第7話:夜の晩酌と、暴かれるズボラな素顔
金曜日の午後十一時。
ビジネス街の谷間にそびえるオフィスビルのフロアは、締め切りを乗り切った解放感と、週明けに持ち越された絶望の残滓が混ざり合い、奇妙に重苦しい空気が漂っていた。
「藤堂マネージャー、本当にお疲れ様でした! あそこのクライアントの無茶振り、葵さんが間に入ってくれなかったら、今夜は間違いなく全員討ち死にしてましたよ……」
デスクの島から立ち上がった男性デザイナーが、疲労困憊の顔に安堵の笑みを浮かべて頭を下げてくる。
「いいのよ、みんなが踏ん張ってくれたおかげ。週明けの修正指示は月曜の朝イチで整理するから、今夜はもう何も考えずに休んで頂戴。はい、みんな撤収! パソコン落として!」
葵はパンパンと手を叩き、フロアに残る部下たちへ明るい声を掛けた。
部下たちの前では、決して弱気な顔は見せない。トラブルが起きても眉ひとつ動かさず、理不尽な上層部の圧力からは身を挺してチームを守り、常に最適解を提示し続ける――それが、スタジオ・アークにおける『鉄壁の藤堂葵』のパブリックイメージだった。
けれど、最後の部下がエレベーターホールへと消え、静まり返ったフロアの主電源を落とした瞬間、葵の背筋を支えていた見えない支柱が、ボキリと音を立ててへし折れた。
「……っ、づかれたぁぁぁぁ……」
口から漏れ出たのは、怨霊の呻き声のような濁った長いため息だった。
ヒールを履いた足首は悲鳴を上げ、肩は石のように凝り固まり、胃のあたりはストレスでキリキリと痙攣している。三十三歳。体力も気力も、文字通りスッカラカンの状態だった。
駅までの夜道をトボトボと歩きながら、葵の頭の中を支配していたのは、たったひとつの切実な欲望だった。
(……酒だ。ビールだ。冷えたアルコールを胃袋に叩き込まないと、今夜の私の魂は成仏できない……!)
一週間、張り詰め通した大人の女の神経を麻痺させるには、アルコールの力が必要不可欠だった。
以前の金曜日なら、駅前のコンビニに寄り、適当なロング缶のビールと、揚げ油の酸化したチキンや乾き物のスナックを買い込み、散らかり放題の部屋の床にへたり込んで一人寂しく煽るのがお決まりのパターンだった。虚しさと自己嫌悪に苛まれながら、泥のように眠りに落ちるだけの、侘しい週末の入り口。
けれど、今夜は違う。
マンションのエントランスを抜け、二階の廊下を進む葵の足取りは、極度の疲労に反してどこか小刻みに浮き立っていた。
なぜなら、あの部屋には――。
カチャリ、と二〇五号室の鍵を開けた瞬間。
「葵さん! おかえりなさい!」
パタパタと小走りで駆け寄ってくる足音とともに、眩いばかりの笑顔が葵を出迎えた。
先日のショッピングモールで購入したばかりの、落ち着いたチャコールグレーのカットソーにエプロンをつけた湊だ。新しく整えた黒髪がさらりと揺れ、その切れ長の瞳は、待ち焦がれていた主人の帰還を喜ぶ大型犬そのものの無邪気さで輝いている。
「今日もお仕事、本当にお疲れ様でした。すごく遅かったから、心配してました……」
湊は葵の肩からずっしりと重いトートバッグを慣れた手つきで受け取ると、葵の顔を覗き込み、ふっと眉尻を下げた。
「葵さん、顔色がすごく疲れてます。今夜は特に大変だったんですね」
「ん……もう、ボロボロ。魂が口から半分抜け出てるわ……」
「よしよし、えらかったです」
湊は当然のように葵の頭にそっと大きな手のひらを乗せ、ふわりと優しく撫でた。
十八歳の少年に三十三歳の大人が頭を撫でられるなど、本来なら恥ずかしさで跳ね起きるべきシチュエーションだ。けれど、限界を迎えていた葵の脳は、その温かい手のひらの心地よさに抗うことができず、猫のように小さく目を細めて身を委ねてしまった。
「お風呂、熱めに沸かしてありますよ。今日は柑橘系のバスソルトを入れておきました。疲れが取れるように」
「ありがとう、湊くん……先に浴びてくるわね……」
「はい、ゆっくり浸かってきてください。上がってくる頃に、美味しいもの用意しておきますから」
湊の甘やかな微笑みに背中を押され、葵はふらふらと浴室へと吸い込まれていった。
熱い湯船に首まで浸かり、柑橘の爽やかな香りを吸い込みながら、葵は一週間の垢と疲労を洗い流した。
湯から上がり、すっぴんを晒して着古したヨレヨレのTシャツと短パンに着替える。髪を適当にタオルドライしてターバンで無造作にまとめ、足首をパタパタと鳴らしながらリビングのドアを開けた。
その瞬間、葵の鼻腔をくすぐった香りに、湯上がりのぼんやりした頭が一気に覚醒した。
香ばしい醤油の焦げる匂い。
ごま油の力強い芳香。
そして、ピリッとしたスパイスの刺激的な香気。
「……え? 何この、居酒屋の厨房みたいな匂い……」
葵が目を瞬かせながらリビングへ足を踏み入れると、ピカピカに磨かれたローテーブルの上には、信じられない光景が広がっていた。
そこには、葵の「今夜は絶対に酒を飲む」という無言の願望を完璧に予見していたかのような、極上のおつまみの小皿が所狭しと並べられていたのだ。
「あ、葵さん、お風呂上がりですね。髪、冷えちゃう前に乾かしてくださいね」
キッチンから出てきた湊の手には、ガラスの小鉢がふたつ乗ったトレイがあった。
葵はローテーブルの上の料理を指差し、言葉を失った。
「な……何これ、湊くん!? これ、全部作ったの!?」
「はい!」
湊は誇らしげに胸を張り、テーブルの上の品々を順に紹介し始めた。
「葵さん、今夜は金曜日だし、玄関を開けた瞬間に『お酒が飲みたい!』ってオーラが全身から溢れ出てましたから。お腹にたまる重いご飯より、お酒が進むおつまみの方が嬉しいかなって思って、急いで用意してみたんです」
テーブルの中央に鎮座しているのは、表面がツヤツヤと飴色に照り輝く『豚バラと大根の角煮風の一口煮込み』だった。じっくりと下茹でされた豚肉は箸で崩れるほど柔らかそうで、出汁を限界まで吸い込んだ大根の横には、練り辛子がちょこんと添えられている。
その隣には、『炙り明太子とクリームチーズの海苔巻き』。バーナーで軽く表面を炙って香ばしさを引き出した明太子と、濃厚なクリームチーズが、パリッとした上質な有明産の焼き海苔の上に美しく盛り付けられている。
さらに、ガラスの器には『蒸し鶏と叩ききゅうりの梅肉塩昆布和え』。しっとりと火を通された鶏ささみと、小気味よくクラッシュされたきゅうりが、紀州南高梅の果肉と塩昆布、ごま油で艶やかに和えられ、白ごまがたっぷりと振られていた。
極めつけは、小さなスキレットでジュウジュウと音を立てている『長芋とエリンギの焦がしバター醤油ソテー』。立ち上る湯気とともに広がる濃厚なバターと醤油の香りが、暴力的なまでに葵の食欲とアルコール欲を刺激する。
「葵さん、冷蔵庫に缶ビール冷えてますよ。取ってきましょうか?」
「い、いい! 自分で取る! 今すぐ取る!!」
葵は猛ダッシュでキッチンへ向かい、冷蔵庫の野菜室の奥に常備してあるプレミアムモルツのロング缶をひっつかんだ。
ローテーブルへ戻り、正座するのももどかしく座布団の上にドサリとあぐらをかく。
パキッ、プシュッ!!
心地よい金属音がリビングに響き渡り、きめ細やかな白い泡が缶の飲み口からプツプツと溢れ出した。
「湊くん、コップは!?」
「あ、はい、冷凍庫でキンキンに冷やしておきました!」
湊が差し出してきた薄張りのグラスは、表面がうっすらと白く凍りついていた。そこに葵は、黄金色のビールをととと、と注ぎ込む。黄金の液体と純白の泡の比率は、まさに黄金比の七対三。
「湊くんも何か飲む!? あ、お酒飲む!? 冷蔵庫にレモンサワーもあるけど!」
葵が勢いよく尋ねると、湊は少し困ったように微笑み、自分の手元に置かれたグラスを持ち上げた。中に入っているのは、氷の浮かんだ冷たいウーロン茶だった。
「あ、いえ……僕はお酒、全然飲めない体質なんです。一杯で真っ赤になって倒れちゃうので」
(※注:湊は18歳の未成年のため飲めないのだが、葵は『お酒に弱い体質の成人男性』だと思い込んでいる)
「あ、そうなの? 体質なら無理しちゃダメね! じゃあ、湊くんはお茶で! 一週間お疲れ様、かんぱーい!!」
「はい、葵さん、一週間本当にお疲れ様でした。乾杯」
カラン、と薄張りグラスとウーロン茶のグラスが涼やかな音を立てて触れ合う。
葵はグラスを両手で持ち上げ、喉を鳴らしながら一気にビールを流し込んだ。
――ゴクッ、ゴクッ、ゴクッ、ぷはぁぁぁぁぁっっっっ!!
「う……っ、うっまーーーーいっっっ!!」
葵は天を仰ぎ、喉の奥から野太い感嘆の声を漏らした。
冷え切った麦の苦味と炭酸の刺激が、渇き切った喉を焼き、疲労で凝り固まっていた五臓六腑へと雪崩れ込んでいく。アルコールが血流に乗って全身を駆け巡った瞬間、頭の芯で張り詰めていた重い何かが、プツンと心地よく弾け飛んだ。
「生き返る……! これよこれ、このために私は今週生き延びたのよ……!」
「ふふっ、葵さん、すごくいい飲みっぷりですね」
向かいの席で、湊が頬杖をつきながら楽しそうに目を細めていた。
「笑ってないで、湊くんも食べて! あ、私これ我慢できない、いただきます!」
葵は割り箸をパチンと割り、まずはジュウジュウと音を立てる長芋のバター醤油ソテーへと箸を伸ばした。
厚切りにされた長芋を口に放り込む。
サクッ、ホクッ、とした絶妙な歯ごたえ。焦がしバターの芳醇なコクと、香ばしい醤油の塩気が舌の上で爆発し、噛みしめるたびに長芋特有の優しい甘みが広がる。
「んんん〜〜〜っ! 何これ、シャキシャキなのに中がホクホク! バターの量が完璧すぎる!」
「長芋は強火で表面だけ焼き色をつけて、余熱で火を通すのがコツなんです。ビールに合いますか?」
「合うどころの騒ぎじゃないわよ! ビール泥棒よ、これ!」
すかさずグラスのビールをあおり、次は炙り明太子とクリームチーズの海苔巻きを口へ放り込む。
パリッとした磯の香りの後に、炙られた明太子のプチプチとした食感とピリ辛の旨味が押し寄せ、それをクリームチーズのまろやかな酸味とコクがふわりと包み込む。
「……っっっ!!」
葵はあまりの幸福感に、テーブルをバンバンと叩いた。
「犯罪! これは完全に合法麻薬の味よ湊くん! 明太子の辛味とチーズのミルキーさが海苔で完璧にまとまってる! 誰に教わったのこんなレシピ!?」
「ネットのレシピを色々アレンジしただけですよ。葵さんが喜んでくれてよかった」
湊は心底嬉しそうに目を細め、蒸し鶏ときゅうりの小鉢を葵の前にスッと引き寄せてくれた。
「こっちもさっぱりしてて箸休めにいいですよ。梅干しは葵さんの冷蔵庫にあった高級そうな南高梅を使わせてもらいました」
「ああっ、実家から送られてきて持て余してたやつ! ……んんっ、さっぱりしてて最高! 鶏肉がパサついてなくてしっとり柔らかい!」
そして極めつけの一口角煮。箸を入れただけで繊維がほろりと解け、口に入れた瞬間、脂身が甘くとろけて消えた。出汁と生姜の利いた甘辛いタレが染み込んだ大根に辛子をつけて頬張ると、もはや言葉を失うほどの多幸感が脳天を直撃する。
ビールが止まらない。
一杯目のグラスはあっという間に空になり、葵は自分で二缶目のプルタブを引き抜いた。
――そして、アルコールが急速に全身へ回り始めた時。
藤堂葵という女の『鉄壁のキャリアウーマン』の仮面は、音を立てて粉々に砕け散った。
「……だいたいさぁぁぁぁ!」
二缶目の半分を飲み干したあたりで、葵の口調がガラリと変わった。
片膝を立て、Tシャツの襟元をパタパタと扇ぎながら、葵は空中に向かって激しく指を突き出した。
「クライアントの宣伝部長の佐々木ぃ! あのタヌキオヤジ! 『もっと老若男女に愛される情緒を』だぁ!? 情緒って何よ情緒って! 具体的な修正指示を出せないなら最初から口を出すんじゃないわよ! こっちはデザイナーと徹夜でカラーパレット五十パターンも検証したっつーの! ふざけんなバカヤローーーッ!!」
職場の部下が見たら卒倒しそうな、生々しく荒々しい愚痴の奔流。
昼間は「情緒的なアプローチに無理なく接続できるかと存じます」などと涼しい顔で微笑んでいた女と同一人物とは、天地がひっくり返っても信じられないだろう。
「それにうちの営業の課長もよ! トラブルが起きた瞬間、すーぐ私のところに飛んできて『藤堂さん、なんとか丸く収めてくれない?』って、お前は私の部下か! 役職手当分くらい自分で汗かきなさいよ! 私はアンタたちのママじゃないんだからね!!」
葵はプンスカと怒り狂いながら、缶ビールをあおった。
顔は耳の先まで真っ赤に染まり、ターバンからこぼれ落ちた前髪が額に張り付いている。完全に泥酔したオッサンのそれだった。
普通の若い男なら、十歳以上も年上の女性のこんな見苦しい姿を見せつけられたら、ドン引きして後ずさりするか、愛想笑いで距離を置くのが関の山だろう。
三十三歳独身女の、醜悪なズボラと鬱憤の爆発。
けれど。
「うん、うん。そうですよね。葵さん、本当に頑張りましたね」
湊の表情には、軽蔑の色など微塵もなかった。
それどころか、彼はローテーブルの上に肘をつき、両手で頬を包み込むようにしながら、まるで夜空に瞬く一番星でも見つめるかのような、うっとりとした優しい瞳で葵を見つめていたのだ。
「葵さんは悪くないです。その佐々木部長って人も、営業の課長さんも、葵さんの有能さに甘えすぎてるだけです」
「そうでしょう!? 甘えてるのよアイツらは! 私が怒らないのをいいことにさぁ!」
「はい。葵さんは誰よりも周囲に気を配って、理不尽な要求にも誠実に応えて……本当に、立派すぎます。僕なら絶対に逃げ出してますよ。葵さんは世界一かっこいいマネージャーです」
「湊くぅぅぅん……っ!」
全肯定。
一切の否定も、説教も、「まあまあ相手も大変なんだから」という余計な客観論もない。
ただひたすらに、藤堂葵という人間が受けた傷と疲労を、すべて受け止め、肯定し、甘やかしてくれる言葉の数々。
弱り切った葵の心に、湊の甘い肯定が麻薬のように染み渡っていく。
「分かってくれる……? 湊くんだけよ、私の味方は……!」
「もちろんですよ。僕はいつだって、世界中の誰が敵になっても葵さんの味方ですから」
湊はふわりと目を細め、空になった葵のグラスに、新しい缶ビールをトクトクと丁寧に注いでくれた。完璧な泡のクッションが再び蘇る。
「ほら、美味しいビール、まだたくさんありますよ。葵さんの気が済むまで、僕に全部吐き出してください。どんな愚痴でも、僕が全部聞いてあげますから」
「ううっ……天使……! うちの床下に天使が住み着いてる……!」
葵は注がれたビールを再びグビリと煽り、今度は情けなくソファに寄りかかってズルズルと滑り落ちた。
「……もうやだぁ。働きたくない。毎日毎日、胃に穴が開きそうなプレッシャーに耐えてさぁ……。私だって本当は、朝十時まで寝て、昼間から猫の動画見て、ポテチ食べながらゴロゴロしたいのよ……」
床の上に大の字になり、葵は天井を見上げてブツブツとくだを巻いた。
足は行儀悪く放り出され、短パンの裾から白い太ももが無防備に露出している。三十三歳のキャリアウーマンの威厳など、もはや微塵も残っていなかった。
「私ね、もう若くないのよ……。お肌の曲がり角なんてとっくに三回くらい曲がり切っちゃったし、徹夜したら三日間は体力が戻らないし、最近じゃ白髪見つけてショック受けるし……。恋愛? 結婚? そんなの完全に諦めましたー! 一人で生きて、一人で死ぬんだー! わーん!」
完全に酔っ払った子どものように、手足をバタバタとさせて駄々をこねる葵。
自分でも自分がひどく醜く、みっともないと分かっていた。
仕事ができる大人の女として見られたいプライドなんて、アルコールと一緒に綺麗に流れて消えてしまった。
呆れられたら、それまでだ。
こんなズボラで、愚痴っぽくて、だらしないアラサー女に幻滅して、明日この子が部屋を出ていくと言うなら、それはそれで仕方のないことだ――。
半ば自暴自棄になりながら目を閉じた、その時だった。
カサリ、と衣擦れの音がして、温かな気配が葵のすぐ隣に寄り添ってきた。
「……ん?」
葵がおずおずと目を開けると、フローリングの上に座り込んだ湊が、上から葵の顔を覗き込んでいた。
至近距離にある、息を呑むほどの美貌。
けれどその顔には、苦笑いも呆れの表情もなかった。
湊は、壊れやすいガラス細工を見つめるような、切ないほど深い慈愛に満ちた眼差しで葵を見つめていた。
「葵さん」
低く、甘く、胸の奥を震わせるような声が落ちてくる。
「……なに?」
「猫の動画見て、ポテチ食べてゴロゴロする葵さんも、きっとすごく可愛いです」
「……は?」
「白髪があっても、肌の曲がり角を曲がっても、泥酔してくだを巻いてても……僕にとっては、葵さんが世界で一番綺麗で、一番愛しい人ですよ」
「っ……!?」
葵の酔った脳に、その言葉がダイレクトに突き刺さった。
心臓がトクン、と熱く跳ねる。
「か、からかわないでよ……。私、三十三歳よ? あんたから見たら、完全にオバサンじゃない……」
「オバサンなんかじゃないです」
湊は即座に、けれどどこまでも柔らかく否定した。
そして、躊躇うことなく手を伸ばすと、葵のTシャツの背中に、そっと大きな手のひらを滑り込ませてきた。
温かい。
服の上からでもはっきりと伝わってくる、湊の確かな手のひらの熱。
湊は、葵の丸まった背中を、上から下へと、ゆっくりと、大きな円を描くように優しくさすり始めた。
「……っ」
葵の身体が、ピクリと強張る。
「葵さんは、ずっと一人で戦ってきたんですよね」
背中をさする手のひらが、硬直した筋肉を解きほぐすように、何度も何度も往復する。
「誰にも弱音を吐けなくて、愚痴も言えなくて、全部一人で抱え込んで……。だから、僕の前でくらい、思いっきりだらしなくなってください。カッコ悪い葵さんも、ズボラな葵さんも、僕が全部大好きですから」
「湊、くん……」
「僕がずっと、背中をさすってあげます。葵さんが安心して眠れるまで、ずっとここにいますから」
背中に伝わる手のひらのリズムが、あまりにも優しくて、温かくて。
葵の目頭が、じわりと熱くなった。
涙がこぼれそうになるのを誤魔化すように、葵はくるりと横を向き、湊の膝の上にぽすんと自分の頭を預けた。
図らずも、膝枕の形になってしまう。
「……葵さん?」
湊の驚いたような息遣いが頭上から聞こえたが、葵はもう退く気力が湧かなかった。
湊の太ももは、引き締まっていて適度な弾力があり、葵の重たい頭をしっかりと支えてくれた。ほんのりと漂う石鹸の香りと、新しく買った柔軟剤の甘い香り。
「……ちょっとだけ、こうさせて」
葵が掠れた声で呟くと、湊の身体が一瞬だけビクッと震えた。
けれど、次の瞬間には、湊の大きな手が葵の乱れた髪へとそっと触れてきた。
指先が葵の髪を梳くように動き、耳の後ろを優しく撫でる。
「はい……いくらでもどうぞ」
湊の声は、先ほどよりもわずかに低く、かすれ、熱を帯びていた。
背中をさする手と、髪を撫でる手。
ふたつの温もりに包まれながら、葵の意識は急速にとろけていく。
(……あぁ、ダメだ……。心地よすぎる……)
職場の重圧も、大人の責任も、将来への不安も、全部がどうでもよくなっていく。
十八歳の少年の膝の上で、泥酔して甘やかされている三十三歳。
客観的に見れば破滅的な光景のはずなのに、葵の心は、ここ数年間で一番深く、満ち足りた安らぎに満たされていた。
「葵さん、おやすみなさい」
遠のいていく意識の向こうで、頭上から囁くような声が聞こえた。
「今日もお疲れ様でした。僕の、大切なご主人様……」
額のあたりに、ふわりと温かい何かが触れたような気がした。
吐息のような、あるいは柔らかな花びらが触れたような感触。
それが湊の唇だったのか、それともただの自分の夢だったのかを確かめる暇もなく、葵は心地よい暗闇の底へと、深く深く沈み込んでいったのだった。




