第31話:高級外車と、不穏な影
季節は巡り、六月の長雨が明けると、東京の街には本格的な夏の熱気が満ち始めていた。アスファルトからは陽炎が立ち上り、街路樹の濃い緑が照りつける日差しを浴びて青々と光っている。
あの一夜――豪雨に包まれた密室で、三十三歳のキャリアウーマンとしてのプライドも年齢の壁もすべて脱ぎ捨て、十八歳の湊と肌を重ねたあの日から、二人の関係は劇的な変化を遂げていた。
朝、アラームが鳴る前に葵の意識を引き上げるのは、目覚まし時計の無機質な電子音ではなく、首筋に落とされる甘やかなキスの感触だった。
「……葵さん、朝ですよ」
耳元で囁かれる低く艶のあるハスキーボイス。
まどろみの中で薄目を開けると、朝日を逆光に浴びた湊の完璧な美貌が、至近距離で葵を見下ろしている。かつては床に敷いた布団で寝ていたはずの青年は、今や当然のように同じダブルベッドの中に滑り込み、葵の腰を長い腕でしっかりと引き寄せて離さない。
「ん……湊くん……もう起きなきゃ……」
「あと五分だけ。……葵さんの体温、すごく落ち着くんです」
そう言って、湊は葵のうなじに顔を埋め、深く息を吸い込む。石鹸の爽やかな香りと、湊自身の清潔な熱気が葵の肌を包み込み、毎朝のように遅刻の危機を迎えそうになるのが、ここ最近の甘美な日常だった。
キッチンに立てば、湊の卓越した料理の腕前はいっそう磨きがかかっていた。
出汁の染みた炊き込みご飯、ふわふわの出汁巻き卵、焼き魚、季節の野菜をふんだんに使った滋味あふれる小鉢。出勤する葵の手には、毎日欠かさず彩り豊かな愛妻弁当――いや、完璧な『年下恋人の手作り弁当』が握らされる。
職場である『スタジオ・アーク』でも、葵の纏う空気は明らかに変わっていた。
かつての大型コンペ『ステラ・フォレスト』の失注による社内の逆風や役員室での屈辱的な叱責は、葵の心に深い傷を残したはずだった。だが、今の葵には、どんな理不尽なトラブルに直面しても揺らがない強固な足場があった。どんなに外で傷つき、泥水を啜らされようとも、あの二〇五号室の扉を開ければ、自分を全肯定し、命を賭けて愛してくれる存在がいる。その確信が、葵の仕事ぶりにこれまで以上のしなやかさと余裕を与えていた。
同期のエースである結城颯真は、そんな葵の変化に誰よりも早く気づいていたようだった。時折、探るような視線を葵の首元や薬指へと走らせてはいたが、葵が毅然とした態度で公私の一線を保ち続けるのを見て、それ以上深く踏み込んでくることはなかった。
すべてが、順風満帆に見えていた。
これ以上の幸福が人生にあっていいのだろうかと、背筋がむず痒くなるほどの甘やかな日々。
――だが、その平穏な楽園の足元に、音もなく忍び寄る冷たい亀裂の存在に、葵はまだ気づいていなかった。
***
違和感を最初に覚えたのは、火曜日の夕暮れ時だった。
その日は珍しく定時である午後六時半に退社できた葵は、駅前のスーパーで湊から頼まれていた調味料を買い足し、軽やかな足取りでマンションへと向かう坂道を歩いていた。
西日が住宅街の屋根を茜色に染め、ヒグラシの声が夕暮れの静寂を揺らしている。
いつもの角を曲がり、見慣れたマンションの外観が視界に入った、その時だった。
「……あれ?」
葵は思わず足を緩めた。
マンションの敷地の手前、閑静な住宅街の細い路地には場違い極まりない、一台の車が停車していたのだ。
漆黒のボディ。夕暮れの光を鈍く跳ね返す、寸分の曇りもない鏡面仕上げの塗装。フロントグリルには、ドイツの名門自動車メーカーの威厳あるエンブレムが燦然と輝いている。全長五メートルを優に超える最高級サルーン。後部座席のスモークガラスは極めて濃く、外側から車内の様子を窺い知ることは一切できない。
単身者や若いDINKSが多く住むこの低層マンションの周辺で、これほど威圧感のある超高級外車を見かけることなど、これまで一度たりともなかった。近隣の富裕層の送迎車だろうか、と葵は首を傾げた。
だが、葵がその車の脇を通り過ぎ、マンションのエントランスへと入ろうとした瞬間。
スモークガラスの奥から、射抜くような冷徹な視線が、自らの背中に突き刺さったような悪寒を覚えた。
ピクリ、と立ち止まり、振り返る。
黒塗りの車体は、エンジンをかけたままアイドリングの微かな振動を響かせているだけで、ドアが開く気配も、窓が下りる気配もない。
「……気のせい、よね」
葵は小さく首を振り、オートロックを解錠してエントランスへと滑り込んだ。
その時は、ただの偶然だと思っていた。
近所の誰かの来客か、道を間違えて停車しているハイヤーの類いだろうと。
だが、その『偶然』は、翌日も、その次の日も、正確な時計の針のように繰り返された。
水曜日の朝、出勤のためにエントランスを出た午前八時。
マンションの斜め向かいにあるコインパーキングの角に、あの黒塗りの高級車が停まっていた。
木曜日の深夜、残業を終えて帰宅した午前一時。
街灯の薄暗い光の下、少し離れた路肩に、息を潜める巨大な獣のように、あの車が佇んでいた。
ナンバープレートの数字は同じ。
車内の人物が外に出てくることは一度もなく、ただひたすらに、二〇五号室のあるマンションの出入り口を監視するように、そこに存在し続けていた。
(……何なの? まさか、ストーカー……?)
背筋を冷たい汗が伝う。
女性の一人暮らしを狙った犯罪か、あるいはマンションの住人の誰かが金銭トラブルにでも巻き込まれているのか。警察に相談するべきか、それとも管理会社に不審車両として通報するべきか。
金曜日の朝、葵は朝食のテーブルで、向かいに座る湊にそのことを何気なく切り出した。
「ねえ、湊くん。最近、うちのマンションの前に、見慣れない黒い大きな車が停まってるの、気づいてる?」
トーストにバターを塗っていた葵は、軽く視線を上げて言った。
「すごく高そうな外車なんだけど、ここ数日、朝も夜もずっとあの辺に停まってるのよ。中が見えないからちょっと気味が悪くて……念のため、湊くんも外に出る時は気をつけてね。変な人に声をかけられたりしたら危ないから」
――その瞬間だった。
カチャン、と。
陶器とスプーンがぶつかり合う、硬い音がリビングの静寂を切り裂いた。
「……え?」
葵が目を瞬かせて顔を上げると、向かいの席の湊の姿に、息を呑んだ。
湊の手が、空中でピタリと止まっていた。
スープ皿の上で握られた銀のスプーンが、小刻みに、カタカタと震えている。
そして何よりも葵を戦慄させたのは、その表情だった。
血の気が、完全に引いていた。
陶器のように白い肌は、蒼白を通り越して土気色に変色し、整いすぎた唇からは一切の赤みが消え失せている。
切れ長の漆黒の瞳は、見えない何かの亡霊を目撃したかのように大きく見開かれ、絶望と恐怖に激しく揺らめいていた。
「み……湊くん? どうしたの……!?」
葵が身を乗り出した瞬間、湊の手からスプーンがポロリと滑り落ち、ランチョンマットの上で鈍い音を立てた。
「湊くん、顔色が真っ青よ! どこか痛いの!? 気分が悪くなったの!?」
立ち上がり、湊の側へ駆け寄ろうとした葵の腕を、湊が凄まじい勢いで掴み取った。
――ギュッ!
「痛っ……!」
骨がきしむほどの強烈な圧力。
細身に見える湊の指先が、葵の手首を万力のように締め上げる。
その手は、氷のように冷え切っていた。夏の朝だというのに、凍傷でも起こしそうなほどの冷気。そして、全身が目に見えてガタガタと震えていた。
「湊くん、離して、痛い……!」
「……葵さん」
湊の喉から絞り出されたのは、聞いたこともないほど掠れ、怯えきった声だった。
あの、雨の夜に行き倒れていた時すら見せなかった、底知れない恐怖の響き。
「その車……どんな車でしたか」
「え……? 車って、さっきの……?」
「どんな車でしたか! 色は!? 車種は!? ナンバーは……ナンバーの地名は、品川でしたか!?」
湊の切迫した問い詰めに、葵の心臓が跳ね上がった。
「し、品川……そうよ、品川ナンバーだったわ。黒いセダンで、フロントに丸いエンブレムがついてて……」
「…………っ!」
葵の答えを聞いた瞬間、湊の呼吸が完全に止まった。
掴んでいた葵の手首から力が抜け、湊の身体がガクリと崩れ落ちそうになる。
「湊くん!」
葵は慌てて湊の肩を抱きとめた。
湊の胸元に耳を当てると、心臓が今にも破裂しそうなほどの異常な早鐘を打っているのが分かった。冷や汗が湊の額から滝のように噴き出し、さらりとした黒髪を濡らしていく。
「湊くん、しっかりして! どうしたのよ、あの車に何か心当たりがあるの!?」
葵が必死に呼びかけると、湊はすがるように葵の腰に両腕を回し、その胸元へと深く、深く顔を埋めてきた。
子どものように、震えながら。
葵のパジャマの布地を、指先が白くなるほど強く握りしめて。
「……見つかった」
湊の唇から、絶望の呟きが漏れ出た。
「見つかっちゃったんだ……。ここまで……追ってきたんだ……」
「見つかったって……誰に……?」
「葵さん……っ」
湊は顔を上げ、涙で濡れた瞳で葵を見つめた。
その瞳の奥には、愛する人を失うことへの極限の恐怖と、逃れられない呪縛に対する底なしの絶望が渦巻いていた。
「お願いです……僕から離れないでください。僕を、一人にしないで……!」
震える唇で、湊は葵の手を自らの頬へと押し当てた。
何かに怯え、何かに追われている。
その異様な怯えようは、ただの「反抗期の子どもの家出」などという生ぬるい言葉では到底説明がつかない、暗く重い運命の影を色濃く漂わせていた。
***
その日のスタジオ・アークでの業務中、葵の集中力は完全に散漫になっていた。
パソコンのモニターに向かいながらも、朝の湊の蒼白な横顔と、あの異常な手の冷たさが脳裏から離れない。
――見つかった。
――ここまで、追ってきたんだ。
あの子は何から逃げてきたのだろう。
出会った夜、身寄りも行く当てもないと言っていた。
けれど、あの洗練された立ち振る舞い、育ちの良さを如実に物語る美しい文字、高価なカーフレザーのパスケース、そして品川ナンバーの最高級サルーン。
すべてが、ひとつの不穏な輪郭を結び始めていた。
湊は、ただの貧しい家出少年などではない。
もっと巨大で、もっと恐ろしい、葵のような一般庶民の想像を絶する世界の住人なのではないかという予感が、葵の胸を冷たく締め付けていた。
「……藤堂マネージャー、大丈夫ですか?」
昼過ぎ、書類を届けに来た相原が、心配そうに葵の顔を覗き込んできた。
「顔色、すごく悪いですけど……。先週のコンペの件、まだ引きずってますか? 僕たちなら平気ですから、あまり無理しないでくださいね」
「あ……ありがとう、相原くん。大丈夫よ、ちょっと寝不足なだけだから」
葵は無理やり口角を持ち上げて笑ってみせた。
誰にも言えるはずがなかった。自宅の前に不審な高級外車が張り付き、同居している十八歳の恋人がその存在に怯えて震えているなどと、職場の部下に相談できるわけがない。
午後を過ぎ、時計の針が進むにつれて、葵の焦燥感はピークに達していった。
早く帰らなければ。
あの子を、一人にしておいてはいけない。
今にも壊れてしまいそうだった湊の姿を思い出すだけで、胃のあたりがきりきりと痛んだ。
定時を告げるチャイムが鳴ると同時に、葵はデスクの上を素早く片付け、バッグを掴んでオフィスを飛び出した。
「お先に失礼します!」
「え、藤堂さん、珍しいな、定時退社か?」
背後から結城の声が追いかけてきたが、葵は振り返る余裕もなく、エレベーターへと駆け込んだ。
***
夕暮れの街を、半ば小走りで進む。
駅からの坂道を登り切る頃には、葵の呼吸は浅く乱れ、額には汗が滲んでいた。
角を曲がる。
――息を呑んだ。
ない。
ここ数日間、決まった場所に張り付くように停まっていた、あの漆黒の高級外車の姿が、そこにはなかった。
もぬけの殻となった路肩。
けれど、車が消えたという事実は、葵に安堵をもたらすどころか、より一層不吉な予感を胸の奥に掻き立てた。
(……湊くん!)
葵はパンプスの音を激しく響かせながら、マンションのエントランスへと滑り込んだ。
オートロックを開け、エレベーターを待つ時間すらもどかしく、非常階段を二段飛ばしで駆け上がる。
二階の廊下を走り抜け、二〇五号室のドアの前へと辿り着いた。
震える手でバッグから鍵を取り出し、鍵穴へ差し込む。
カチャリ、と解錠の音が響いた瞬間、葵はドアノブを力任せに押し下げた。
「湊くん!!」
勢いよく扉を開け放ち、玄関へと飛び込む。
靴を脱ぐ間もなく、上がり框の向こうのリビングへと視線を走らせた。
――部屋の中は、静まり返っていた。
カーテンはすべて閉め切られ、夕暮れの光すら遮断された薄暗がりが広がっている。
エアコンの送風音だけが、虚しく室内に響いていた。
いつもなら、葵が鍵を開けた瞬間にパタパタと小走りで駆け寄ってくるはずの足音は、聞こえない。
キッチンのコンロには火が入っておらず、夕食の仕込みをする美味しそうな匂いも、一切漂っていなかった。
「……嘘……湊くん……?」
葵の血の気が一瞬にして引いた。
連れ去られたのか?
あの黒塗りの車に乗った何者かに、無理やり連れ戻されてしまったのか?
「湊くん! どこにいるの!? 湊くん!!」
葵は靴を脱ぎ散らかし、廊下を駆け抜けてリビングへと飛び込んだ。
そして、その姿を視界に捉えた瞬間、葵はへたり込むようにその場に立ち尽くした。
「…………っ」
リビングの片隅。
窓際の壁とチェストの間の狭い隙間に、ひとつの影が小さく丸まっていた。
湊だった。
朝の部屋着のまま、両膝を胸元に抱え込み、床の上に額を押し当てるようにして、ガタガタと小刻みに震えていた。
部屋の明かりもつけず、テレビもつけず、ただ暗闇の中で、外界の音に怯えるように耳を塞いで蹲っていたのだ。
「湊、くん……!」
葵は膝をついて湊の元へ滑り込み、その震える背中に両手を回した。
「葵……さん……?」
ゆっくりと顔を上げた湊の表情は、葵の胸を激しくえぐった。
涙でぐしゃぐしゃに濡れた頬。充血した瞳。
葵の顔を認めた瞬間、湊の喉から「あ……」と掠れた悲鳴のような吐息が漏れ出た。
そして、弾かれたように葵の身体へとすがりついてきたのだ。
ドサッ、と激しい衝撃とともに、湊の長身が葵の胸元へと倒れ込んでくる。
「葵さん……っ! 葵さん、葵さん……!」
湊の両腕が、葵の背中と腰を、骨がきしむほどの強烈な力で抱きしめてきた。
痛いほどの抱擁。逃がさないように、二度と離れないように、葵の身体を自らの肉体の中にめり込ませようとするかのような切実な拘束。
葵の首筋に湊の濡れた顔が埋まり、熱い涙が葵のシャツの襟元を次から次へと濡らしていく。
「よかった……帰ってきてくれた……! 僕、怖くて……葵さんがもう帰ってこないんじゃないかって……僕が連れ戻されたら、葵さんに二度と会えなくなるんじゃないかって……!」
「湊くん、落ち着いて……大丈夫よ。私、ちゃんと帰ってきたわ。ここにいるわよ」
葵は湊の乱れた黒髪にそっと手を添え、母親が幼子をあやすように、優しく、何度も何度も撫で下ろした。
絹糸のような髪の感触。けれど、その頭部は激しい恐怖で細かく震え続けていた。
「車……いなくなったわ。マンションの前には、もう誰もいなかった」
「……一時的に、引いただけです」
湊の唇から、絶望に満ちた掠れ声が落ちた。
「確認したんです。……僕がここにいることを、確かめたから……本家に報告しに戻ったんだ……」
「本家……?」
葵が問い返した瞬間、湊の身体がビクリと強張った。
湊は葵の首筋からゆっくりと顔を離した。
至近距離で重なり合う視線。
薄暗い部屋の中で、湊の漆黒の瞳は、これまでのどんな甘い愛撫の時よりも深く、そして重い影を宿していた。
「葵さん」
湊の手が、葵の左手をそっと握りしめた。
指先を絡め、自らの胸元へと引き寄せる。
トクトクトク、と湊の早鐘を打つ心臓の鼓動が、葵の手のひらに直接伝わってくる。
「……話さなきゃいけないことがあります」
「湊くん……」
「僕が……家を出た理由。僕が、誰なのか……全部、葵さんに話します」
その声には、逃れられない運命と対峙する覚悟と、すべてを告白した瞬間に葵に拒絶されるのではないかという、痛々しいほどの怯えが混ざり合っていた。
「僕の過去を知っても……僕のこと、嫌いにならないでくださいね……?」
すがるような瞳。
葵は強く、湊の手を握り返した。
「嫌いになんて、なるわけないじゃない。……話しなさい、湊くん。あなたのこと、全部受け止めるって……あの夜、約束したでしょう?」
葵が優しく微笑むと、湊の目から再び大粒の涙が零れ落ちた。
薄暗いリビング。閉ざされたカーテンの向こう側で、夜の帳が静かに降りていく。
ふたりを包み込んでいた甘やかな楽園の扉が、冷酷な現実の風によって押し開かれようとしていた。
十八歳の少年に隠された、巨大すぎる秘密と過酷な過去。
その真実が明かされる瞬間を前に、葵の心臓は、重く、不穏な予感に締め付けられていたのだった。




