第36話:空っぽの部屋、崩壊する理性
初夏の西日が、東京の空を毒々しいほど鮮烈な茜色と紫の混濁へと染め上げていた。
アスファルトが一日中吸い込んだ熱気をじわりと吐き出し、駅前を行き交う人々の影を長く引き伸ばしている。
午後四時四十分。配送センターでの単発アルバイトを予定より二十分も早く終わらせた九条湊は、夕暮れの熱気を含んだ坂道を、まるで翼を得た鳥のような軽快な足取りで駆け上がっていた。
汗を吸ったネイビーのシャツの襟元を手で軽く煽りながらも、その口元には、抑えきれない至福の笑みがずっと浮かんでいた。
左手には、高級フルーツ店のロゴが金箔で押された、小さな紙袋が提げられている。
中に入っているのは、山梨産の特秀品にランクづけられた、大玉の白桃が二個。
今日のアルバイトで稼いだ日当の大半を注ぎ込んで購入したものだ。産毛の生えた淡い桃色の果皮からは、甘く瑞々しい芳醇な香りが、紙袋の隙間を縫ってふわりと漂っていた。
(……葵さん、喜んでくれるかな)
思い浮かべるのは、愛してやまない女性の顔だった。
甘いものが大好きなのに、会社では「大人のマネージャー」としてキリッと振る舞い、家で桃の皮を剥いて差し出すと、ふにゃりと目元を緩めて少女のように相好を崩す、あの無防備で愛らしい表情。
冷蔵庫でキンキンに冷やしてから、丁寧に湯むきをして、一口大に切り分けてガラスの器に盛ろう。
葵の好きなアールグレイの紅茶をアイスで淹れて、ベランダの夕涼みの中で一緒に食べよう。
今朝、家を出る時、葵は玄関で優しく微笑んでくれた。
昨夜、自らの忌まわしい過去――母の冷遇と怪死、九条家での血の通わない人形のような帝王教育、そして政略結婚の檻から逃げ出してきたことのすべてを打ち明けた時、葵は泣きじゃくる湊の頭を抱きしめ、「嫌いになんてなるわけないでしょ」と温かい涙を流してくれたのだ。
神楽坂弁護士の影に怯え、本家に連れ戻される悪夢に震えていた湊の心を、葵の温もりは完璧に救い出してくれたはずだった。
『夕方には戻ってるから』
そう言って送り出してくれた葵の柔らかな声が、耳の奥で心地よく反響していた。
(早く会いたい。一秒でも早く、葵さんを抱きしめたい)
胸の中で跳ねる熱い心拍に背中を押され、湊はマンションのエントランスへと滑り込んだ。
自動ドアをくぐり、エレベーターのボタンを押す。
二階への短い上昇時間が、永遠のようにじれったい。
チーン、という電子音とともに扉が開き、内廊下の絨毯を踏みしめる。
二〇五号室の前に辿り着いた湊は、呼吸をわずかに整えると、ポケットから合鍵を取り出した。
鍵穴に差し込み、回す。
カチャリ、と小気味よい解錠の音が鳴った。
湊は、世界中の光をすべて集めたような満面の笑顔を浮かべ、勢いよくドアノブを押し下げた。
「葵さん! ただいま帰りました! 桃、すごく美味しそうなのが手に入って――」
――パタン。
背後で、重い玄関扉が静かに閉ざされた。
けれど。
いつもなら、湊のその声に応えて「おかえり、湊くん」とリビングから響いてくるはずの、あの愛しい声は返ってこなかった。
「……葵さん?」
湊は玄関の上がり框に立ったまま、首を傾げた。
しんと、静まり返っている。
部屋の中に漂っていたのは、夕食の準備をする美味しそうな出汁の匂いでも、葵が好んで焚いているラベンダーのアロマの香りでもなかった。
何もない。
まるで、何週間も誰も住んでいないモデルルームのような、冷え切った、無機質な空気だけがそこには澱んでいた。
(……まだ、お買い物から帰ってないのかな)
湊は小さく息を漏らし、自嘲気味に口元を緩めた。
朝、葵は言っていた。『駅前のドラッグストアに買い出しに行って、クリーニングも出しておきたい』と。荷物が重くなって手間取っているのかもしれない。それなら、自分が駅前まで迎えに行って、荷物を持ってあげればよかった。
そう思いながら、湊はスニーカーを脱ぎ、上がり框へと足を踏み入れた。
紙袋をキッチンのカウンターに置き、冷蔵庫を開けて麦茶を一口飲もうとした――その刹那だった。
湊の足が、ピタリと止まった。
視線が、玄関のシューズボックスの横へと落ちる。
――ない。
いつもそこに揃えて置かれていたはずの、葵の黒い通勤用レザーパンプスが、なかった。
それだけではない。
葵が休日に履くお気に入りのフラットシューズも、雨の日に履くショートブーツも、綺麗さっぱりと姿を消していた。
残されているのは、湊が履いているスニーカーと、葵が湊のために買い与えてくれたサンダルだけだった。
「……え?」
湊の喉から、掠れた小さな息が漏れた。
心臓が、トクン、と嫌な拍動を打つ。
ドラッグストアへの買い物に、通勤用のパンプスや複数の靴をまとめて履いていくはずがない。
湊は早足になり、リビングを通り抜けて洗面所へと向かった。
パチン、と照明をつける。
鏡張りの洗面台。
そこにあったはずの、葵の基礎化粧品のボトルが、一本もなかった。
いつも雑然と置かれていたヘアオイルも、コットンケースも、ファンデーションのコンパクトも、綺麗に拭き取られたように消え去っていた。
歯ブラシスタンドの中。
ふたつ並んでいたはずのスタンドには、湊の青い歯ブラシだけが、ぽつんと寂しげに一本、突っ立っていた。
「嘘だろ……」
湊の指先が、ガタガタと震え始めた。
背筋を、氷水を直接流し込まれたかのような猛烈な悪寒が駆け抜けていく。
湊は弾かれたように洗面所を飛び出し、寝室のドアを乱暴に開け放った。
バンッ、と扉が壁に激突する。
寝室のウォークインクローゼットへ駆け込み、両手で激しく扉を左右に押し広げた。
「葵さん……!? 葵さん!!」
クローゼットの中は、異様な空間と化していた。
葵のスーツ、ブラウス、スカート、コート――彼女が十数年のキャリアの中で買い揃えてきたはずの衣服の数々が、すべて消え去っていた。
ハンガーだけが、カラン、カランと虚しい金属音を立てて揺れている。
床の隅に置かれていたはずの、黒い小型のスーツケースも、跡形もなく消えていた。
残されていたのは、湊の服だけだった。
葵が「湊くんに似合いそう」とショッピングモールで選んでくれたサマーニット、代官山へ出かけた時に着たシャツ、部屋着のスウェット。
湊の私物だけが、まるで取り残されたゴミのように、整然とクローゼットの中に吊るされていた。
「あ……っ、ぁ……」
湊の視界が、ぐにゃりと歪んだ。
頭蓋骨の内側を、警鐘が狂ったように乱打する。
呼吸ができない。
肺の奥が引き攣り、酸素が脳へと届かない。
連れ去られたのか?
あの神楽坂が、九条家の息のかかった男たちが、湊の留守を見計らって部屋に踏み込み、葵を力ずくで拉致したのか?
――いや、違う。
荒らされた形跡など、どこにもなかった。
靴は綺麗に持ち去られ、クローゼットの引き出しは整然と閉められ、洗面台の水滴すら拭き取られていた。
これは、襲撃ではない。
これは――自らの意思による、計画的な退去だ。
「葵さん……? どこ……どこに行ったんですか……!?」
湊はよろめきながら寝室を出て、リビングへと戻った。
西日が、閉め忘れられたカーテンの隙間から差し込み、フローリングを血のような赤色に染め上げていた。
そして。
その血のような光の真ん中――ピカピカに磨かれたローテーブルの中央に、ぽつんと置かれていたものに、湊の視線が吸い寄せられた。
そこにあったのは、見覚えのある銀色の金属片。
葵のキーケースから外された、二〇五号室の『合鍵』だった。
そして、その冷たい鍵の下に敷かれるようにして、半分に折られた、純白の便箋が一枚。
「…………っ」
湊の足が、磁石に引き寄せられるように前へと進んだ。
一歩、また一歩。
膝が笑い、床を踏みしめる感覚が消え失せていく。
ローテーブルの前にへたり込むように両膝をついた湊は、震える右手を伸ばした。
鍵が、カチリと音を立てて床へと落ちる。
残された便箋を、破れそうなほどの手加減で、そっと指先で開いた。
そこに並んでいたのは、葵の、あの見慣れた少し丸みを帯びた達筆な文字だった。
けれど、インクの筆跡は所々で細かく乱れ、紙の表面には、乾いた涙の痕が、無数の波紋のように刻みつけられていた。
『湊くんへ
ごめんなさい。
やっぱり、私には無理でした。
三十三歳の私にとって、あなたの背負っているものは重すぎます。
あなたの家からの圧力も、世間からの目も、私には耐えられません。
私は私のキャリアと、平穏な生活を守りたい。
あなたとこれ以上一緒にいても、私には何のメリットもありません。
拾った犬に、名前をつけてはいけなかった。
本家へ戻りなさい。
それが、あなたにとっても一番いいはずです。
元気でいてね。
葵』
「…………」
時が、止まった。
すべての音が、世界から完全に消滅した。
セミの声も、遠くの車の走行音も、夕暮れの風のざわめきも。
文字が、湊の網膜を焼き尽くすように、黒々と突き刺さっていた。
――『やっぱり、私には無理でした』
――『何のメリットもありません』
――『拾った犬に、名前をつけてはいけなかった』
――『元気でいてね』
「……あ」
湊の唇から、掠れた声が零れ落ちた。
瞳孔が、極限まで収縮していく。
「あぁ……っ、あぁぁぁ……っ」
手紙を持つ指先が、紙が破れるほど強く軋んだ。
全身の血液が、足元から急速に凍りついていくような感覚。
胸の奥底で、何かがパリンと音を立てて砕け散った。
いや、砕け散ったのではない。
十八年間、必死に胸の奥に閉じ込めていた、ドロドロとした黒い泥のような感情の檻が、内側から完全に爆破されたのだ。
――拾った犬に、名前をつけてはいけなかった。
あの言葉。
出会った雨の夜、葵が苦笑交じりに口にした、あの言葉。
それを、最後の最後に、湊を完全に突き放すための刃として突きつけてきた。
嘘だ。
嘘に決まっている。
手紙の表面に落ちた、この無数の涙の染みが、何よりの証拠だった。
葵は、湊を嫌いになって出て行ったのではない。
九条家の圧力に屈し、湊の未来を案じ、三十三歳の大人の分別とやらを振りかざして、自ら泥を被って身を引いたのだ。
自分を犠牲にして、湊を九条家の正統なる後継者という『正しいレール』へと押し戻すために。
「……ふざけるな」
ポツリと、湊の喉から言葉が落ちた。
それは、これまでの湊の声とは、根本から異なる響きだった。
掠れてもいない。震えてもいない。
氷点下の絶対零度まで冷え切った、底知れぬ重低音。
「ふざけるなよ……ッ!!」
――ドォンッ!!
湊の右拳が、無垢材のローテーブルを激しく叩きつけた。
鈍い衝撃音がリビングに轟き、テーブルの上のガラスの灰皿が跳ね上がり、床に落ちて粉々に砕け散る。
拳の皮膚が裂け、鮮血が木目の上にじわりと滲み出した。
けれど、湊はその痛みに眉ひとつ動かさなかった。
「誰が……誰がそんなこと頼んだ……!?」
湊は立ち上がった。
すらりと伸びた長身。
けれど、その姿には、先ほどまで葵の帰りを待ちわびていた「人懐こい大型犬」の面影は、一片たりとも残っていなかった。
前髪の隙間から覗くその瞳。
そこから、光が完全に消え失せていた。
漆黒の深淵。
人間の情動をすべて削ぎ落とし、獲物を仕留めることだけに研ぎ澄まされた、狂暴な獣の眼差し。
白い陶器のような肌には、怒りと憎悪で青筋が浮き上がり、薄い唇は、ぞっとするほど冷酷で、禍々しい弧を描いて吊り上がっていた。
「メリット……? 重すぎる……? 本家に戻れ……?」
湊の口から、乾いた嘲笑が漏れ出た。
「ククッ……アハハッ、ハハハハハハッ!!」
狂気に満ちた哄笑が、夕暮れの空っぽの部屋に響き渡る。
湊は自らの額に手を当て、指を黒髪の中に深く食い込ませながら、狂ったように笑い続けた。
「何が『元気でいてね』だ……! 何が『大人の分別』だ……! ふざけた手紙を一枚残して、綺麗に身を引いたつもりかよ……藤堂葵……ッ!」
湊は手紙を胸元に引き寄せると、それを愛おしそうに、けれど今にも噛み千切りそうなほどの狂気配を込めて、自らの唇へと強く押し当てた。
紙に残る、葵の涙の匂い。
葵の体温の微かな残滓。
それを吸い込むたびに、湊の脳髄の奥底で、黒い炎が爆発的な勢いで燃え盛っていく。
――犬?
そうですよ。僕はあなたの犬だ。
雨の夜に拾われ、あなたの手料理を食べ、あなたの足元ですり寄り、あなたの温もりなしでは息もできない身体にされた、あなただけの忠犬だ。
だけど――。
「飼い主のくせに……首輪を外して逃げられるとでも思ったんですか、葵さん」
低く、地を這うような呟きが、静まり返った部屋に落ちた。
人懐こいワンコの殻は、完全に砕け散っていた。
そこに立っていたのは、九条家の冷酷な血を最も濃く受け継ぎ、目的のためなら世界中のすべてを焼き尽くすことも厭わない――一人の絶対的な支配者だった。
舐めるな。
大人の常識で、世間体で、年齢の差で、この僕を切り捨てられると思うな。
僕の人生を救っておいて。僕に心を教えておいて。
僕をこんな狂気に満ちた怪物に変えさせておいて――今さら、他人の顔をして逃げ去ることなど、この僕が許すはずがない。
「逃がさない」
湊の漆黒の双眸が、ギラリと妖しい光を放った。
「地の果てまで逃げたって、無駄ですよ。……僕があなたを、見つけ出せないとでも思いましたか?」
湊は床に落ちていた自らのスマートフォン――家を出る際に持ち出した、九条家の息のかかった端末を手に取った。
これまでは、本家に居場所を特定されるのを恐れ、電源を切り、SIMカードを抜いて封印していた端末。
けれど、もうそんな警戒などどうでもよかった。
九条家に連れ戻される?
上等だ。
九条家の巨大な権力、世界中に張り巡らされた情報網、警察すら動かす裏の人脈――そのすべてを、僕がこの手で利用し尽くしてやる。
葵を取り戻すためなら、悪魔に魂を売り渡すことすら、一片の躊躇いもない。
カチリ、と電源ボタンを長押しする。
液晶画面が白く発光し、数週間ぶりに電波を掴んだ端末が、激しい振動とともに未読の着信とメッセージの通知を吐き出し始めた。
数十件に及ぶ、九条宗一郎からの直通着信。
そして、神楽坂弁護士からの緊急連絡。
湊は画面を無表情に見つめると、通話履歴の最上段にある番号――神楽坂の直通ダイヤルを、躊躇うことなくタップした。
ツーツーツー……。
呼び出し音が、二回鳴る。
そして、三回目が鳴る前に、カチャリと通話が接続された。
『……もしもし! 湊様ですか!?』
受話器の向こうから飛び出してきたのは、あの老獪な神楽坂弁護士の、驚愕と焦燥に満ちた上ずった声だった。
『湊様! ご無事だったのですね! 現在、どちらにおいでですか!? 当主も親族一同も、あなたをお探しして――』
「神楽坂」
湊は、相手の言葉を平然と両断した。
その声音のあまりの冷徹さに、電話の向こうの神楽坂が息を呑み、言葉を失ったのが分かった。
十八歳の少年の声ではない。
九条家という怪物の頂点に立つ資格を持つ者だけが放つ、他者を絶対的に屈服させる支配者の響き。
「……湊、様……?」
「手回しが早かったですね。……僕の女に、何を吹き込んだ?」
ピシリ、と電話越しの空気が凍りついた。
『そ、それは……九条家の後継者としての秩序を守るため、大人の分別ある対応を求めたまでです。彼女自身も納得し、自ら身を引いたはず――』
「口を慎め」
湊の声は静かだった。怒鳴るわけでもない。
だが、その静寂の底には、逆鱗に触れた獣の無慈悲な殺意が渦巻いていた。
「誰の許可を得て、僕の所有物に手を出した。……神楽坂、お前は九条の顧問弁護士であって、僕の飼い主じゃないぞ」
『っ……!』
「今すぐ、本家の情報統括班をすべて動かせ。首都圏の防犯カメラ、交通系ICのログ、ホテルの宿泊者名簿、クレジットカードの決済履歴……藤堂葵に関するすべてのデータを、一時間以内に僕の端末に同期させろ」
『な……何を仰っているのですか! 彼女はもう身を引いたのです! これ以上、あのような身元の知れない女に関わることは、九条家の名折れ――』
「三秒以内に指示を出せ」
湊は冷酷に言い放った。
「出さなければ、僕は今から本邸に乗り込んで、親父の目の前で自分の首を掻き切る。……九条家の直系唯一の後継者を殺した責任、お前の首ひとつで償えると思うなよ」
『…………っっっ!!』
受話器の向こうで、神楽坂が絶句し、息を詰まらせる音が聞こえた。
狂気。
本気だった。
この十八歳の美貌の怪物は、藤堂葵という女を取り戻すためなら、自らの命すら人質に取り、九条家という巨大財閥の屋台骨を揺るがすことすら平然と実行する。
その底知れぬ狂気に、百戦錬磨の老弁護士が完全に気圧されていた。
『……承知、いたしました。……直ちに、情報班を動かします』
「五十分だ。一分でも遅れたら、本家の持ち株の筆頭信託口座をすべて凍結させる法的手続きに入るからな」
通話を乱暴に切断すると、部屋には再び死んだような静寂が戻ってきた。
湊はスマートフォンをポケットにねじ込むと、テーブルの上の手紙を丁寧に折り畳み、自らの胸ポケット――心臓の真上の位置へとしまい込んだ。
そして、床に落ちていた銀色の合鍵を拾い上げ、自らの掌の中で強く、強く握りしめた。
金属の冷たいエッジが、手のひらの皮膚に深く食い込み、痛みを刻みつける。
視線を上げる。
キッチンカウンターの上に置かれたままの、紙袋。
葵のために買ってきたち白桃が、夕暮れの光の中で静かに佇んでいた。
湊はカウンターへと歩み寄ると、その白桃をひとつ取り出し、愛おしそうに頬をすり寄せた。
葵の肌と同じ、柔らかく、甘い香り。
「葵さん」
湊の唇が、昏く艶やかな弧を描いた。
漆黒の瞳の奥で、常軌を逸した独占欲の炎が、轟々と燃え盛っていた。
「僕から逃げられると思わないでくださいね。……世界の果てまで逃げたって、地の底に隠れたって、絶対に探し出して……二度と歩けないように、僕の腕の中に閉じ込めてあげますから」
夕闇が、二〇五号室を完全に飲み込んでいった。
従順なワンコの死骸の上に立ち上がったのは、愛する獲物を狩るためだけにすべての力を解き放った、美しく獰猛な捕食者だった。
狂気と執念の追跡劇が、今、静かに幕を開けようとしていたのだった。




