第6話:完璧すぎる『ペット』の買い出しデート
五月の柔らかな週末の陽光が、レースのカーテン越しにリビングのフローリングへと白い幾何学模様を描き出していた。
藤堂葵は、休日の朝特有のまどろみの中でゆっくりと意識を浮上させた。
いつもなら土曜日の午前中といえば、平日の激務で摩耗した肉体をベッドに沈め、死んだように正午過ぎまで意識を手放しているのが常だった。起き上がったところで、頭の芯に残る鈍痛と重たい倦怠感に顔をしかめ、脱ぎ捨てられた服の山を眺めては底なしの自己嫌悪に苛まれる――それが、葵にとっての休日の始まりだったはずだ。
しかし、今朝の目覚めは驚くほど穏やかだった。
鼻腔をくすぐるのは、ふんわりと香る焼きたてのトーストの香ばしさと、丁寧にドリップされた深煎りコーヒーの豊かな苦味の香気。遠くでことことと小さな音を立てているのは、野菜がたっぷり入ったコンソメスープの鍋だろうか。
「……ん」
身を起こし、ベッドサイドに置かれたスマートフォンを手に取る。画面に表示された時刻は、午前八時半。
カーテンの隙間から差し込む光の清々しさに目を細めながら、葵はふと自分の足元に視線を落とした。
埃ひとつ落ちていない床。美しく整頓されたチェスト。空気清浄機からは澄んだ風が静かに送り出されている。
あの土砂降りの夜から、数日が経過していた。
雨宿りの行き倒れとして保護したはずの青年――湊は、宣言通り葵のワンルームを驚異的な手腕で維持し続けていた。
朝は出汁の利いた和定食か、あるいはホテルのラウンジのような洋朝食。夜は激務で疲れ果てて帰宅する葵の胃腸を労る、消化に良くて滋味あふれる温かい夕餉。沸かされた風呂、洗濯されて完璧な折り目で引き出しに収められた衣類、ピカピカに磨かれた水回り。
葵の生活水準は、ここ数日で劇的に向上していた。向上しすぎて、もはやこの快適さを手放すことなど想像すらできないほどに、彼女の心と身体は湊の存在に甘やかされ始めていた。
だが――そんな夢のような同居生活において、看過できない切実な問題がひとつだけ浮上していた。
「……服、よね」
葵は小さく呟き、クローゼットの前で腕を組んだ。
リビングへ出ると、案の定、キッチンカウンターの向こうで湊がエプロン姿でトーストの焼き加減を確認していた。
「あ、葵さん! おはようございます」
葵の足音に気づいた湊が、パッと顔を輝かせて振り返る。
光を吸い込んで煌めくさらさらの漆黒の髪。澄み渡る夜空のように深い黒の双眸。陶器のようにきめ細やかな白い肌に、ほんのりと差す朝の赤み。相変わらず、直視するのが躊躇われるほどの圧倒的な美貌だった。
だが、その首から下の光景が、どうにも葵の良心をチクチクと痛めつけていた。
湊が着ているのは、葵が部屋着として貸し出しているグレーのスウェットと、黒のイージーパンツだ。
葵自身が着ればダボリと袖が余るオーバーサイズのスウェットなのだが、湊が着ると完全にサイズが足りていない。
肩幅が広すぎるせいで生地が横に引っ張られ、襟ぐりから深く窪んだ鎖骨が丸見えになっている。袖丈は七分袖のように短くなり、手首の骨張った関節としなやかな筋肉の筋がこれ見よがしに露出していた。ズボンの丈もくるぶしより遥か上まで上がってしまっており、素足の引き締まった足首が寒々しい。
身一つで家を飛び出してきたという湊は、着替えの類いを一切持っていなかった。
葵の部屋着をローテーションで洗濯しながら着回している状態だが、体格差はどうしようもない。何より、下着や靴下といった消耗品まで葵の予備や間に合わせで済ませるには、あまりにも限界があった。
「葵さん、スープ温まってますよ。今、トーストもお皿に乗せますね」
湊が小さなエプロンの紐を揺らしながら、焼きたてのバタートーストをテーブルに運んでくる。こんがりと黄金色に焼き色のついた表面から、溶けたバターがじゅわりと染み出していた。
「ありがとう、湊くん。……あのね、座って一緒に食べながら聞いてほしいんだけど」
「はい、何でしょうか?」
向かいの席に腰を下ろした湊は、葵に背筋を正して向き合った。膝の上にきちんと揃えられた手、じっと葵の言葉を待つ従順な瞳。その仕草は、やはり教育の行き届いた大型犬そのものだ。
「湊くんの服と、日用品のことなんだけどね」
「あ……」
湊はバツの悪そうな顔をして、自分の短すぎるスウェットの袖口を引っ張った。
「すみません、葵さんのお洋服を何着も借りっぱなしで……不格好ですよね。邪魔にならないよう、なるべく小さくまとまってるつもりなんですけど……」
「違うの、謝ってほしいんじゃないのよ!」
葵は慌てて手を振った。
「不格好どころか、サイズが合ってない服を着せ続けるのは私の良心が痛むの。下着だって買い足さないといけないし、靴だって雨の日に濡れたスニーカーが一足きりでしょう? だから今日、これから買い物に行きましょう」
「買い物……ですか?」
「ええ。近くに大型のショッピングモールがあるの。そこで湊くんの普段着とか、インナーとか、日用品を一通り買い揃えましょう。……もちろん、代金は私が持つから」
葵の言葉に、湊は大きく目を丸くした。
それから、まるで信じられない奇跡に遭遇したかのように、その端正な顔をゆっくりと紅潮させていった。
「葵さんが……僕の服を、選んでくれるんですか?」
「え? あ、まあ、湊くんのお金がない間は私が立て替える契約だし、一緒に選んだ方がサイズも間違えないでしょう?」
「嬉しいです……!」
湊がテーブルの上に身を乗り出した。その瞳はキラキラと眩い光を放ち、尻尾があればちぎれんばかりに激しく振られているのが幻視できるほどだった。
「葵さんとお出かけできるなんて思ってませんでした。僕、葵さんの邪魔にならないように、何でも荷物持ちますから! すぐ準備しますね!」
先ほどまでの申し訳なさそうな態度はどこへやら、湊は弾けるような笑顔を浮かべて立ち上がり、大急ぎで食器の片付けを始めた。
(……なんだか、お散歩に連れて行ってもらえる犬そのものね)
微笑ましいやら、胸がむず痒いやら。葵は苦笑しながら、冷めないうちにトーストを口に運んだ。サクッとした香ばしい食感と濃厚なバターの風味が広がり、自然と頬が緩む。こんな休日の朝を迎えること自体、何年ぶりのことだっただろう。
身支度を整えるため、葵は自分のワードローブを開いた。
普段の仕事着は、モノトーンを基調としたパンツスーツや、かっちりとしたタイトスカートばかりだ。三十三歳の管理職として、周囲の男たちに舐められないよう、鎧のように纏ってきた服たち。
だが、今日はただの休日だ。相手は自分よりずっと若い青年である。あまりにもビジネスライクな格好では浮いてしまうし、かといって若作りをしすぎるのも痛々しい。
悩んだ末に選んだのは、上質なライトグレーのサマーニットに、落ち感の綺麗なアイボリーのワイドパンツ。薄手のベージュのロングカーディガンを羽織り、足元は歩きやすいローヒールの本革ローファーを合わせた。髪はゆるく巻いてハーフアップにし、ゴールドの華奢なイヤリングをつける。
大人の女性としての品格を保ちつつ、適度にリラックスした休日スタイル。鏡の前で仕上がりを確認し、葵は小さく息を吸い込んだ。
「よし……これで大丈夫ね」
リビングに戻ると、湊がすでに玄関先で待っていた。
葵が貸した中で最も無難な、黒の無地パーカーと細身のジャージパンツを身につけている。足元は、数日間陰干ししてなんとか乾かした彼自身の白いスニーカーだ。
あり合わせの、決して高級とは言えない部屋着のような格好。
それなのに、葵は息を呑んだ。
すらりと伸びた長い手足、無駄のない筋肉のついた長身、そして完璧な顔立ち。ただそこに立っているだけで、まるで海外のストリートスナップか、ハイブランドのルームウェア広告のワンシーンのように決まっていた。
「葵さん」
湊が葵の姿を認め、その漆黒の瞳を瞠った。
頭の先から足の先まで、熱を帯びた視線でゆっくりと舐めるように見つめられ、葵の心臓がトクンと跳ねる。
「すごく……綺麗です。いつものスーツ姿もかっこよくて好きですけど、今日の葵さん、柔らかい雰囲気で……見惚れちゃいます」
「ちょ、ちょっと、からかわないでよ……!」
葵はカッと顔が熱くなるのを感じながら、足早に玄関へ進み、ローファーに足を滑り込ませた。
「三十三歳を捕まえて綺麗だなんて、お世辞でも言うもんじゃないわ。ほら、行くわよ。混まないうちに早く済ませちゃいたいんだから」
「お世辞なんかじゃないのに……」
湊は小さく唇を尖らせて不満そうに呟いたが、葵がドアノブに手をかけると、すぐに嬉しそうな表情に戻ってその後に続いた。
初夏の風が吹き抜ける街並みは、休日を楽しむ人々で賑わっていた。
駅から二駅ほどの場所にある大型ショッピングモール『グラン・テラス』は、吹き抜けの開放的なガラス天井から明るい陽光が降り注ぎ、家族連れやカップルの楽しげな話し声とBGMが心地よく反響していた。
エントランスをくぐった瞬間、葵は無意識のうちに周囲の気配に敏感になっていた。
――視線が、痛い。
正確には、葵ではなく、葵の半歩後ろを歩く湊に対して、すれ違う人々の視線が次々と吸い寄せられていたのだ。
「ねえ、見てあの人……モデルかな……」
「やばっ、超イケメンなんだけど……芸能人?」
すれ違った女子大生風の二人組が、わざわざ立ち止まって振り返り、ヒソヒソと囁き合っている。ベビーカーを押す若い母親も、買い物の手を止めて思わず湊の横顔に見惚れていた。
湊本人はといえば、そんな周囲の熱い視線など全く気にも留めていない様子だった。
ただひたすらに、葵の横顔を嬉しそうに見つめ、葵が歩幅を緩めればそれに合わせ、人混みで肩がぶつかりそうになればスッと長い腕を葵の背後に回して庇うようにエスコートしてくる。
「葵さん、歩くの早すぎませんか? 疲れたらすぐ言ってくださいね」
「だ、大丈夫よ。それより湊くん、あんまりキョロキョロしないで前を見て歩きなさい」
「だって、葵さんと並んで歩けるのが嬉しくて」
無邪気に微笑むその笑顔が眩しすぎて、葵は居心地の悪さに身悶えしそうだった。
(お願いだからそんなキラキラした顔でこっち見ないで……! 周囲の視線が突き刺さって穴が開きそうだわ!)
アラサーのくたびれた会社員が、こんな発光体のような美青年を連れて歩いているのだ。周囲から見れば、一体どういう関係に見えているのか。年の離れた姉弟か、それとも――。
「あ、あそこのメンズショップに入りましょう!」
葵は逃げ込むように、ガラス張りのシックな外観を持つセレクトショップへと湊を引っ張り込んだ。
国内外の洗練されたカジュアルウェアを取り扱う、少し落ち着いた価格帯のショップだ。落ち着いた間接照明と、心地よいジャズが流れる店内に入り、葵はやっとひとつ息を吐き出した。
「いらっしゃいませ」
すぐにおしゃれな身なりの男性店員が近づいてきたが、湊の姿を視界に収めた瞬間、その店員が一瞬息を呑み、目を見張るのが分かった。
「え、あ……ご案内いたしましょうか?」
「いえ、適当に見せていただきますので大丈夫です」
葵が手短に断りを入れると、店員は名残惜しそうに湊のスタイルの良さを凝視しながら会釈して下がっていった。
「さて」
葵は気を取り直して、陳列されたラックの前に立った。
デザイン会社で長年クリエイティブの仕事に携わってきた葵にとって、色や形のバランスを見極めることは専門分野だ。素材の質感、カッティング、仕立ての美しさを瞬時に見極めていく。
「湊くんは肌が抜けるように白いから、寒色系も似合うけど、あえて深みのあるネイビーやチャコールグレーで引き締めた方がいいわね。素材は安っぽくない上質なリネンやコットン。デザインはごちゃごちゃ飾りのない、シンプルなものが絶対に映えるわ」
葵のプロの目が光る。
ハンガーから次々と服を抜き取っていく葵の横で、湊は目を丸くして感心していた。
「葵さん、すごい……。迷いがないですね」
「これでもデザインの仕事をしてるからね。……はい、まずこれ。それからこのスラックスと、このバンドカラーシャツ。あと、このサマーニットも持って。全部試着してみて」
「えっ、こんなにたくさん?」
「いいから! 着てみないとサイズ感が分からないでしょ? ほら、フィッティングルームへ!」
葵に背中を押され、湊は両腕に服の束を抱えてカーテンの奥へと消えていった。
フィッティングルームの前のソファに腰掛け、葵は足を組んで待った。
仕事の買い出しのような手際で選んだものの、内心ではどんな仕上がりになるのか、少なからず胸が高鳴っていた。あの抜群のスタイルと端正な美貌に、自分が選んだ服を着せたらどうなるのか。着せ替え人形を楽しむ子どものような、純粋な好奇心が湧き上がってくる。
「あの……葵さん、着替えましたけど……」
カーテンの向こうから、少し照れくさそうな声が聞こえた。
「開けていいわよ」
シャーッと音を立てて、フィッティングルームの厚手のカーテンが開け放たれた。
――その瞬間。
葵の息が、喉の奥で完全に止まった。
「……っ」
言葉が出なかった。
そこに立っていたのは、先ほどまでの「スウェットを着た大きな迷子のワンコ」ではなかった。
葵が選んだのは、上質なフレンチリネンで仕立てられた淡いセージグリーンのバンドカラーシャツに、アンクル丈のチャコールグレーのスリムスラックス。
シャツのボタンは一番上だけが開けられ、鎖骨の窪みが上品に覗いている。腕まくりされた袖からは引き締まった前腕が伸び、スラックスは彼の驚異的な足の長さをこれでもかと強調していた。
シンプル極まりないコーディネートのはずなのに、湊が身に纏うだけで、まるで海外のコレクションのランウェイを歩くトップモデルのような、洗練されたオーラが立ち込めていた。
「ど、どうでしょうか……? 変じゃないですか?」
湊はおずおずと自分の裾を見下ろし、落ち着かない様子で葵の反応を窺っている。
その仕草だけが、いつもの従順な湊だった。そのギャップが、葵の胸を暴力的なまでの衝撃で打ち抜いた。
(……嘘でしょ。似合いすぎてる……!)
心の中で悲鳴を上げる葵の横に、いつの間にか先ほどの男性店員が音もなく擦り寄ってきていた。その店員もまた、目を血走らせて興奮を隠せない様子だった。
「お、お客様……! 素晴らしいです! 信じられないくらいお似合いです! このシャツ、シルエットが難しいので着こなせる方がなかなかいないんですが、お客様の骨格とプロポーションに完璧にハマってますよ!」
「あ、ありがとうございます……」
湊は店員の熱烈な賛辞に圧倒され、助けを求めるように葵を見つめた。
「葵さん……どうですか?」
葵はゴクリと唾を飲み込み、震えそうになる唇を引き結んで立ち上がった。
湊の前に歩み寄り、シャツの襟元をそっと整えてやる。指先が湊の胸元に触れると、薄いリネン越しに温かな体温と、力強い心臓の鼓動が伝わってきた。
「……うん。完璧。すっごく似合ってるわ」
葵が素直な賞賛を口にすると、湊の瞳が一瞬でパッと輝いた。
花が咲き乱れるような、至福の笑顔。
「本当ですか? 葵さんが選んでくれたから、すごく嬉しいです」
「お客様、本当にモデルさんか何かをされているんですか?」
店員が目を輝かせながら尋ねる。
「彼女さんの見立てがまた素晴らしいですね! 彼氏さんの魅力を百パーセント引き出してますよ。本当にお似合いのカップルですね!」
「――えっ!?」
葵の心臓が激しく跳ね上がった。
「か、彼女!? ち、違います! 私、この子の彼女なんかじゃ――」
慌てて手をブンブンと振って否定しようとした葵の言葉を、遮るように甘い声が落ちてきた。
「葵さん」
湊が、葵の手首をそっと優しく包み込んだ。
逃げようとした葵の身体が、ピクリと止まる。
湊は店員のことなどまるで眼中にないかのように、葵の瞳だけを真っ直ぐに見つめていた。
そして、悪戯っぽく、けれどどこまでも熱を帯びた声で、耳元に囁くように言ったのだ。
「僕、葵さんの好みの男になりたいです」
「――っっっ!?」
葵の脳内で、何かの臨界点が音を立てて弾け飛んだ。
葵さんの好みの男になりたい。
その言葉の意味を理解した瞬間、カァッと全身の血液が頭頂部へと沸騰していくのが分かった。耳まで真っ赤になり、心臓が肋骨を突き破らんばかりに暴れ狂う。
「な……な、何言って……!」
「葵さんが選んでくれた服を着て、葵さんの隣に立つのにふさわしい男になりたいんです。だから……これからも僕を、葵さんの好みに染めてくださいね」
湊は無邪気に微笑みながら、繋いだ手をさらにキュッと握り直した。
店員は「ヒューッ!」と心の中で歓声を上げているような生温かい笑みを浮かべ、葵は恥ずかしさのあまりその場に崩れ落ちそうだった。
「も、もういいから! それ全部買うから、早く着替えてきなさい!!」
葵は湊の胸板を押し、半ば無理やりフィッティングルームのカーテンを力任せに閉めた。
カーテンの向こうから「ふふっ」と湊の嬉しそうな忍び笑いが聞こえてきて、葵は両手で熱を持った顔を覆い、心の中で絶叫した。
(あの子、絶対にわざとやってる……! 何なのよもう、心臓が持たないわ……!)
結局、そのショップでシャツ三枚、スラックス二本、サマーニット二枚を購入し、さらに別のショップで下着のまとめ買いと、サイズを合わせた上質なレザースニーカーまで一式揃えることになった。
両手いっぱいに紙袋を抱えた湊は、葵が重いものを持とうとするのを断固として拒否し、すべての荷物を一人で誇らしげに持っていた。
「葵さんには、荷物ひとつ持たせません。僕が持つために付いてきたんですから」
そう言って胸を張る姿は、完全に頼もしい『男』の顔をしていた。
買い物を終える頃には、時刻はちょうど正午を過ぎていた。
モールの通路は家族連れやカップルでごった返しており、歩き疲れた葵の足元が少しふらついた。
「葵さん、少し座りましょう。喉、渇いてませんか?」
湊が敏感に葵の疲労を察知し、近くにあったオープンカフェのテラス席へと誘導してくれた。
「あそこの席を取っておきますね。葵さんは座って待っていてください。僕、お茶買ってきますから」
「あ、お金……」
「さっき葵さんから預かったお財布がありますから大丈夫です。冷たいアイスティーでいいですか?」
「ええ……ありがとう」
葵が席に着くと、湊は軽やかな足取りで注文カウンターへと向かった。
緑のパラソルの下、心地よい初夏の風が葵の熱を持った頬を冷ましていく。
背もたれに寄りかかりながら、葵は遠ざかる湊の背中をぼんやりと眺めた。
新しく買ったばかりのセージグリーンのシャツが、湊の引き締まった背中に美しく馴染んでいる。ただ注文の列に並んでいるだけなのに、周囲の女子高生たちがスマホを構えそうになるほどのオーラを放っていた。
その時、葵の背後のテーブルから、楽しげなおしゃべりの声が耳に届いた。
「ねえ、さっきテラスに入ってきたカップル見た?」
「見た見た! 男の子の方、信じられないくらいイケメンじゃない!?」
「でもさ、彼女さんの方、ちょっと年上っぽくない? 大人っぽくてすごく綺麗だけど」
「あー、年上彼女と年下イケメン彼氏かぁ。めっちゃお似合いじゃない? 男の子の方が彼女にベタ惚れって感じだったよね、荷物全部持ってエスコートしてさ……羨ましい〜!」
「…………っ」
葵の背筋が、ピシリと凍りついた。
お似合いのカップル。
年上彼女と、年下彼氏。
他愛のない世間話。悪意のない、むしろ好意的な第三者の視線。
けれどその言葉は、葵の胸の奥深くに潜んでいた『現実』という名の冷たい針となって、ちくりと突き刺さった。
(お似合い、だなんて……)
自嘲的な笑みが、葵の唇から零れ落ちそうになる。
他人の目には、そう見えているのだ。
けれど、現実は違う。
自分は三十三歳の大手デザイン会社の中間管理職。恋愛をリタイアし、仕事で心身をすり減らしてきたアラサー女だ。
そして湊は――正確な年齢はまだ聞いていないが、どう見ても二十歳そこそこの、これからの未来がいくらでも広がっている若者だ。
行き倒れの彼を保護し、家事代行として家に置いているだけの、いびつな関係。
ペットと飼い主。あるいは、保護者と保護対象。
それなのに、周囲から『恋人同士』として見られているという事実が、甘美な毒のように葵の胸を締め付け、同時に猛烈な居心地の悪さと気恥ずかしさを呼び起こしていた。
(調子に乗っちゃダメよ、葵……。あの子が懐いてるのは、行き場がなくて恩義を感じてるから。それだけなんだから……)
そう自分に強く言い聞かせ、胸のざわめきを押し殺そうとした。
「葵さん、お待たせしました!」
パタパタと小走りで戻ってきた湊が、トレイに乗せた二つのグラスをテーブルに置いた。
澄んだ琥珀色のアイスティーと、添えられたレモンの輪切り。
「葵さんの好きなアールグレイのアイスティーにしておきました。シロップ、入れますか?」
「……ううん、ストレートでいいわ。ありがとう、湊くん」
葵がグラスを受け取り、ストローに口をつける。冷たい紅茶の渋みとベルガモットの爽やかな香りが、乾いた喉を潤していく。
対面に座った湊は、自分のアイスカフェラテを美味しそうに飲みながら、満足そうにテラスの空を見上げた。
「外に出たの、久しぶりでした。こんなに天気のいい日に、葵さんと一緒に街を歩けるなんて……夢みたいです」
「大げさね。ただの買い物じゃない」
「ただの買い物じゃないですよ」
湊はグラスを置き、両手をテーブルの上で組んだ。
そして、先ほどまでの無邪気な表情から一変して、どこまでも深く、真摯な眼差しで葵を見つめた。
「葵さんが僕のために選んでくれた服を着て、葵さんの歩幅に合わせて歩いて……僕、生きててよかったって、本気で思いました」
「湊、くん……」
「家を出た夜、雨の中で倒れていた時は……もう僕の人生はここで終わりなんだって、全部諦めてました。でも、葵さんが僕の手を引いてくれたから、今こうして温かい光の下にいられるんです」
湊の長い睫毛が伏せられ、それから再び葵を捉えた。
その瞳の奥には、十代の少年が抱くにはあまりにも重く、深すぎる執着の炎が静かに揺らめいていた。
「だから、この服も、この時間も……僕にとっては一生の宝物です。絶対に忘れません」
「……っ」
心臓が、痛いほど跳ねた。
なんて重い言葉を口にするのだろう。
なんて切実な目で、自分を見つめるのだろう。
ただのペット。ただの同居人。
そうやって線を引こうとする葵の理性を、湊のまっすぐな愛情の熱が、少しずつ、けれど確実に溶かしていく。
「……もう、本当に大げさなんだから」
葵は動揺を隠すようにそっぽを向き、ストローで氷をカランと鳴らした。
「服なんて、着倒してボロボロになったらまた買い替えればいいのよ」
「嫌です。擦り切れるまで大切に着ます。……葵さんが、僕のために選んでくれたんですから」
湊は悪戯っぽく微笑み、テーブル越しに葵の手の甲へそっと自分の指先を重ねた。
温かい体温が肌を通して伝わってくる。
モールを行き交う人々の喧騒の中で、ふたりだけの空間が切り取られたかのように、時がゆっくりと流れていた。
周囲の視線も、年齢差の引け目も、この瞬間だけはどこか遠くへ霞んでいく。
完璧すぎる『ペット』に、生活だけでなく、心まで少しずつ侵食されていることを自覚しながら、葵はその重ねられた手の温もりを、どうしても振り払うことができなかった。




