第35話:残された鍵と、別れの手紙
東の地平から昇った初夏の太陽は、昨夜の重苦しい豪雨の爪痕など微塵も残さぬほどに、容赦のない眩い白光を世界へと注ぎ込んでいた。
二〇五号室の寝室。遮光カーテンのわずかな隙間から差し込んだ朝の光の筋が、フローリングを真っ直ぐに走り、白いシーツの端を淡く照らし出している。
外の街路樹では、夏の訪れを告げるセミの初鳴きがジリジリと小さく響き始めていた。
葵は、一睡もできぬまま迎えた朝の光の中で、そっと目蓋を開けた。
全身の神経が擦り切れ、頭蓋骨の奥は重たい鉛を流し込まれたように鈍く疼いていた。けれど、その肉体的な疲労よりも遥かに鋭い痛みが、葵の胸の真ん中を絶え間なくえぐり続けていた。
隣を見る。
薄い羽毛布団の横、葵のすぐ隣で、湊がまだ深い眠りの中にいた。
昨夜の激しい慟哭の記憶を刻みつけるように、その長い睫毛の先には、乾ききらない微かな湿り気が残っている。
葵のパジャマの裾を、今なお固く握りしめたままの白い指先。
まるで、目覚めた瞬間に葵がどこかへ消えてしまっていないかを確かめるための命綱であるかのように、その小さな握力は眠りの中でも緩むことはなかった。
(……湊くん)
葵は息を殺し、そっと自分の指先を伸ばした。
触れようとして、けれどその指を途中で止める。
今、この肌に触れてしまえば、昨夜必死に築き上げたはずの「三十三歳の大人の分別」という名の冷たい氷壁が、一瞬にして溶け崩れてしまいそうだったからだ。
九条家の正統なる後継者。
国家の経済を動かす巨大財閥の御曹司。
母の愛を奪われ、心を殺され、十八年間を冷酷な人形として過ごしてきた少年。
その彼が、人生で初めて見出した「生きている居場所」が、この狭い賃貸マンションの四畳半であり、藤堂葵という擦り切れた女の腕の中だった。
『葵さんのいない世界に戻るくらいなら、死んだ方がマシだ』
その叫びは本物だった。
けれど、だからこそ――彼をここに繋ぎ止めておくことは、彼の未来を完全に焼き尽くすことに他ならなかった。
葵が身を引かなければ、九条家の冷酷な力によって、葵の会社も、仲間たちも、そして何より湊自身の社会的立場も、すべてが破滅へと追いやられる。
愛しているからこそ、手放さなければならない。
その残酷すぎる真実を胸の奥深くに突き刺しながら、葵は湊の指を傷つけないよう、ミリ単位の慎重さで自らのパジャマの裾を彼の掌から外していった。
「……ん……っ」
布地が離れた拍子に、湊が小さく眉を寄せ、身じろぎをした。
葵は心臓が止まるかと思いながら動きを止め、息を詰めた。
湊は空になった自らの掌を虚しく彷徨わせ、シーツをぎゅっと掻き抱くと、再び規則正しい寝息の中へと沈んでいった。
葵はベッドから音もなく滑り出ると、冷えたフローリングを踏みしめ、リビングへと足を進めた。
***
午前八時。
葵が洗面台で顔を洗い、冷たい水で腫れた目元を冷やしていると、リビングの扉が静かに開く音がした。
「……葵さん?」
掠れた、寝起きのハスキーボイス。
鏡の向こうから振り返ると、寝癖のついた黒髪を揺らしながら、湊が不安そうにこちらを見つめていた。
オーバーサイズのグレーのスウェット。昨夜のパニックの名残か、その瞳は酷く怯え、葵の姿を捉えた瞬間に、強張っていた肩からふっと力が抜けていくのが分かった。
「おはよう、湊くん。よく眠れた?」
葵は鏡の前で、三十三年の人生で培ったすべての演技力を総動員して、柔らかく穏やかな微笑みを作ってみせた。
絶対に、悟られてはならない。
自分の胸の内にある冷徹なカウントダウンを、この鋭すぎる少年に一ミリたりとも察知させてはならないのだ。
「……はい。葵さんが、隣にいてくれたから」
湊はそう呟くと、ふらふらとした足取りで葵の元へと歩み寄り、背後から葵の細い肩にそっと自らの額を預けてきた。
コテン、と触れ合う温もり。
さらりとした前髪が葵の首筋をくすぐる。
「葵さん……昨夜は、ごめんなさい。僕、取り乱して……葵さんを怖がらせちゃいましたよね」
「ううん。謝らないで。話してくれて嬉しかったわ」
「……本当に、僕のこと、嫌いになってないですか?」
「当たり前じゃない。嫌いになんて、なるわけないでしょ」
葵は湊の腕に手を重ね、優しく叩いた。
嘘ではない。嫌いになるどころか、胸が張り裂けそうなほどに愛おしかった。愛おしくて、愛おしくて、今すぐにでもこの背中に振り向き、泣きながら彼を抱きしめて「どこへも行かないで」と叫び出したかった。
けれど、葵は喉の奥に込み上げてくる血の味のする嗚咽を、力任せに飲み下した。
「さぁ、顔を洗っておいで。お腹、空いたでしょう?」
「あ……僕が朝ご飯作ります! 葵さんは座って待っててください!」
湊は弾かれたように顔を上げると、いつものように慌ててエプロンへと手を伸ばした。
どんなに心が傷ついていても、葵のためにご飯を作ることだけは絶対に譲らない。それが彼の、自らの存在を繋ぎ止めるための唯一の祈りなのだ。
「……ええ。楽しみに待ってるわね」
葵が微笑むと、湊は心底安堵したように、パッと花が綻ぶような笑顔を見せた。
キッチンから、トントントンと軽快な包丁の音が響いてくる。
リビングのソファに腰掛け、葵はその音を、網膜ならぬ鼓膜の奥深くに焼き付けるようにして聴き入っていた。
冷蔵庫の開閉音。
ガスコンロに火が灯るボッと乾いた音。
やがて、漂ってきたのは――甘く香ばしい、バターとバニラの香りだった。
「お待たせしました、葵さん!」
運ばれてきた白い平皿を見て、葵は目を見張った。
こんがりときつね色に焼き上げられた、極厚切りのフレンチトースト。
表面には粉砂糖が雪のように美しく振られ、小皿には色鮮やかなブルーベリーと、手作りのマスカルポーネ風クリームが添えられている。
「……フレンチトースト?」
「はい! 代官山のカフェで、葵さんすごく美味しそうに食べてくれたでしょう? あの味を再現したくて、実は昨日の夜から、バゲットを特製のアパレイユにじっくり漬け込んでおいたんです」
湊はエプロンの前で両手を揃え、誇らしげに、けれど少し照れくさそうに笑った。
「本当は、もっと特別な日に出すつもりだったんですけど……今朝は、葵さんに元気を出してほしくて」
「湊、くん……」
「冷めないうちにどうぞ。あ、熱いから気をつけてくださいね」
葵は震える指先でフォークを手に取った。
ナイフを入れると、外側はサクッと心地よい音を立て、内側からはとろりとした濃厚なカスタードのような生地が溢れ出してくる。
一口大に切り、口の中へ運ぶ。
――じゅわり。
発酵バターの豊かなコクと、メープルシロップの上品な甘み、そして卵とミルクの優しい温もりが、口いっぱいに広がった。
あの日、代官山で湊が日払いのアルバイト代を握りしめ、「男として奢らせてください」と照れ笑いを浮かべた時の記憶が、鮮烈に蘇る。
美味しい。
あまりにも美味しくて、胃の腑がじんわりと温まる。
そして――これが、九条湊という少年が葵のために作ってくれる、人生で最後の食事なのだという事実が、葵の胸を容赦なく切り裂いた。
「……美味しいわ」
葵の唇から、掠れた声が漏れた。
「代官山のお店より……ずっと、ずっと美味しい」
「本当ですか!?」
湊の漆黒の瞳が、少年のように輝いた。
「よかった……! 葵さんの好みの味付け、僕、完全に把握してますから。これからも、土曜日の朝はフレンチトーストにしましょうね。パンの種類を変えたり、季節のフルーツを添えたりして……葵さんが飽きないように、一生かけて研究しますから」
「……ええ。そうね」
一生。
その言葉の重みに、葵の視界が急速に歪みそうになる。
葵は慌てて視線を落とし、二口目のフレンチトーストを口に運んだ。
噛み締めるたびに、喉の奥がツンと痛む。
涙がこぼれ落ちそうになるのを必死に堪え、葵は一欠片も残さず、綺麗にその皿を空にした。
最後の手料理。
この味を、この温もりを、自分は一生涯、忘れることはないだろう。
***
正午を過ぎた頃、部屋の中に微かな慌ただしさが訪れた。
「葵さん、そろそろ配送センターのバイトに行ってきますね」
湊がTシャツの上にネイビーのシャツを羽織りながら、リビングへと姿を現した。
黒の細身のパンツに、履き慣れたスニーカー。
荷物の仕分けという過酷な肉体労働へ向かう格好であるはずなのに、その立ち姿はまるでコレクションモデルのように洗練されていた。
「今日は夕方五時までのシフトなんです。終わったらすぐにスーパーに寄って、葵さんの好きな桃を買ってきますね。冷やして夜のデザートにしましょう」
「……うん。気をつけて行ってくるのよ」
葵はソファから立ち上がり、玄関へと向かう湊の背中を追った。
玄関の上がり框。
スニーカーの紐を結び終えた湊が、立ち上がり、葵の方へと向き直る。
その時、湊の瞳が、葵の着ている服へと微かに走った。
葵は、いつものだらしない部屋着ではなく、休日の外出用の上品なサマーニットとロングスカートを身に纏っていたのだ。
「あれ? 葵さん、お出かけするんですか?」
湊の眉が、わずかにピクリと跳ねた。
警戒心。
昨夜のあの怯えが、一瞬だけその表情をかすめる。
葵は心臓の拍動を必死に抑え込み、これ以上ないほど自然な口調で微笑んでみせた。
「ええ。駅前のドラッグストアに、日用品の買い出しに行こうと思って。洗剤も切れそうだったし、ついでにクリーニングも出しておきたいから」
「あ、それなら僕が帰りに寄ってきますよ! 重いもの持たせたくないですし――」
「いいのよ」
葵は湊の言葉を、優しく遮った。
「湊くんはこれからバイトで身体を使うんだから。それに……たまには私にも、家事らしいことをさせてちょうだい。夕方には戻ってるから」
「……そうですか?」
湊はまだ少し納得がいかない様子で、葵の顔をじっと見つめていた。
何かを探るような、張り詰めた沈黙。
葵は呼吸を乱さず、ただ愛おしそうに湊の瞳を見つめ返した。
数秒の後――。
湊の表情が、ふっと柔らかく綻んだ。
「分かりました。でも、本当に無理しないでくださいね。重いものは僕が後で買い直しますから」
「ええ。ありがとう」
湊はそう言うと、一歩、葵へと歩み寄ってきた。
そして、葵の細い腰を引き寄せると、その額へと、そっと熱い唇を落とした。
ちゅ、と柔らかな音が玄関に響く。
「葵さん」
至近距離にある、息を呑むほどの美貌。
湊は葵の瞳を熱烈に見つめ、耳元へと甘く囁いた。
「行ってきます。……今日も、世界で一番愛してます」
「……っ」
胸が、引き裂かれる。
葵は震えそうになる唇を必死に引き結び、精一杯の笑顔を浮かべた。
「……行ってらっしゃい、湊くん」
ガチャリ。
ドアノブが回され、外の初夏の熱気が玄関へと流れ込む。
湊は振り返り、もう一度だけ眩い笑顔を葵に向けると、軽やかな足取りで廊下へと踏み出していった。
パタン。
重厚な金属扉が閉まり、オートロックの閂がカチャリと落ちる。
――遠ざかる、スニーカーの足音。
タッ、タッ、タッ……。
内廊下の絨毯を蹴るその規則正しい音が、エレベーターホールの向こうへと消え去り、やがて、チーンという電子音とともに、完全に外界の静寂へと溶けていった。
その瞬間だった。
「…………っ、あ…………っ!」
葵の膝から、完全に力が抜け落ちた。
ドサリと、玄関のたたきの上に崩れ落ちる。
壁に背中をもたれかけさせたまま、葵は両手で顔を覆い、激しく肩を震わせた。
声にならなかった。
喉の奥から込み上げてくる慟哭が、息を詰まらせ、胸を掻き毟るような激痛となって全身を襲う。
行ってしまった。
彼を、自分の嘘で送り出してしまった。
あんなにも無邪気に、あんなにも自分を信じ切って、「世界で一番愛してます」と笑ってくれた少年を、自分は自らの手で裏切ろうとしているのだ。
「う……っ、ぅあ……っ、湊、くん……っ!」
けれど、泣いている時間はなかった。
壁の時計の針は、すでに午後零時半を回っている。
湊のシフトは午後五時まで。けれど、彼のことだ、葵を心配して四時半には仕事を切り上げて飛んで帰ってくるかもしれない。
残された時間は、三時間あまり。
葵は涙を手の甲で乱暴に拭い去ると、震える膝に力を込めて、ふらつきながら立ち上がった。
***
寝室のクローゼットから引っ張り出したのは、数年前の社員旅行で使ったきり、奥深くに眠っていた小型のスーツケースだった。
バチン、とジッパーを開き、ベッドの上に広げる。
荷造りをしなければならない。
けれど、クローゼットを開けた瞬間、葵の手が止まった。
そこには、葵のオフィスカジュアルの服と並んで、休日に湊と一緒に選んだシャツや、葵が買い与えた柔らかなカーディガンが、等間隔で整然と掛けられていた。
すべて、湊の手によって完璧にアイロンがかけられ、防虫カバーが被せられている。
引き出しを開ければ、葵のインナーや靴下が、まるでお店のディスプレイのように美しく畳まれて並んでいた。
洗面所へ行けば、ふたつ並んだ歯ブラシ。葵の化粧水の隣に置かれた、湊の愛用する低刺激のメンズ化粧水。
キッチンへ行けば、冷蔵庫の扉に貼られた、湊の達筆なメモ。
『大根の下茹で完了してます。お味噌汁の具はナスと油揚げです。お出汁は一番出汁を取って冷蔵庫の奥にあります。葵さん、温めて食べてね』
シンクの横には、彼が毎日きっちり洗って干していた、淡いベージュのエプロンが、葵の帰りを待つかのように静かに吊るされていた。
「……あの子の痕跡ばっかりじゃない……」
葵の唇から、自嘲の息が漏れた。
この部屋のどこを見渡しても、九条湊という存在が侵食していない場所など、一箇所も残っていなかった。
たった数週間の同居だった。
それなのに、三十三年の人生の中で築き上げてきたはずの葵の生活は、この少年の圧倒的な献身と温もりによって、完全に塗り替えられてしまっていたのだ。
持っていけるものなど、ほとんどなかった。
仕事に必要なノートパソコンと、数日分の着替えのスーツ、下着、そして通帳と印鑑の入ったポーチ。
湊の温もりが染み付いたルームウェアも、彼とお揃いで買ったマグカップも、彼が選んでくれたダスティピンクのスカートも、何一つ持っていくことはできなかった。
それらを目にするたびに、胸が張り裂けて狂ってしまいそうだったからだ。
荷物は、小さなスーツケースの半分すら埋まらなかった。
これが、三十三歳の女の、逃亡の全財産だった。
スーツケースのジッパーを閉じ、葵はリビングのローテーブルの前に座り込んだ。
引き出しから取り出したのは、一枚の真っ白な便箋と、黒のボールペンだった。
手紙を、残さなければならない。
何も言わずに姿を消せば、湊は警察を呼び、街中を血眼になって探し回るだろう。
彼に、諦めさせなければならない。
九条家に戻ることが、彼の唯一の道なのだと、残酷な現実を突きつけなければならない。
ペンを握る指先が、ガタガタと激しく震えた。
紙の上にペン先を落とす。
けれど、インクは一文字も進まなかった。
(何を書けばいいの……?)
胸の奥から、無数の言葉が溢れ出しては消えていく。
『愛しています』
『あなたの料理が大好きでした』
『あなたの腕の中が、世界で一番幸せでした』
『ごめんなさい、私にはあなたを背負いきれなかった』
そんな本音を書けばどうなる?
湊は、葵が愛ゆえに身を引いたのだと瞬時に見抜くだろう。
そして、己の身を滅ぼしてでも、世界を敵に回してでも、葵を地の果てまで追いかけてくるに違いない。
それでは、意味がないのだ。
彼を九条家へ戻し、その輝かしい未来へと押し戻すためには――藤堂葵という女を、心の底から軽蔑させ、憎ませ、幻滅させなければならない。
冷酷な、打算に満ちた、薄情な女として、彼の記憶の中で死ななければならないのだ。
「……っ、う……ぅ……」
奥歯を強く噛み締めると、口の中に鉄の味が広がった。
涙が、便箋の上にポタリと落ちた。
乾きかけた紙に、丸い染みが広がる。
葵は震える右手に力を込め、自らの心をナイフで切り裂くようにして、ペンを走らせた。
――走り書きのような、乾いた文字。
長々と弁明など書かない。
言い訳も、感謝も、愛の言葉も、一切を削ぎ落とした。
ただ、残酷な一言だけを。
『湊くんへ
ごめんなさい。
やっぱり、私には無理でした。
三十三歳の私にとって、あなたの背負っているものは重すぎます。
あなたの家からの圧力も、世間からの目も、私には耐えられません。
私は私のキャリアと、平穏な生活を守りたい。
あなたとこれ以上一緒にいても、私には何のメリットもありません。
拾った犬に、名前をつけてはいけなかった。
本家へ戻りなさい。
それが、あなたにとっても一番いいはずです。
元気でいてね。
葵』
「…………っ、あぁぁぁぁ……っ!」
書き終えた瞬間、葵はペンを取り落とし、テーブルの上に突っ伏した。
喉を掻き毟るような慟哭が、無人のリビングに木霊する。
拾った犬に、名前をつけてはいけなかった。
出会ったあの日、自分が苦笑交じりに口にした、あの最低の言葉。
彼がどれほどその言葉に傷つき、けれど必死に『ご主人様』と笑って見せてくれたかを知りながら、最後の最後に、その傷口を抉るような毒針を突き刺したのだ。
これで、あの子は自分を憎むだろう。
軽蔑し、幻滅し、裏切られた怒りに震えるだろう。
それでいい。
愛された記憶のまま引き裂かれるより、憎まれて忘れ去られる方が、あの子の未来にとっては遥かに救いがあるはずだ。
葵は涙でぐしゃぐしゃになった顔を上げ、手紙を半分に折った。
そして、ローテーブルの中央――今朝、ふたりで囲んだフレンチトーストの皿が置かれていたその場所に、手紙を置いた。
その上に。
葵のキーケースから外した、二〇五号室の『合鍵』を、静かに重ねた。
金属の冷たい輝きが、紙の白さの上に落ちる。
これで、すべてが終わった。
***
時計の針は、午後二時を回っていた。
葵はスーツケースの持ち手を握り、立ち上がった。
靴を履き、玄関のドアノブに手をかける。
最後に、もう一度だけ、部屋を振り返った。
綺麗に磨かれたフローリング。
初夏の柔らかな陽光が注ぐ窓辺。
出汁の香りがほのかに残るキッチン。
ピカピカに片付けられたテーブルの上に置かれた、一通の手紙と、銀色の鍵。
そこには、葵が三十三年の人生で手に入れた、最も甘やかで、最も眩しく、そして二度と戻ることのできない――世界で一番美しい楽園の残骸があった。
「……さようなら、湊くん」
声にならない呟きを残し、葵はドアを開けた。
初夏の生温い風が、涙で冷え切った葵の頬を撫で上げる。
葵は一歩、外廊下へと踏み出した。
そして、二度と振り返ることなく、重たい金属扉を静かに閉ざした。
カチャリ、と。
オートロックの閉まる無機質な音が、ふたりの愛の終わりを告げる弔鐘のように、静まり返った廊下に冷たく響き渡ったのだった。




