第32話:突然の訪問者、スーツの男
夏至を過ぎたばかりの夕暮れの街は、いつまでも薄暮の残照にしがみつくように、淡い紫と茜色の混ざり合った不穏なグラデーションに染まっていた。
アスファルトに照りつけていた猛烈な日差しがようやく衰え、ビルの谷間から湿った生温い風が吹き抜けていく。駅前の喧騒を抜け、住宅街へと続く緩やかな坂道に差し掛かったところで、藤堂葵は無意識のうちに自らの左手を胸元へと引き寄せていた。
指先が、何気なく左手の薬指に触れる。
何も嵌められていない、無防備な指先。
けれどそこには、あの一夜以来、湊が毎朝毎晩のように熱い唇を落とし、目に見えない鎖を巻きつけるように慈しんできた感触が、今もなお微熱を帯びて焼き付いていた。
――『僕が……家を出た理由。僕が、誰なのか……全部、葵さんに話します』
昨夜、暗がりの中で部屋の隅に小さく蹲り、震える手で葵の服を握りしめていた湊の姿が、鮮明に脳裏をよぎる。
あの後、結局のところ、湊は取り乱した疲労と恐怖から過呼吸寸前まで体力を消耗してしまい、葵が温かいミルクを飲ませて背中をさすり続けるうちに、熱っぽい浅い眠りへと落ちてしまったのだった。
結局、彼の口から具体的な出自や過去が語られることはなかった。
けれど、今朝、出勤する葵を見送る湊の眼差しは、これまでにないほど痛切で、壊れそうなガラス細工のように張り詰めていた。
『葵さん、今夜……今夜こそ、全部話しますから。僕がどんな人間なのか知っても……絶対に、僕を捨てないでくださいね』
玄関先で葵の腰を力任せに抱きしめ、首筋に何度も、何度も縋りつくように唇を押し当ててきた十八歳の少年。
その体温の生々しさと、彼が怯えている正体不明の『影』の不気味さに、葵の一日は完全に落ち着きを失っていた。
(……大丈夫。何があっても、あの子を見捨てたりしない)
葵は自分に言い聞かせるように、ぎゅっとバッグの持ち手を握り直した。
どんな事情があろうと、行き場を失って雨の中で倒れていた湊を拾い上げ、その温もりと手料理に救われ、そして肌を重ねて愛し合ったのは自分自身なのだ。今さらどんな過去を突きつけられたところで、彼の手を離すつもりなど毛頭なかった。
一人で抱え込ませはしない。どんな重い事情だろうと、大人の自分が半分背負ってやればいい。三十三歳の社会人として、これまで幾多の修羅場を潜り抜けてきた自負が、葵の胸の奥底で小さな覚悟の火を灯していた。
――だが。
その覚悟が、いかに浅薄で、いかに無力な世間知らずの思い上がりに過ぎなかったのかを、葵はこの数分後に骨の髄まで思い知らされることになる。
坂道を登り切り、見慣れたマンションの外観が前方に見えてきた。
二階の角部屋――二〇五号室のベランダには、遮光カーテンがぴっちりと閉ざされたまま、外の様子を窺うような静寂が横たわっている。
マンションの敷地を囲む植栽の脇を抜け、ガラス張りのエントランスポーチへと足を向けた、まさにその瞬間だった。
「――失礼。藤堂葵さんですね」
静寂を裂いて、背後からかけられた声。
低く、低く、一切の抑揚を削ぎ落とした、氷のように冷徹な男性の声だった。
葵の心臓が、ドクンと嫌な跳ね方配をした。
反射的に足を止め、恐る恐る振り返る。
そこに立っていたのは、初老の男だった。
年齢は六十代の半ばほどだろうか。銀髪を寸分の乱れもなく撫で付け、深く刻まれた眉間の皺は、幾重もの過酷な修羅場を冷酷に裁断してきた歴史を物語っていた。
身に纏っているのは、仕立ての良さが一目で分かる濃紺の高級スリーピーススーツ。生地の艶、無駄のないシルエット、胸ポケットに覗く清潔なチーフ、そして足元に履かれた磨き抜かれたジョン・ロブの革靴に至るまで、葵が普段オフィスで見かけるデザイン関係者や広告代理店の役員たちとは、根本から階層が異なる『真の一流』のオーラを全身から放っていた。
男の背後、マンションの車寄せには、ここ数日間、葵たちを恐怖に陥れていたあの車――品川ナンバーの漆黒の最高級サルーンが、音もなく鎮座していた。
「……ど、どちら様でしょうか」
葵は本能的な危険を感じ取り、一歩、後ずさりした。
ハンドバッグを胸元に抱え込み、防衛本能のままに顎を引く。
初老の男は、葵の怯えを意に介する様子もなく、懐からすっと革製の名刺入れを取り出した。
無駄のない優雅な所作で、一枚の純白の和紙名刺が葵の目の前へと差し出される。
「突然の無礼をお許しいただきたい。私は、九条ホールディングスおよび九条本家直属の顧問弁護士を務めております、神楽坂と申します」
「……九条……ホールディングス……?」
葵の喉が、引き攣るように鳴った。
差し出された名刺に視線を落とす。
そこには、国内屈指の歴史を誇る四大法律事務所の筆頭パートナーとしての肩書と、その下に金色の浮き彫りで小さく刻まれた『九条家専任法務統括』の文字。
九条ホールディングス。
その名を知らない日本人は、おそらくこの国に一人も存在しない。
旧財閥の流れを汲み、重工業、メガバンク、総合商社、不動産開発から先端ITに至るまで、日本経済の中枢を何十年にもわたって牛耳り続けてきた、名実ともに国内トップの巨大コングロマリット。
東証プライム市場の時価総額ランキングでも常に頂点に君臨し、政界や官僚機構にも計り知れないパイプを持つ、まさに日本という国家の骨格を成す『現代の華族』。
葵が働くスタジオ・アークのような中堅デザイン会社など、その巨大なピラミッドの最底辺にある孫請け企業のひとつにすら及ばない。まさに天上の雲の上の存在。
(……九条、ホールディングス……? 湊くんの、苗字……)
葵の頭の中で、バラバラだったピースが猛烈な勢いで噛み合い始めた。
九条湊。
類まれなる圧倒的な美貌。
染み付いた立ち居振る舞いの気品。
万年筆で書かれたような美しい達筆。
高価なカーフレザーの小物。
そして、あの高級外車に怯えきっていた、尋常ではない恐怖の理由。
「まさか……湊くんが……」
葵の唇から、掠れた声が零れ落ちた。
神楽坂と名乗る弁護士は、葵の動揺を冷ややかな眼差しで見据えながら、感情を一切交えずに淡々と口を開いた。
「お察しの通りです、藤堂さん。あなたが現在、その二〇五号室の私宅に不法に囲い込んでおられる青年――九条湊様は、我が九条ホールディングス現最高経営責任者にして九条家当主・九条宗一郎の直系男子。すなわち、九条財閥の正統なる次期後継者でいらっしゃいます」
「――っっっ!」
息が、肺の底で完全に止まった。
世界が、音を立てて白く弾け飛ぶような衝撃。
次期、後継者。
九条財閥の、直系跡取り。
眩暈がした。足元のコンクリートがぐらりと傾き、立っていることすら覚束なくなる。
自分が拾ったのは。
薄暗い雨のエントランスで、ずぶ濡れになって震えていたあの少年は。
エプロンをつけて出汁巻き卵を焼き、毎日葵の帰りを玄関で待ちわびていたあの大型犬のような少年は。
日本の富と権力の頂点に君臨する、途方もない名家の御曹司だったというのか。
「立ち話も何ですから。少し、場所を移させていただきたい」
神楽坂はそう言うと、葵の返答を待つことなく、背後の高級サルーンの後部座席のドアへと視線を送った。
カチリ、と静かな電子音が響き、重厚なドアが自動で滑らかに開いた。
車内からは、冷房のひんやりとした空気とともに、最高級の本革シートの芳醇な香りが漂ってくる。
「どうぞ。湊様をお呼びする前に、まずは保護責任者を自称されるあなたと、大人の分別あるお話をさせていただきたい」
拒絶を許さない、絶対的な圧力。
葵は乾いた喉を鳴らし、震える足で、その黒い棺桶のような車内へと足を踏み入れるしかなかった。
***
後部座席の重厚なドアがバフンと閉まった瞬間、外界の生温い風も、夕暮れの街の喧騒も、完全に遮断された。
圧倒的な防音性。まるで分厚い防空壕の中に閉じ込められたかのような、耳が詰まるほどの沈黙。
葵は革張りのシートの端に身を縮め、膝の上で握りしめた指先の震えを必死に抑え込んでいた。
隣に腰を下ろした神楽坂は、膝の上に置いたアタッシュケースを開け、中から一束の分厚いクリアファイルを取り出した。
そして、そのファイルを無言で葵の目の前へと差し出した。
「ご覧になりますか。あなたがこの数週間、ご自身の玩具として囲ってこられた青年の、本来あるべき世界を」
「お、玩具だなんて……そんなこと……!」
「否定なさいますか?」
神楽坂の冷たい声が、葵の抗議を容赦なく両断した。
「三十三歳。大手デザイン会社の現場マネージャー。独身。……十五歳も年下の、身元も定かではない家出少年を部屋に連れ込み、家事をさせ、同居を続け……挙句の果てには、男女の一線を越えて囲い込んでいる。世間一般では、それを『手を出した』『食い物にした』と呼ぶのですよ、藤堂さん」
「っ……!」
葵の顔から、サーッと血の気が引いていくのが分かった。
調べ上げられていた。
自分と湊の同居生活の細部に至るまで、この冷徹な男たちの情報網によって、完全に丸裸にされていたのだ。
震える手で差し出されたファイルを開く。
そこに並んでいたのは、葵の想像を絶する世界の一端だった。
九条家の家系図。
幼少期からの湊の厳格な経歴書。
名門私立校での首席の成績表。数々の国際コンクールでの受賞歴。複数の外国語の修得証明書。
そして、湊が十八歳を迎える今春、本家の意向によって正式に調印される予定だったという、国内有数の旧華族系メガバンク頭取の令嬢との『婚約合意書』の写し。
動く金は、数千億円。
二つの巨大財閥が血縁を結び、日本の金融と産業の未来を牛耳るための、国家規模の政略結婚。
その中心に据えられていたのが、あの二〇五号室でエプロンをつけて「葵さん、おかえりなさい!」と満面の笑顔を咲かせていた、十八歳の九条湊その人だった。
「湊様はね、藤堂さん。生まれたその瞬間から、九条家の未来を背負うことを宿命づけられた特別な御方なのです」
神楽坂の淡々とした説明が、葵の鼓膜を針のように刺す。
「彼の一挙手一投足、彼が選ぶ配偶者、彼が築く人脈のすべてが、グループ数十万人の従業員の生活と、我が国の経済秩序に直結している。……彼が背負っている看板の重みを、年収数百万円の一介のOLに過ぎないあなたに、想像することなどおできになりますか?」
「…………っ」
言葉が、出なかった。
あまりにも、格差が違いすぎた。
住む世界が違う、という言葉が生ぬるい。
自分は、ただのしがないデザイン会社のマネージャーだ。失注したコンペで涙を流し、役員室で罵倒され、深夜のオフィスで孤独に震えていた、どこにでもいるアラサーの労働者に過ぎない。
そんな自分が、何千億円という国家規模の利権と宿命の真ん中にいる男の子を、あの狭いワンルームに囲い込んでいたのだ。
『私の部屋で家事をしてくれたら、泊めてあげる』
『まるで野良犬を飼うみたいね』
自分がかつて湊に投げかけた無邪気な言葉の数々が、今、猛烈な羞恥と罪悪感の劇毒となって葵の胸を抉り取っていく。
「湊様が家を出られた理由は、至極単純な若気の至りです」
神楽坂は蔑むような冷笑を浮かべ、視線を外の薄暮へと向けた。
「決められた将来、過酷な帝王教育、そして本家が定めた完璧な婚約者。十八歳の若者にとっては、些か息苦しい檻に思えたのでしょう。衝動的に身一つで屋敷を飛び出し、雨の中で行き倒れていたところを、運悪く……あなたのような、飢えた年増の女に拾われてしまった」
「飢えた、年増……っ」
「違いますか?」
神楽坂の氷のような視線が、葵の顔面を射抜く。
「家事万能で、顔立ちも良く、自分に無条件で従順に尽くしてくれる若い男。仕事に擦り切れた行き遅れの独身女性にとって、これ以上都合の良い愛玩動物はいなかったはずだ。……あなたが湊様を警察にも届けず、保護施設にも連絡せず、自室に囲い込み続けた動機など、下劣な性的消費と自己満足以外の何物でもない」
「違います!!」
葵は思わず叫んでいた。
密閉された車内に、葵の震える悲鳴が響き渡る。
「私は……そんなつもりで湊くんを置いたんじゃない! あの子が、行く場所がないって泣いて……必死に居場所を求めていたから……!」
「居場所、ですか」
神楽坂は鼻で笑った。
「あの狭苦しい賃貸マンションが、九条家の跡取りの居場所だと? 笑わせないでいただきたい。あなたが与えていたのは居場所などではない。ただの現実逃避の隠れ家に過ぎない。……そして、そのお遊びのツケを払う時が来たのです」
神楽坂はアタッシュケースの中から、もう一枚の書類を取り出した。
それは、すでに弁護士印が捺印された、公的な効力を持つ合意書だった。
そして、その書類の脇に、分厚い直方体の包みが二つ、ドンと音を立てて置かれた。
銀行の帯封が巻かれた、真新しい一万円札の束。
一束で千万円。それが二つ。
合計、二千万円の現ナマが、葵の目の前で冷酷な光を放っていた。
「……これ、は……」
「手切れ金です」
神楽坂は淡々と言い放った。
「これまでの湊様の滞在費、食費、そして……あなたが湊様に提供された『肉体的な奉仕』への対価として、十分すぎる額でしょう。この合意書に署名捺印し、その金を受け取って、今すぐ湊様を引き渡しなさい」
「肉体的な、奉仕……?」
葵の全身から血の気が引いていく。
湊と重ねたあの熱い夜が。互いの魂をぶつけ合い、涙を流しながら愛を確かめ合ったあの神聖な時間が、この男たちの前では、ただの『金で買える淫らな奉仕』として換算されている。
その底知れない侮辱に、葵の唇が激しく震えた。
「ふざけないで……! そんなお金、受け取れるわけがないでしょう! 湊くんは物じゃない! お金で売り買いするような存在じゃないわ!」
「物ですよ」
神楽坂の声は、微塵も揺らがなかった。
「九条家という巨大なシステムの一部であり、替えの利かない最重要の部品です。……藤堂さん、現実を見なさい。あなたが頑なに湊様を囲い続けようとすれば、どうなるかお分かりですか?」
神楽坂はアタッシュケースをパチンと閉めた。
その金属音が、葵の死刑宣告の引き金のように響く。
「我が九条法務部は、あなたを『未成年者略取誘拐罪』および『児童福祉法違反』で即座に刑事告訴いたします。同時に、あなたの勤務先であるスタジオ・アークに対し、主要取引先を通じてあらゆる圧力をかけ、会社ごと社会的に抹殺することなど、我がグループにとっては赤子の手をひねるよりも容易いことです」
「っ……! 会社を……!?」
「ええ。あなた個人の人生など、今日この瞬間に破滅させることができるのですよ。前科がつき、職を失い、業界から永久追放され、実家の親兄弟に至るまで社会的制裁の対象となる。……それでも、あなたは湊様を手放さないと仰るのですか?」
逃げ場のない、完璧な包囲網。
国家規模の巨大権力が持つ、冷徹で無慈悲な暴力。
三十三歳の一介のOLが、立ち向かえるような相手では断じてなかった。
葵の喉がカラカラに渇き、息が吸えなくなる。
心臓が、肋骨の内側で悲鳴を上げていた。
「湊様ご自身のためでもあります」
神楽坂は、トドメの一撃を刺すように、葵の耳元へと残酷な正論を囁いた。
「彼がいつまでもあなたのような年増の女の足元で泥遊びを続けていれば、彼の未来は完全に失墜する。九条家の後継者としての地位を剥奪され、勘当され、何の後ろ盾もないただの無力な若者として路頭に迷うことになる。……あなたが彼に与えられるのは、安アパートでのみじめな同棲生活だけだ。あなたは、彼の一生分の輝かしい未来を奪い去ってまで、自分の寂しさを埋めるための生贄に捧げるおつもりですか?」
「あ……っ、ぁ……」
葵の喉から、声にならない呻きが漏れた。
抉られた。
葵の心の最も柔らかく、最も恐れていた急所を、正確無比に貫かれたのだ。
――私の存在が、この子の未来を潰してしまうのではないか。
あの子が十八歳だと知った時から、ずっと心の片隅で燻り続けていた後ろめたさ。
自分は三十三歳で、彼は十八歳。
自分はもう人生の折り返し地点を過ぎた疲れた大人で、彼は今まさに世界へ羽ばたくはずの若者。
その彼を、自分の狭いワンルームに閉じ込め、胃袋を掴まれ、愛の言葉に甘やかされ、身体を重ねていた。
それが、どれほど身勝手で、どれほど残酷な略奪であったのか。
巨大な格差という冷酷な鏡を突きつけられた葵の心は、音を立てて粉々に砕け散ろうとしていた。
「……藤堂さん。賢明なご判断を期待しますよ」
神楽坂はそう言い残すと、車のドアを開けさせた。
外の生温い夕暮れの風が、車内へと流れ込んでくる。
「我々は明日、正式に湊様をお迎えに上がります。それまでに、部屋を片付け、湊様にお別れを告げておきなさい。……警察沙汰にしたくなければね」
***
どうやって車を降り、どうやってマンションのエントランスを抜け、エレベーターに乗ったのか、葵には全く記憶がなかった。
気がついた時、葵は二〇五号室のドアの前に立ち尽くしていた。
手には、自分のバッグ。
ポケットの中には、神楽坂から渡されたあの名刺が、鉛のように重く沈んでいる。
二千万円の札束は受け取らなかった。けれど、受け取らなかったからといって、突きつけられた現実の重みが軽くなるわけではなかった。
(……九条、財閥……)
葵はドアノブに手を伸ばそうとして、指先が激しく震えていることに気づいた。
この扉の向こうに、湊がいる。
エプロンをつけて、葵の帰りを待っている。
昨日まで、あれほど温かく、甘やかで、世界で一番安全だと思っていたあの部屋が、今や自分自身の罪深さを告発する断頭台のように思えた。
カチャリ。
鍵を回すと、内側から勢いよくドアが開かれた。
「――葵さん!!」
飛び出してきたのは、息を切らした湊だった。
黒のスウェットに、いつものアイボリーのエプロン。
葵の姿を認めた瞬間、湊の顔にパッと花が綻ぶような至福の笑顔が広がった。
「よかった……! 遅かったから、心配で……!」
湊はそう叫ぶと、躊躇うことなく長い腕を伸ばし、葵の身体を玄関の上がり框でぎゅっと抱きしめてきた。
ドサッ、と葵の額が湊の胸元に埋まる。
温かい。
石鹸の匂いと、出汁の優しい香り。
そして、葵を失うことを極限まで恐れている少年の、早鐘を打つ激しい心音。
「葵さん、手……すごく冷たい。外、風が強かったですか? すぐ温かいお風呂入れますからね。今夜は、葵さんの大好物のすき焼き風の煮込みですよ。お肉、たくさん仕入れておきましたから!」
無邪気な、世界一愛しい笑顔。
葵に喜んでもらいたい一心で、狭いキッチンで一生懸命に腕を振るってくれた十八歳の恋人。
けれど。
その温もりを肌で感じた瞬間、葵の目頭から、ツッと一筋の熱い涙が零れ落ちた。
(……この子は、ここにいちゃいけない)
胸が張り裂けそうだった。
引き裂かれるような激痛が、五臓六腑を灼き尽くしていく。
こんな狭い部屋で、三十三歳のくたびれたOLにエプロン姿で飯を作り、足元ですり寄っているような人間ではないのだ。
何千億円の資産を動かし、日本の頂点に立ち、光り輝く未来を歩むべき――正統なる九条家の後継者。
それを、自分の孤独を埋めるために、ここに閉じ込めておいていいはずがない。
自分の存在が、この子の未来を、人生を、すべてを破滅させてしまう。
「……葵さん? どうしたんですか……?」
葵の流した涙に気づいた湊が、息を呑んで葵の顔を覗き込んできた。
その瞳に、再びあの怯えの色が走る。
「泣いてるの……? 僕、また何か……」
「……ううん。何でもないわ」
葵は必死に唇を噛み締め、涙を拭って微笑んでみせた。
三十三歳の大人の女としての、最後の、そして最も残酷な嘘の笑顔。
「すき焼き、美味しそうね。……お腹、ペコペコよ。湊くん」
「葵さん……!」
湊はホッと安堵したように相好を崩し、葵の手を引いてリビングへと向かった。
食卓には、湯気を立てる極上の手料理が並んでいる。
けれど、その温かい光景の背後には、すでに冷酷なタイムリミットが刻一刻と迫っていた。
明日、あの黒い車が再びやってくる。
十八歳の少年の無垢な愛と、三十三歳の女の引き裂かれそうな良心。
甘美だったふたりの日常は、巨大すぎる現実の奔流を前にして、決定的な破滅のカウントダウンを刻み始めていたのだった。




