた『大人の顔』を作って彼を見据えた。
「でもね、湊くん。ルールは変えさせてもらうわ」
「……え?」
「あなたは十八歳。私は三十三歳。この部屋において、私はあなたの『保護者』よ」
葵はきっぱりと言い放った。
「今までみたいに、馴れ馴れしくベタベタするのは禁止。お酒を飲んで愚痴を聞かせるのも、膝枕も、頭を撫でるのも全部ナシ。あなたは保護対象として、ちゃんと節度ある生活を送ること。アルバイトを探して、自立のための資金を貯めること。いいわね?」
それは、葵が自分自身の理性を守るための、精一杯の防壁だった。
これ以上、この少年に心を許してしまえば、いつか取り返しのつかない一線を越えてしまうかもしれない。その恐怖が、葵に厳格な保護者の仮面を被らせていた。
湊は、葵の言葉を呆然と聞きつづけていた。
そして、葵の引いた明確な境界線を前にして――湊の瞳から、涙がスッと引いていった。
赤く濡れていた目元が、ゆっくりと冷たい色を取り戻していく。
「……保護者、ですか」
低く、掠れた声だった。
先ほどまでの泣きじゃくる子どもの声ではない。
背筋を伸ばし、立ち上がった湊の影が、床に座り込む葵の身体をすっぽりと覆い隠した。
長身から見下ろしてくるその瞳は、深淵のように暗く、底知れない熱を孕んでいた。
「分かりました、葵さん。……今は、それでいいです」
「え……?」
「でも、忘れないでくださいね」
湊は葵の横を通り過ぎ、キッチンへ向かう途中で立ち止まり、振り返った。
その唇には、薄く、ゾッとするほど艶やかな笑みが浮かんでいた。
「僕を拾って、飼うって決めたのは……葵さんの方なんですから」
その言葉を残し、湊は静かに食器の片付けを始めた。
シンクから流れる水音が、静まり返った部屋に規則正しく響く。
葵は冷たくなったカフェオレのグラスを見つめながら、猛烈な寒気と、心臓の奥で鳴り止まない不協和音に、ただただ立ち尽くすことしかできなかった。
三十三歳と十八歳。
突きつけられた現実の壁は、甘やかな同居生活に、決定的な亀裂と緊張感をもたらし始めていた。




