第34話:三十三歳としての分別
深い夜の帳が、二〇五号室の小さな空間を重苦しい沈黙で満たしていた。
ダイニングのシーリングライトは消され、間接照明の淡い琥珀色の光だけが、リビングの片隅を頼りなげに照らし出している。冷房の吹き出し口から吐き出される冷たい風が、肌をかすめるたびに、葵の二の腕に粟立つような寒気を走らせていた。
ローテーブルの脇、ラグの上に座り込んだ葵の膝の上で、湊は泥のように深い眠りに落ちていた。
激しい慟哭と過呼吸に近いパニックの果てに、心身の限界を迎えて意識を手放してしまったのだ。葵のパジャマの裾を、白く強張った指先で万力のように握りしめたまま。まるで、眠っている間ですら葵がどこかへ消えてしまわないよう、自らの命綱としてその布地を放すまいとするかのように。
葵は息を殺し、自らの膝の上に預けられた少年の寝顔を、じっと見つめ続けた。
濡れて額に張り付いた漆黒の前髪。
泣き腫らして赤く膨らんだ目蓋と、濡れたままの長い睫毛。
陶器のように白い頬には、幾筋もの涙の痕が乾いて引きつり、薄い唇は微かに開いたまま、時折、子どものように小さく「ひっく」としゃくりあげるような呼吸を漏らしていた。
息を呑むほどに美しい。
けれど、その美貌の裏側に刻まれていたのは、あまりにも残酷で、あまりにも過酷な十八年間の傷跡だった。
住み込みの家政婦であった実母の冷遇と、離れの庭の池での不審な死。
母の血を否定され、感情を奪われ、テストの点数と立ち居振る舞いだけで評価される『九条家の完璧な人形』としての帝王教育。
そして、十八歳を迎えたその日に突きつけられた、顔も知らない令嬢との政略結婚の合意書。
(……どうして、こんなになるまで)
葵の目頭が、再び熱い痛みをもって軋んだ。
左手をそっと伸ばし、湊の乱れた黒髪を、起こさないように指先で撫でる。
絹糸のように滑らかな感触。けれど、その頭蓋の奥底には、誰にも愛されず、誰にも助けを求められなかった幼少期の孤独が、冷たい氷塊となって居座り続けていたのだ。
母の作った温かい料理の記憶だけをすがるように抱きしめ、夜中に厨房を抜け出して一人で料理を学んだという、この少年の哀切。
雨の夜、行き場を失って葵のマンションの下に倒れ込み、足元に跪いて『家事全般、なんでも完璧にやります。僕を置いてください』と必死に懇願してきた、あの切実すぎるプレゼン。
あれは、単なる居候の駆け引きなどではなかったのだ。
自らの存在価値を証明し、人間に戻るための、命を削り出した悲鳴だったのだ。
葵の胃袋を満たし、荒れ果てていた生活を立て直してくれた極上の手料理。
玄関を開ければ満面の笑みで迎えてくれた温もり。
他の男に奪われることを極限まで恐れ、狂おしいまでの執着で首筋に刻みつけてきたキスマーク。
そして、失注したコンペの夜、子どものように泣きじゃくる葵を全肯定で包み込み、肌を重ねて愛を囁いてくれた、あの熱い夜。
九条湊という少年のすべてが、葵の身体の隅々にまで、消えない体温となって染み渡っていた。
愛していた。
もう、自分を誤魔化すことなどできなかった。
拾った大型犬でも、都合のいい居候でもない。
藤堂葵という三十三歳の女の魂を、丸ごと救い出してくれた、世界でたった一人の、愛する男だった。
――だが。
愛しているからこそ。
葵の心臓のど真ん中を、冷徹極まりない現実の刃が、容赦なく貫いていた。
『ご覧になりますか。あなたがこの数週間、ご自身の玩具として囲ってこられた青年の、本来あるべき世界を』
耳の奥で、神楽坂弁護士の氷のような嘲笑がリフレインする。
黒塗りの高級サルーンの中で突きつけられた、あの分厚いファイルの記憶。
九条ホールディングス。
国家の骨格を成す巨大コングロマリットの、正統なる直系後継者。
動く金は数千億円。傘下の企業は数百社、グループ従業員は数十万人。
幼少期から施されてきた徹底的な英才教育、数々の国際コンクールでの栄誉、複数言語の流暢な語学力。
彼が背負っているのは、一介のOLの感情などで量れるような代物では断じてなかった。
日本の産業、金融、社会秩序そのものを動かすための、選ばれし者だけの重厚な宿命。
その巨大すぎるピラミッドの頂点に立つべき男が、今、世田谷の場末の賃貸マンションの四畳半で、エプロンをつけ、日払いの配送センターで荷物の仕分けバイトをしながら、三十三歳のくたびれたOLの膝の上で眠っているのだ。
(……狂ってる)
葵は自嘲の息を吐き出し、天井の暗がりを見上げた。
どうして、今まで気づかなかったのだろう。
あの子の佇まい、言葉遣い、教養の深さ、端正すぎる筆跡。
普通の一年生の若者であるはずがないと、心のどこかで分かっていたはずだった。
それなのに、自分はその違和感から目を逸らし続けた。
なぜか?
――居心地が良かったからだ。
傷つき、仕事に擦り切れ、恋愛を諦めかけていた三十三歳の干物女にとって、あんなにも美しく、従順で、自分のためだけにすべてを捧げてくれる若き存在は、あまりにも甘美で、あまりにも都合の良すぎる麻薬だったからだ。
『保護者』という便利な看板を掲げながら、その実、葵自身がこの少年の圧倒的な愛と献身に甘え、彼の若さを、彼の人生を、無自覚に搾取し続けていただけではなかったのか。
『彼の一生分の輝かしい未来を奪い去ってまで、自分の寂しさを埋めるための生贄に捧げるおつもりですか?』
神楽坂の残酷な問いかけが、脳裏で鋭く反響する。
生贄。
そうだ。自分が湊の手を握り続けるということは、彼をその生贄に捧げることに他ならない。
湊は言った。
『あんな家に連れ戻されるくらいなら、今すぐここで死んだ方がマシだ』
『葵さんのいない世界なんて、一秒だって耐えられない』
その言葉に嘘はない。彼は本気で、葵のために九条の名も、跡取りの座も、何千億の資産も投げ打つつもりでいる。
けれど、十八歳の少年に、その選択の重みが本当に理解できているだろうか?
まだ高校を卒業したばかりで、社会の本当の厳しさも、持たざる者の惨めさも知らない子どもが、恋の熱情に浮かされて放った言葉ではないと、どうして言い切れるだろうか。
もし、このまま湊を匿い続けたらどうなる?
神楽坂の予告は、決してハッタリなどではない。九条家の法務部が本気で動けば、葵ひとりを社会的抹殺に追い込むことなど、息をするよりも容易い。
未成年者略取誘拐の容疑で警察に突き出される。
スタジオ・アークには取引先を通じて強烈な圧力がかかり、葵のチームはおろか、会社全体が存亡の危機に立たされる。
共に戦ってきた同期の結城も、慕ってくれた後輩のミホも、相原も、全員が理不尽な巻き添えを食らって路頭に迷う。
そして何より――湊自身が、九条家から正式に勘当され、戸籍も学歴も後ろ盾もすべて奪われ、ただの『脱走者』として社会の底辺へ叩き落とされるのだ。
(あの子に……そんな生活をさせろっていうの?)
葵の胸が、万力で締め上げられるように軋んだ。
想像するだけで、血の涙が出そうだった。
卓越した知性を持ち、世界を股にかけて活躍するべき器を持った青年が、追っ手の影に怯えながら、名前を偽り、日払いの仕分けバイトや肉体労働を転々とし、狭いアパートの片隅で葵の帰りを待つだけの人生。
最初はいいかもしれない。
『ふたりきりの愛の逃避行』という甘い熱気に酔いしれて、貧しさに耐えることができるかもしれない。
けれど、一年が経ち、三年が経ち、五年が経ったらどうなる?
湊が二十歳を過ぎ、二十五になり、同年代の若者たちが大学を出て社会で羽ばたいていく姿を横目に見た時。
自分はすでに四十歳を迎え、老いていく身体を抱え、彼に何の未来も与えられないただの中年女になった時。
湊は、本当に後悔しないと言い切れるだろうか?
『あの時、九条家に戻っていれば』
『この女のせいで、僕の人生はめちゃくちゃになった』
いつか、彼のその美しい漆黒の瞳に、葵への憎悪と軽蔑の色が宿る日が来ないなどと、誰が保証できるというのか。
「……嫌よ」
葵の唇から、掠れた声が零れ落ちた。
「そんなの……絶対に、嫌……」
湊に憎まれるのが怖いのではない。
この純粋で、ひたむきで、誰よりも傷ついてきた少年を、自らのエゴの道連れにして、その未来を完膚なきまでに叩き潰してしまうこと。
それだけは、三十三歳の大人の女として、一人の人間として、絶対に犯してはならない大罪だった。
三十三歳。
社会人として十数年、理不尽な泥水を啜り、責任の重さを知り、現実という壁の冷たさを骨の髄まで叩き込まれてきた年齢。
それは、ただ若さの情熱に身を任せて「ふたりで地獄まで落ちよう」と叫ぶことが許されない、分別の年齢だった。
大人の役割とは何だ?
若者が無謀な崖から飛び降りようとしている時、その手を引いて安全な場所へと押し戻すことではないのか。
彼が背負うべき重荷がどれほど過酷であっても、それを正面から乗り越えられるだけの力を身につけさせることこそが、年長者の責任ではないのか。
今の湊に必要なのは、安アパートでの共依存の温もりではない。
九条家という巨大な怪物に立ち向かい、自らの足で立ち、自分の人生を自分の力で勝ち取るための、時間と力なのだ。
そして――今の葵の存在は、その戦いから湊の目を逸らさせ、ただ甘い檻の中に閉じ込めるための『逃げ場所』にしかなっていなかった。
(私が……あの子の足枷になってる)
その冷徹な真実に思い至った瞬間、葵の視界が涙で激しく滲んだ。
神楽坂の言った通りだったのだ。
あの傲慢な弁護士の侮蔑に満ちた言葉は、悔しいほどに正論だった。
葵がいる限り、湊は逃げ続ける。
葵がいる限り、九条家は容赦なく牙を剥き、周囲の人間すべてを巻き込んで破滅へと追い込む。
逆に言えば――。
葵という存在が、湊の目の前から跡形もなく消え去りさえすれば。
九条家が会社や葵の周囲に圧力をかける理由は消滅する。
そして湊もまた、逃げ場を失い、九条家という現実と正面から向き合わざるを得なくなる。
たとえ一時的にあの冷酷な本邸に戻ることになろうとも、彼ほどの頭脳と才能があれば、いつか必ず自らの力で運命を切り拓き、真の後継者として、あるいは一人の自立した男として、頂点に立つ日が来るはずなのだ。
(あの子の未来を守るために、私ができることは……ひとつしかない)
心臓が、氷の刃で引き裂かれるような激痛を上げた。
身を引くこと。
この部屋から、湊の前から、何の前触れもなく姿を消すこと。
それが、三十三歳の藤堂葵が、十八歳の九条湊に対して捧げられる、最初で最後の、本物の愛の証明だった。
「……ん……っ」
不意に、膝の上の湊が小さく身じろぎをした。
葵のパジャマを握りしめていた指先が、ビクリと痙攣するように強張る。
「……葵、さん……」
掠れた、うわ言のような寝言が、湊の薄い唇から零れ落ちた。
「捨てないで……僕を、置いていかないで……葵さん……」
夢の中でさえ、彼は葵を失う恐怖に怯え、すがりついていた。
その痛々しい声に、葵の胸の奥から、熱い嗚咽が込み上げて喉を塞いだ。
葵は両手で口元を強く押さえ、声が漏れ出るのを必死に堪えた。
ポタポタと、止めどなく溢れる涙が、湊の黒髪の上に落ちていく。
ごめんね。
ごめんね、湊くん。
あなたを捨てないって、あの朝、約束したのに。
あなたのすべてを受け止めるって、あの嵐の夜に誓ったのに。
大人の私は、こんなにも無力で、こんなにも残酷な裏切りしか、あなたにしてあげられない。
葵は震える指先を伸ばし、湊の濡れた目元をそっと撫でた。
指先に伝わる、湊の温かい体温。
この温もりを、自分は自らの手で手放そうとしている。
明日になれば、もう二度とこの髪に触れることも、この寝顔を見ることも、あの眩い笑顔に向けられることもないのだ。
毎朝の出汁の香りも。
仕事帰りに待っていてくれた部屋の明かりも。
耳元で囁かれた、熱く狂おしい愛の言葉も。
すべてが、幻のように消え去ってしまう。
胸が痛い。息ができない。
あまりの喪失感の予感に、全身の毛細血管が引き千切れてしまいそうだった。
けれど、葵は膝を崩さなかった。
どれほど心が血を流そうとも、この決断だけは、絶対に覆してはならない。
なぜなら、自分は大人だからだ。
傷つくのは、自分一人でいい。
泥を被るのも、孤独に耐えるのも、三十三年間一人で生きてきた自分が引き受ければいい。
あの子の輝かしい未来と、無限の可能性を、こんな安アパートの泥沼に道連れにすることだけは、死んでも許されないのだから。
ふと、壁の時計に目をやる。
針は午前四時を回っていた。
遮光カーテンの隙間から差し込む光が、群青色から淡い白金色へと、刻一刻と移ろい始めている。
朝が来る。
ふたりで過ごす、最後の朝が。
葵は深く、深く息を吸い込み、胸の奥底で渦巻く未練と絶望を、冷たい覚悟の蓋で無理やり閉じ込めた。
神楽坂は言っていた。
『我々は明日、正式に湊様をお迎えに上がります』
おそらく、湊が一人になる時間を見計らって接触してくるか、あるいは夕方、強硬手段に出てくるはずだ。
湊は、葵が部屋にいる限り、絶対にあの男たちに従おうとはしないだろう。葵を守るために牙を剥き、警察を呼ばれ、修羅場となり、破滅への道を転がり落ちるに違いない。
だから――湊を、部屋から出さなければならない。
幸いにも、今日は土曜日だ。
湊は昼過ぎから、あの配送センターでの単発アルバイトが入っていると言っていた。葵のために少しでもお金を稼ぎたいと、誇らしげに語っていたあのアルバイト。
(あの子が……バイトに出かけている間に)
葵の思考が、冷徹なタイムスケジュールを組み立てていく。
湊を笑顔で見送る。
あの子が家を出た瞬間、必要最低限の荷物だけをスーツケースに詰め、部屋を出る。
合鍵をテーブルの上に残し、手紙を一通だけ書き残して。
そして、神楽坂に連絡を入れるのだ。『私は身を引きました。湊くんは部屋に残しています。彼を連れ戻し、会社への圧力を即座に取り下げてください』と。
そうすれば、すべてが丸く収まる。
湊は九条家に戻り、葵はただの孤独な会社員へと戻る。
元通りの、冷え切った日常。
誰にも迷惑をかけず、誰の未来も潰さずに済む、完璧で、最も大人の分別に満ちた幕引き。
「……っ」
あまりの冷酷さに、奥歯がガチガチと音を立てて震えた。
けれど、これ以外の道はどこにも存在しなかった。
葵は膝の上の湊の身体を、壊れやすいガラス細工を抱き上げるようにして、ゆっくりと抱き起こした。
湊は微かに身じろぎをし、眠気に濁った声を漏らす。
「……ん……葵さん……?」
「しーっ……大丈夫よ、湊くん。ベッドへ行きましょう」
葵は優しく囁き、湊の長身を支えながら、寝室へと導いた。
ベッドの上に湊を横たえ、薄い羽毛布団を胸元まで引き掛ける。
湊は葵の手を無意識に握りしめようとしたが、葵はその手をそっと包み込み、自らの頬へと押し当ててから、布団の中へと戻してやった。
「おやすみなさい、湊くん。……いい夢を見てね」
湊は安心したように眉尻を下げ、再び深い寝息を立て始めた。
寝室のドアを、音を立てないように静かに閉める。
リビングに戻った葵は、ローテーブルの上に置き去りにされていた神楽坂の名刺を手に取った。
そして、胸のポケットへと深くしまい込む。
東の空が、完全に白み始めていた。
初夏の眩い朝日が、窓ガラスを黄金色に染め上げていく。
昨日まで、あれほど美しく見えていたその朝の光が、今や葵の処刑台を照らし出す冷酷なスポットライトのように思えた。
三十三歳の大人の女が下した、苦渋の、そして残酷すぎる決断。
愛する少年の未来を守るために、自らの手でその愛を切り裂くための最後のカウントダウンが、静かに、確実に、刻まれ始めていたのだった。




