第33話:語られる家出の理由
リビングのローテーブルの中央に据えられた浅型の土鍋からは、甘辛い醤油と上質な牛肉の脂が溶け合う芳醇な湯気が、細く、頼りなげに立ち上っていた。
薄切りの黒毛和牛、味が芯まで染み込んで琥珀色に透き通った玉ねぎ、丁寧に格子状の隠し包丁が入れられた焼き豆腐、そして鮮やかな青みを残した春菊。すき焼き風に仕立てられた煮込み料理は、いつも通り、湊の卓越した料理技術と葵への無償の奉仕精神が凝縮された完璧な出来栄えだった。
けれど、その湯気を見つめる葵の喉は、まるで砂漠のように乾ききっていた。
箸を手に取り、豆腐の端を小さく崩して口へと運ぶ。
舌の上に広がる出汁の旨味とみりんの艶やかな甘み。普段であれば、一日の労働の疲労を一瞬にして霧散させてくれる至高の味が、今夜ばかりは鉛のように重たく舌根にまとわりつき、食道を滑り落ちていく感触すら胃を痛めつけるように重かった。
「……葵さん、お口に合いませんか?」
向かいの席から、恐る恐る探るような声がかけられた。
葵がハッとして視線を上げると、正座した湊が、自らの茶碗を持ったまま痛ましそうに葵の顔色を窺っていた。
アイボリーのエプロンを身につけた十八歳の青年。
つい先ほどまで、玄関で葵を強く抱きしめ、「無事でよかった」と子どものように安堵していたはずの瞳の奥には、再びあのガラスが軋むような深い不安の影が差し始めていた。
鋭い子だ。
葵がどれほど取り繕って微笑もうと、ほんのわずかな手の震えや、視線の泳ぎ、箸の進みの遅さから、彼女の心に決定的な異変が起きていることを敏感に察知してしまっている。
「ううん……すごく美味しいわよ、湊くん。お肉も柔らかくて……本当に美味しい」
「嘘です」
湊は小さく、けれど逃げ場を塞ぐような声で呟いた。
「葵さん、二口しか食べてません。……笑ってるけど、目が全然笑ってない」
「湊くん……」
「何か、あったんですね」
湊は手に持っていた茶碗と箸を、音もなくテーブルの上に置いた。
そして、両手を膝の上でぎゅっと握りしめた。白く細い指先が、目に見えて微かに震え始めている。
「あの車……やっぱり、何か関係があるんですか? 葵さん、帰ってくる前に……誰かに会ったんですか?」
問い詰める声は掠れ、今にも泣き出しそうなほど切迫していた。
誤魔化すことは、もう不可能だった。
これ以上、大人の嘘で塗り固めて時間を稼ぐことなど、この少年の研ぎ澄まされた直感を前にしては何の意味も成さない。
葵は静かに箸を置き、深く、胸の底にある冷たい澱をすべて吐き出すように息を吐いた。
「……ごちそうさま。少し、お茶を淹れるわね」
「葵さん、僕がやります――」
「いいの。座っていて」
葵は立ち上がり、キッチンへと向かった。
急須に茶葉を入れ、湯沸かしポットから熱湯を注ぐ。立ち上る緑茶の渋い香りが、張り詰めた神経をわずかに鎮めてくれる。
湯呑みをふたつトレイに乗せ、リビングへと戻る。
そして葵は、湊の向かい側の席へと腰を下ろすと、スーツのスカートのポケットへと右手を滑り込ませた。
指先が、厚みのある純白の和紙の感触を捉える。
神楽坂から手渡された、あの冷徹な紙片。
葵は躊躇うことなく、その名刺をテーブルの木目の上、湊の視線の真正面へと静かに滑らせた。
――スッ。
金色の浮き彫りが施された文字が、リビングの柔らかなシーリングライトの光を浴びて、鈍く輝いた。
『九条家専任法務統括 神楽坂 征四郎』。
「…………っ!」
息を呑む音が、静寂な室内に鋭く響いた。
名刺の文字を目にした瞬間、湊の身体がまるで高圧電流を流されたかのように大きく跳ね上がった。
見る見るうちに、その端正な顔立ちから血の気が引いていく。
土気色を通り越して、透き通るような白磁の肌が青白く凍りつき、唇がカタカタと痙攣するように震え出した。
「神楽坂……先生……」
湊の喉から、掠れた呻きが漏れ出た。
「会ったのね、湊くん。この人を知っているのね」
葵の声は、自分でも驚くほど静かだった。怒りも、責める響きもない。ただ、運命の審判を静かに待つような、平坦で深い響き。
「マンションのエントランスの前で、声をかけられたわ。あの黒い車の中で……一時間ほど、お話ししてきたの」
「あ……っ、ぁ……」
湊の瞳が、焦点を見失ったように激しく揺れ動いた。
呼吸が急速に浅くなり、胸元が激しく上下する。
「言われたんですね……あの人に、全部……っ」
「ええ。あなたが、何者なのか。どうしてあの雨の夜、うちのマンションの前で行き倒れていたのか……大枠は、ね」
葵は名刺を見つめたまま、言葉を続けた。
「九条ホールディングス。日本を代表する巨大財閥の、正統なる直系後継者……それが、あなたの本当の肩書きなのね、湊くん」
「違います……っ!」
湊が弾かれたように叫び、テーブルに身を乗り出してきた。
その両手が、テーブルの上の名刺を乱暴に払いのけ、葵の手を掴もうと宙を泳ぐ。
「違わないけど……違います! 僕は……僕はあんな家の後継者なんかじゃない! あんな場所、僕の家なんかじゃないんです!」
「湊くん、落ち着きなさい」
「落ち着いてなんかいられませんよ!!」
湊の咆哮が、リビングの空気をビリビリと震わせた。
漆黒の瞳から、大粒の涙がボロボロと溢れ出し、白い頬を伝っていく。
「あの男……葵さんに何を言ったんですか!? お金ですか!? 脅されたんですか!? 葵さんを傷つけるようなことを言ったんじゃないでしょうね……っ!?」
「私へのことなんて、どうでもいいのよ」
葵は静かに、けれど毅然とした力強さで湊の手を押し留めた。
そして、真っ直ぐに湊の潤んだ瞳を射抜いた。
「私が知りたいのは、弁護士の口から語られた法的な事実じゃないわ。……あなた自身の口から聞きたいの。湊くん、どうして家を出たの? どうして、あんなボロボロになってまで、誰にも頼らず一人で震えていたの?」
「葵、さん……」
「話して。あなたの口から、あなたの言葉で、全部聞かせて。……あの夜、あなたのすべてを受け止めるって、私自身が約束したんだから」
葵の揺るぎない眼差しを受け止め、湊の呼吸が次第に、ヒューヒューとした苦しげなものから、深く重いものへと変わっていった。
湊は、テーブルの上に置かれた葵の右手を、両手で壊れ物を扱うようにそっと包み込んだ。
その手のひらは、氷のように冷たかった。
けれど、葵の体温を求めるように、切実に、すがりつくように指先を絡めてくる。
「……話したら」
湊の唇から、消え入りそうな囁きが漏れた。
「僕の本当の姿を知ったら……葵さん、僕のこと、汚いって思いますよ。きっと……怖くなって、軽蔑して……逃げ出したくなります」
「逃げたりしないわ」
「嘘だ……っ。葵さんは優しいから、そう言ってくれるけど……僕の血筋も、僕が背負ってきたものも、全部ドロドロに腐ってるんです……!」
「湊くん」
葵は空いている左手を伸ばし、湊の冷え切った頬をそっと包み込んだ。
親指の腹で、零れ落ちる涙を拭い去る。
「私を誰だと思ってるの? あなたを拾って、毎日あなたの美味しいご飯を食べて、あなたの腕の中で泣き崩れた女よ。今さら、あなたの過去のどんな汚れに怯えるっていうのよ」
葵の微笑みに、湊の唇が激しく震えた。
湊は葵の掌に自らの頬をすり寄せ、深く目を閉じた。
そして、観念したように、重たい沈黙の帳を自らの手で引き裂いた。
「……僕の母は」
低く、地を這うような掠れ声が、静まり返ったリビングに落ちた。
「九条家の人間じゃありませんでした。……あの巨大な本邸で働いていた、ただの住み込みの家政婦でした」
「……え?」
葵の息が止まった。
神楽坂から渡されたファイルには、母の出自に関する詳細な記載は伏せられていた。ただ『現当主・宗一郎の実子』とだけ書かれていたはずだった。
「母は……地方の貧しい家の出身で、高校を出てすぐに九条家の本邸に雇われたそうです。おとなしくて、目立たなくて、ただ真面目に掃除や洗濯をこなすだけの……立場の弱い使用人でした」
湊の表情から、一切の感情が抜け落ちていく。
記憶の底に沈めた、冷たく暗い深淵を覗き込むような、虚無の瞳。
「当主である僕の父……九条宗一郎の手がついたのは、単なる気まぐれでした。正妻との間に跡取りとなる男子が生まれず、焦っていた一族の中で、母が僕を身籠もった。……母にとって、それは幸福なんかじゃありませんでした。底なしの地獄の始まりだったんです」
湊の手が、葵の指をさらに強く締め上げた。
「男子を産んだことで、母は九条家から追い出されることは免れました。けれど……正妻や親族たちからの扱いは、人間に対するものじゃありませんでした。『卑しい下女が、跡取りを産んで成り上がろうとした』『血を汚した毒婦』……本邸の離れに隔離され、毎日のように容赦のない嫌がらせと侮蔑を浴びせられ続けました」
「そんな……」
「父も、母のことなんて一度も愛してはいませんでした。ただ『健康な男子を産むための母胎』としてしか見ていなかった。僕が物心ついた頃、母はいつも離れの暗い部屋で、一人で泣いていました。僕の顔を見るたびに、『ごめんね、湊。こんな家に産んでしまってごめんね』って、僕を抱きしめて泣くんです」
湊の喉が、苦しげに上下した。
乾いた唾を飲み込む音が、やけに生々しく響く。
「僕が五歳の時でした。母は……精神を完全に病んで、ある朝、離れの庭の池で冷たくなって浮いていました。警察は事故死として処理しました。九条家の顧問弁護士たちが手を回して、スキャンダルにならないように、新聞の片隅にすら載らないように、完璧に揉み消したんです」
「……っ!」
葵は両手で口元を押さえそうになった。
五歳。
母親の温もりを最も必要としていた幼少期に、この少年は、母の冷たい遺体をその小さな瞳で見つめなければならなかったのだ。
「母が死んだその日から、僕の『調教』が始まりました」
湊の口元が、自嘲気味に歪んだ。
「母を忌み嫌っていた正妻や親族たちは、僕の存在を抹殺したがっていました。けれど、父には他に跡継ぎの男子がいなかった。だから……本家は僕を『後継者』として育てることを決めたんです。ただし、僕の身体から、母親の血の記憶をすべて削ぎ落とすという条件付きで」
「削ぎ落とす……?」
「ええ。『家政婦の卑しい血が混ざっているのだから、人並みの甘えなど一ミリも許されない』。それが、僕に課された鉄の掟でした」
湊の語る過去は、あまりにも過酷で、あまりにも冷酷なものだった。
小学校に上がる前から、湊の一日は分刻みのスケジュールで完全に支配されていた。
朝五時に叩き起こされ、帝王学、経済学、法学の英才教育。
複数の家庭教師による徹底的な指導。英語、フランス語、中国語の強制的な習得。
名門私立校に通いながらも、友人を作ること、放課後に遊ぶこと、漫画を読むこと、ゲームをすること――子どもらしい日常のすべてが、厳格に禁止されていた。
「テストで満点を取っても、褒められたことなんて一度もありませんでした。『九条の名を背負うなら満点は当たり前だ』『九十九点を取れば、お前のような下女の息子には生きている価値がない』と、父からも親族からも罵倒されました。風邪を引いて四十度の熱を出しても、家庭教師の授業を休むことは許されなかった。倒れたら、冷たい水を浴びせられて立たされました」
湊の声は震えていなかった。
けれど、その静けさが、かえって葵の胸を鋭利な刃物のように切り裂いた。
「僕には、心が許されませんでした。悲しいと泣けば『卑しい血の甘えだ』と殴られ、痛いと叫べば部屋に鍵をかけて閉じ込められた。だから……僕は笑うのをやめました。泣くのをやめました。言われた通りの点数を取り、言われた通りの立ち振る舞いをし、親族たちが満足する『完璧な人形』を演じ続けることだけが、あの屋敷で息をするための唯一の方法だったんです」
「……料理は?」
葵の唇から、掠れた問いが零れ落ちた。
「湊くん、どうしてあんなに……お料理が上手なの? 家事全般が、完璧にできるのは……」
九条家の御曹司であれば、指一本動かさずとも、使用人たちがすべての身の回りの世話を焼いてくれるはずだった。それなのに、なぜこの少年は、プロ顔負けの家事スキルを身につけていたのか。
葵の問いに、湊は痛ましそうに眉尻を下げた。
「……母の、真似事です」
「え……?」
「母が生きている頃、離れの小さな台所で、僕のために作ってくれた温かいご飯の記憶だけが……僕の人生の中で、唯一の『愛された記憶』だったんです。出汁の香り、卵を焼くパチパチという音、母の笑った顔……」
湊の瞳から、再び熱い雫が零れ落ちた。
「屋敷の厨房は立ち入り禁止でした。でも、夜中にこっそり抜け出して、本を読んで、料理の作り方を全部頭に叩き込みました。いつか……いつかあの地獄から抜け出せた時、誰かにご飯を作ってあげられる人間になりたかった。誰かの役に立てる、温かい人間になりたかった……。それだけが、僕が自分を人間だと繋ぎ止めるための、最後の細い糸だったんです」
胸が、張り裂けそうだった。
葵の胃袋を掴み、荒れ果てていた生活を立て直し、毎日笑顔で出迎えてくれていたあの完璧な手料理の数々。
そのすべての根底にあったのは、幼くして理不尽に奪われた母への哀切な思慕と、「誰かの役に立たなければ、自分には存在する価値がない」という、呪いのような強迫観念だったのだ。
雨の夜、葵の足元に跪き、『家事全般、なんでも完璧にやります。邪魔は絶対にしません。僕を置いてください』とすがりついてきた、あの切実すぎるプレゼン。
あれは、単なる同居のための駆け引きなどではなかった。
自らの存在意義を証明し、生き延びるための、魂を削り出した悲鳴だったのだ。
「そして……今年の春、高校を卒業した日でした」
湊の表情が、再び凍りつくような冷徹さへと戻った。
「十八歳になったその日の夜、父の執務室に呼び出されました。机の上に置かれていたのは、一枚の書類でした。……東都中央銀行の頭取令嬢との、婚約合意書でした」
「……神楽坂弁護士に見せてもらったわ」
「ええ。最初から、決まっていたレールでした。名門の令嬢を妻に迎え、九条グループの金融支配を盤石にするための道具。相手の女性の顔も知らない、話したこともない。ただ、家同士の利権のためだけに、僕のこれからの人生のすべてが、完全に売り飛ばされようとしていたんです」
湊の拳が、ギリギリと骨の音を立てて白く強張った。
「その時……僕の中で、何かが完全に壊れました。母を殺し、僕の心を殺し、十八年間、僕をただの操り人形として飼い殺してきたあの家が……これからの何十年という人生までも、完全に食い潰そうとしている。……このままあの家にいたら、僕は本当に、母と同じように死ぬしかないと思いました」
「湊くん……」
「だから、逃げました」
湊は葵の手をぎゅっと胸元へと引き寄せた。
「財布も、身の回りのものも、全部投げ捨てて……雨の夜、屋敷の塀を乗り越えて走りました。追っ手が怖くて、電車にも乗れず、ただ暗い街を何時間も、何時間も走り続けました。息が切れて、足が動かなくなって、雨で身体が冷え切って……あのマンションのエントランスに倒れ込んだ時、僕は本当に思ってたんです。このまま冷たくなって死んでも、誰も困らない。僕の人生なんて、最初からどこにもなかったんだって」
湊の瞳が、葵の瞳を熱烈に射抜いた。
その瞳の奥に灯っていたのは、暗闇の底でただひとつの光を見出した者の、狂暴なまでの渇望だった。
「でも……葵さんが、来てくれた」
湊の声が、激しく震えていた。
「ずぶ濡れで、泥だらけの僕を見捨てないで……部屋に入れて、温かいお茶を淹れてくれた。僕が作ったご飯を、『美味しい』ってあんなに幸せそうに笑って食べてくれた……。仕事で疲れて帰ってきても、僕の頭を撫でてくれた……」
湊は立ち上がり、テーブルを回り込んで葵の足元へと跪いた。
そして、出会ったあの雨の夜と全く同じように、葵の膝の上に自らの額を深々と押し当てた。
ポタポタと、湊の熱い涙が葵のスカートの生地を濡らしていく。
「葵さんと過ごした、この数週間だけが……僕の、本当の人生だったんです」
絞り出すような、血を吐くような告白。
「九条湊という人形じゃなくて……ただの僕として息ができたのは、葵さんのそばにいた時間だけだった。葵さんが、僕に心をくれたんです。僕に、生きている場所をくれたんです……!」
湊の両腕が、葵の腰をすがりつくように抱きしめてきた。
痛いほどの抱擁。
十八歳の少年の、全身全霊の命の重みが、葵の身体に直接のしかかってくる。
「だから……お願いです、葵さん」
湊は顔を上げ、涙でぐしゃぐしゃになった顔で葵を見つめ上げた。
その瞳には、あの夜と同じ、捨てられることを極限まで恐れる大型犬の悲痛さと、葵を絶対に手放さないという底知れない執着が、同時に渦巻いていた。
「僕を……追い出さないでください。あんな家に、僕を連れ戻させないで……! 葵さんがいない世界に戻るくらいなら、僕……今すぐここで死んだ方がマシです……っ!」
「湊くん、そんなこと言っちゃダメ……!」
「本当です! あなたなしの世界なんて、僕には一秒だって耐えられない! 葵さんのためなら、僕、何だってします! 一生、葵さんの足元でご飯を作って、掃除をして、葵さんを幸せにしますから……! だから、僕を捨てないで……葵さん……っ!」
嗚咽を漏らしながら、葵の膝にすがりつく湊。
その細い肩を抱きしめながら、葵の目からも、止めどなく大粒の涙が零れ落ちていた。
「……湊くん……ごめんね……ごめんね……」
葵は湊の濡れた黒髪に顔を埋め、震える腕で強く、強く抱きしめ返した。
分かってしまった。
なぜ、この少年がこれほどまでに葵に執着していたのか。
なぜ、あれほど冷徹で狂おしいほどの独占欲を露わにし、他の男を威嚇し、葵の首筋に消えないマーキングを刻みつけたのか。
すべては、生まれて初めて手に入れた『本物の温もり』を失うことへの、狂気的なまでの恐怖の裏返しだったのだ。
母を奪われ、心を殺され、道具として扱われてきた十八年間の暗闇の中で、藤堂葵という女だけが、彼の唯一の光だったのだ。
けれど。
湊の頭を抱きしめ、その背中をさすりながら――葵の胸の奥底には、冷酷なまでの重い現実が、音を立ててのしかかっていた。
――『明日、正式に湊様をお迎えに上がります』
――『あなたが頑なに囲い続けようとすれば、会社ごと社会的に抹殺することなど容易い』
――『彼の一生分の輝かしい未来を奪い去ってまで、自分の寂しさを埋めるための生贄に捧げるおつもりですか?』
神楽坂の冷たい声が、葵の脳裏で鐘のように乱打される。
この子は、命を賭けて自分を求めてくれている。
自分もまた、この少年を骨の髄まで愛してしまっている。
けれど。
愛しているからこそ。
三十三歳の大人の女として、一人の社会人として、葵の理性が、胸を鋭利なナイフで抉るように問いかけていた。
(……私がこの子の手を握り続けて、本当にこの子の未来を守れるの?)
相手は、国家を動かす巨大財閥だ。
一介のOLである自分に、何ができるというのか。
もし自分が意地を張って湊を匿い続ければ、自分の勤める会社は潰され、周囲の人間を巻き込み、そして何より――湊自身が『勘当された無力な脱走者』として、社会的な未来のすべてを剥奪されてしまう。
この聡明で、美しく、無限の可能性を秘めた少年の人生を、自分のちっぽけな安アパートの四畳半に縛り付け、日払いの仕分けバイトをさせながら、共倒れの逃避行に付き合わせることが……本当に、この子を愛するということなのだろうか。
膝の上で泣きじゃくる湊の温かい体温を感じながら、葵の視界は、溢れ出る涙で滲んで歪んでいた。
部屋の外では、夜の街が静まり返っている。
明日になれば、あの黒い車が再びやってくる。
十八歳の少年の切実すぎる愛の叫びと、三十三歳の女が背負わされたあまりにも残酷な分別の間で、葵の心は、引き裂かれそうな激痛の叫びを上げていたのだった。




