第30話:朝の陽光と、甘すぎる『恋人』の顔
窓のガラスを夜通し激しく打ち据えていた豪雨は、夜明けとともに嘘のように去り、雨上がりの澄み渡る初夏の朝が、東京の街並みを瑞々しく洗い流していた。
遮光カーテンのわずかな隙間から差し込んできたひと筋の陽光が、寝室のフローリングを滑り、ダブルベッドの白いシーツの上に柔らかな黄金色の光の帯を描き出している。
葵は、まどろみの深い底から、ゆっくりと意識を覚醒の岸辺へと引き上げていった。
「……ん……っ」
わずかに身じろぎをしようとした瞬間、葵の全身の筋肉と関節が、ギチギチと甘い悲鳴を上げた。
四肢に絡みつく、心地よくも重たい倦怠感。
腰の奥底に残る鈍い痺れと、太ももの内側が微かに引きつるような強烈な筋肉痛。
そして――肌と肌が隙間なく密着している部分から、絶え間なく伝わってくる圧倒的な熱量。
葵はおずおずと瞼を持ち上げた。
視界のすぐそこに広がっていたのは、白くきめ細やかな、けれど力強く引き締まった男の胸板だった。
布地の一枚すら挟まれていない。
葵の剥き出しの右半身は、逞しい腕によってしっかりと抱きすくめられ、相手の熱い体温の中にすっぽりと包み込まれていた。
薄い羽毛布団の中で絡まり合う足。葵の腰の上には、重みのある骨太な腕がしっかりと回され、逃げ場を完全に塞ぐようにして葵の身体を引き寄せて離さない。
「…………っ」
葵の息が、喉の奥で止まった。
夢ではない。
昨夜の出来事が、混濁していた脳裏に怒涛の濁流となって鮮烈に蘇る。
四ヶ月間、心血を注ぎ込んできた大型コンペ『ステラ・フォレスト』の理不尽な失注。
天下りと政治的癒着によって、自分たちのデザインが紙屑のように踏みにじられた屈辱。
役員室での冷酷な吊し上げ。部下たちの前で強がり、深夜三時まで一人きりでオフィスに残って事後処理をこなした、あの底なしの孤独。
そして――ボロボロになって辿り着いたこの部屋で、待っていてくれた少年。
冷えた缶ビールを前にして決壊した涙。
子どものように泣きじゃくる葵を、何も聞かずに強く抱きしめ、『僕の前では、年齢も肩書きも全部脱ぎ捨てていいんです』と全肯定の甘やかしを注ぎ込んでくれた湊。
理性の防波堤が粉々に砕け散り、激しい雨音の中で、肌と肌を重ね、心も身体もすべてを捧げ尽くした――あの狂おしいほどに切なく、熱い初夜。
(私……本当に、一線を越えちゃったんだ……)
カッと全身の毛細血管が沸騰するように熱くなり、葵は手で顔を覆いそうになった。
三十三歳の大人の女が。
高校を卒業したばかりの、十八歳の男の子と。
保護者と居候という建前も、年の差の言い訳も、何もかもを脱ぎ捨てて、男と女として結ばれてしまったのだ。
後戻りはできない。
もう二度と、「ただの便利なペット」や「親切な保護者」という安全な欺瞞の殻に戻ることなど許されない。
その決定的な現実に、葵の心臓は激しい羞恥と、そして言葉にできないほどの甘美な戦慄で早鐘を打ち鳴らしていた。
「……ん……葵さん……」
頭上から、寝起き特有の微かに掠れた、低く甘い声が降ってきた。
葵の身体が、ビクリと硬直する。
抱きしめる腕に、ギュッと無意識の力が込められた。葵の身体がさらに密着させられ、胸と胸が押し潰されるように重なり合う。
葵が恐る恐る視線を持ち上げると、枕の上でゆっくりと瞼を持ち上げた湊と、正面から目が合った。
――漆黒の瞳。
朝の柔らかな光を浴びて、深い夜の色をしたその双眸が、露わになる。
目覚めたばかりの湊の顔には、普段の朝に見せる「大型犬のような愛くるしい笑顔」はなかった。
乱れた黒髪が白い額にはらりと落ち、伏せられた長い睫毛が艶やかな影を落としている。
整いすぎた彫刻のような輪郭。少し赤みを帯びた薄い唇。
そして、その瞳の奥底に宿っていたのは――葵を自らの腕の中に完全に捕獲し、所有したことを自覚している、熟練の捕食者のような昏く甘い光だった。
「……湊、くん……」
葵が消え入りそうな声で呼びかける。
すると、湊の唇の端が、ゆっくりと、ぞっとするほど色っぽく吊り上がった。
「おはようございます、葵さん」
低く、深く、耳の奥を直接痺れさせるようなハスキーボイス。
湊は葵の腰に回していた手を滑り上がらせ、葵の背中の柔らかな曲線を慈しむように撫で上げた。
剥き出しの肌を、湊の骨張った大きな手のひらが這う。
指先が触れるたびに、昨夜の情事の記憶がフラッシュバックし、葵の背筋を甘い悪寒が駆け抜ける。
「っ……あ……」
「顔、真っ赤ですよ。可愛い」
湊は満足そうに喉を鳴らすと、葵の額に自らの額をコツンと重ねてきた。
おでこと、おでこ。
昨夜、何度も重なり合ったはずの距離なのに、朝の澄んだ光の下で見つめ合わされると、息が詰まるほどの恥ずかしさが押し寄せてくる。
「湊くん、近い……離れて……」
「嫌です。絶対に離しません」
湊は即座に、甘く、けれど揺るぎない力強さをもって拒絶した。
そして、葵の首筋――昨夜、彼が幾度となく貪るように唇を押し当てた鎖骨のすぐ上の皮膚へと、自らの顔を埋めてきたのだ。
――チュッ。
静まり返った朝の寝室に、濡れた音が微かに響いた。
「……っ!?」
葵の身体が跳ね上がる。
湊の熱く湿った唇が、葵の首筋の敏感な皮膚を、吸い付くように甘噛みしたのだ。
激痛ではない。神経の奥底をじわりと痺れさせるような、甘美で暴力的なマーキング。
湊は葵の首筋に唇を押し当てたまま、皮膚を通して直接響くような掠れ声で囁いた。
「葵さん。……もう絶対に、離しませんから」
「…………っ」
心臓が、肋骨を突き破りそうな勢いで跳ねた。
「言いましたよね。僕を受け入れてくれたら、もう世界の誰にも渡さないって」
湊の唇が、首筋から耳元へと這い上がってくる。
耳朶を甘く食まれ、吐息が耳の穴をくすぐるたびに、葵の口から「んぁ……っ」と情けない嬌声が漏れ出た。
「会社のことも、あの結城とかいう男のことも……全部忘れてください。葵さんの世界のすべてを、僕で満たしてあげますから」
耳元で囁かれるその言葉は、少年の無邪気さとは程遠い、一人の男としての底知れない独占欲の宣言だった。
十八歳。
高校を卒業したばかりの新成人。
そんな年齢の枠組みなど、葵を抱きすくめるこの逞しい肉体の前には、何の盾にもなり得なかった。
葵の身体のすべてを暴き、自らのものとして染め上げた男の、絶対的な勝者の余裕。
その圧倒的な熱量に包まれながら、葵は布団の中で、小さく身悶えすることしかできなかった。
「……湊くん、本当に……からかわないでよ……」
葵は涙目で訴え、湊の胸板を両手でそっと押し返そうとした。
けれど、手のひらに触れる湊の大胸筋は鋼のように硬く、葵の力ごときではビクともしない。
「からかってなんかいませんよ。本気です」
湊は葵の右手首をそっと掴むと、自らの胸元へと引き寄せた。
そして、葵の左手――何も飾られていない薬指の付け根へと、慈しむように自らの唇を落とした。
チュ、と朝の光の中で鳴る口づけの音。
「葵さんの指も、髪も、唇も、肌も……全部、僕のものです。僕が一生、愛して、守ってあげるんですから」
「湊、くん……私、もう三十三歳なのよ……? あなたより十五歳も上で……可愛げもない、仕事ばっかりの擦り切れた女なのに……」
葵の唇から、情けない本音が零れ落ちた。
愛されている。求められている。
その歓喜の裏側で、三十三歳という現実の重みが、葵の胸をチクリと刺していた。
若く、美しく、無限の可能性を秘めたこの少年が、なぜ自分のような行き遅れのアラサー女に、これほどまでに狂おしい執着を注ぎ込むのか。いつか目が覚めて、若い同年代の女の子のもとへ行ってしまうのではないかという恐怖が、心の片隅で燻っていたのだ。
けれど。
葵のその弱音を聞いた瞬間、湊の表情から甘い笑みが消えた。
湊は上半身をわずかに起こし、ベッドの上に両手をついて、上から葵を真っ直ぐに見下ろした。
その瞳は、深淵のように研ぎ澄まされ、葵の浅薄な迷いをすべて見透かしていた。
「葵さん」
低く、芯の通った声が落ちてくる。
「まだ、そんなこと言ってるんですか」
「え……?」
「年齢なんて関係ないって、昨夜、僕の腕の中で何度も教えたはずですよ」
湊の手が、葵の頬を包み込んだ。
親指の腹が、葵の唇をキュッと押し開くように撫でる。
「擦り切れた女? 可愛げがない? ……冗談言わないでください。外で誰よりも一生懸命戦って、傷ついて、ボロボロになって……僕の前でだけ、あんなに無防備に泣きじゃくって甘えてくれた葵さんが、どれだけ愛しくて、どれだけ綺麗だったか……葵さん自身が分かってないだけです」
湊の顔が、再び葵の目の前へと迫る。
息がかかるほどの距離。
「僕にとっては、葵さんだけがすべてです。葵さんが三十三歳だから好きなんじゃない。葵さんだから……僕の命を全部あげたいくらい、愛してるんです」
迷いのない、絶対の告白。
その言葉の重みに、葵の胸の奥底で燻っていた最後の不安が、音を立てて消し飛んでいった。
「……湊、くん……」
「だから……もう、逃げようなんて思わないでくださいね」
湊はそう言うと、葵の開かれた唇へと、再び自らの唇を重ねてきた。
朝の光の中で交わされる、深くて甘い口づけ。
昨夜の激しい情熱とは違う、互いの存在をゆっくりと確かめ合うような、息の長いキスの余韻に、葵の身体から完全に力が抜けていった。
***
ベッドの中で甘い戯れを繰り返すこと、さらに三十分。
ようやく湊の腕から解放された葵は、シーツを胸元まで引き上げながら、ベッドの縁に腰を下ろした。
「……っ、痛たた……」
床に足をついた瞬間、腰と内股に走った激痛に、葵は思わず顔をしかめて呻いた。
「葵さん、大丈夫ですか!?」
背後からすかさず伸びてきた湊の腕が、葵の細い腰をガッシリと支えてくれた。
湊はすでにベッドから抜け出し、黒のスウェットパンツだけを身につけていた。無駄のない筋肉に覆われた上半身には、葵が昨夜無我夢中でつけた爪の引っ掻き傷が、幾筋も赤く残っている。
その生々しい傷跡を目にした瞬間、葵の顔から火が出そうになった。
「み、見ないで……! 私、変な歩き方になってる……」
「恥ずかしがらないでください。僕が無理させちゃったせいですから」
湊はそう言うと、葵の身体をひょいと軽快に抱き上げた。
「きゃっ……!? ちょ、ちょっと、湊くん!?」
「歩かなくていいです。僕が運びますから」
お姫様抱っこのまま、湊は大股で寝室を出て、脱衣所へと向かった。
成人の女性を軽々と運ぶその腕力。
脱衣所に入ると、湊は葵を洗濯カゴの横の椅子にそっと下ろし、手際よく蛇口をひねってシャワーの温度を調節し始めた。
「ぬるめのお湯で、身体を流しましょう。湯船に浸かると余計に怠くなっちゃうかもしれないですから。……僕が洗ってあげますね」
「い、いい! それは絶対に自分でやる!!」
葵が必死の形相で両手をブンブンと振って拒絶すると、湊は「ちぇっ」と小さく唇を尖らせた。
その一瞬だけ見せた少年の愛嬌に、葵の胸がきゅんと音を立てて跳ねる。
「分かりました。じゃあ、バスルームの前に着替えを用意しておきますね。ゆっくり浴びてきてください」
湊は葵の額にちゅっと音を立ててキスを落とすと、名残惜しそうに脱衣所を出て行った。
温かいシャワーを浴び、昨夜の汗と情事の余韻を洗い流す。
鏡に映った自分の身体を見て、葵は再び息を呑んだ。
首筋、鎖骨、胸元、そして太ももの内側に至るまで、淡い赤紫色のキスマークが、まるで花びらを散らしたように無数に刻みつけられていたのだ。
完全に、所有の印だった。
誰の目から見ても、一目で「愛され、奪われた」と分かる、消えないマーキングの嵐。
けれど、その痕跡を見つめる葵の瞳には、先週のような恐怖や焦燥はなかった。
胸の奥を満たしていたのは、言葉にできないほどの甘美な安心感と、誇らしさだった。
自分は、あの少年に愛されている。
世界中の誰よりも深く、強く、求められているのだという確信が、葵の心を芯から温めていた。
用意されていた清潔なルームウェアに着替え、リビングへ戻ると、そこには信じられないほど甘やかで家庭的な光景が広がっていた。
キッチンでは、白のカットソーの上に淡いベージュのエプロンをつけた湊が、軽快にフライパンを操っていた。
トントントン、とリズミカルにネギを刻む包丁の音。
立ち上る湯気とともに漂ってくるのは、香ばしい胡麻油の香りと、昆布と鰹の一番出汁の豊かな芳香だった。
けれど、いつもの朝と決定的に違っていたのは、その空気感だった。
葵がリビングに入ってきた足音に気づいた湊が、パッと振り返る。
「葵さん!」
その笑顔は、これまでの「従順なワンコ」の笑顔ではなかった。
甘く、蕩けるようで、けれどどこまでも熱を帯びた――最愛の恋人を迎える、一人の男の顔だった。
「お風呂、さっぱりしましたか? 身体、冷えてませんか?」
湊はフライパンの火を弱めると、わざわざ調理台から歩み寄ってきて、葵の腰にすっと腕を回した。
そして、何のためらいもなく、葵の唇にちゅっと柔らかなキスを落としたのだ。
「……っ!」
自然すぎるスキンシップに、葵の心臓が跳ね上がる。
「み、湊くん、朝から……」
「朝だからですよ。恋人同士になったんですから、これくらい当たり前です」
湊は悪戯っぽく微笑み、葵の頭をふわりと優しく撫でた。
堂々とした恋人宣言。
境界線が消え去ったことで、湊の愛情表現は、一切のブレーキを失って加速していた。
「朝ご飯、もうすぐできますから座って待っててくださいね。今日は葵さんの体力を回復させるための特別メニューです」
ローテーブルに着くと、運ばれてきた朝食の豪勢さに、葵は目を丸くした。
中央に置かれた土鍋の蓋を開けると、ふわりと立ち上る生姜と三つ葉の香り。
ふっくらと炊き上げられた『真鯛と梅干しの出汁雑炊』だった。ほぐされた真鯛の白身がたっぷりと入り、黄金色の出汁を吸ったお米がツヤツヤと輝いている。
サイドメニューには、昨夜の疲労と筋肉痛を癒やすための、栄養バランスを徹底的に計算された小鉢が並んでいた。
山芋とオクラのネバネバ小鉢、ほうれん草とシメジのお浸し、そして湊の得意料理である、甘めで出汁がじゅわりと溢れ出す厚切りの出汁巻き卵。
「真鯛の良質なタンパク質と、梅干しのクエン酸で、疲労回復を狙いました。生姜もたっぷり入れてあるので、身体の芯から温まりますよ」
湊は葵の茶碗に雑炊をよそい、スプーンを添えて差し出してくれた。
「ありがとう、湊くん……すごく美味しそう」
「はい、冷めないうちにどうぞ。あ、熱いから気をつけてくださいね」
葵はスプーンを手に取り、ふうふうと息を吹きかけてから雑炊を口に運んだ。
――じゅわり。
口いっぱいに広がったのは、優しく、けれど力強い滋味の波だった。
真鯛の上品な脂と旨味が、昆布出汁と完璧に調和している。そこに紀州南高梅の柔らかな酸味と、生姜のピリッとした刺激がアクセントとなり、食欲を心地よく刺激する。
喉を通るたびに、昨夜の疲労で強張っていた胃の腑が、じんわりと温かく解きほぐされていくのが分かった。
「……美味しい。身体中に染み渡るみたい……」
「よかったです。葵さん、昨夜たくさん泣いたから、水分も塩分も足りてないと思って」
湊は向かいの席に座りながら、自分の朝食にはほとんど手をつけず、葵が食べる姿をうっとりと見つめていた。
「湊くんも食べなさいよ。冷めちゃうわよ」
「僕のことはいいんです。葵さんが美味しそうに食べてくれる顔を見てるだけで、胸がいっぱいですから」
「もう……本当に、甘いんだから」
葵が苦笑すると、湊はスッと身を乗り出してきた。
「葵さん。あーん、してあげましょうか?」
「えっ!? い、いいわよ、自分で食べられるわ!」
「ダメです。昨夜、僕の腕の中で『もう戦えない』って言ってたじゃないですか。休日の間くらい、僕にこれ以上ないくらい甘やかされてください」
湊はそう言うと、葵の手からスプーンを奪い取り、雑炊をすくって自らの息で丁寧に冷ました。
そして、葵の唇の前へと運んでくる。
「ほら、あーん」
至近距離で見つめてくる、澄んだ漆黒の瞳。
三十三歳の大人の女が、十八歳の少年に朝食を食べさせてもらう。
平常時の葵なら、恥ずかしさのあまり卒倒していたはずのシチュエーションだった。
けれど、今の葵には、その甘やかさを拒絶する理由がどこにも見当たらなかった。
葵はおずおずと口を開いた。
滑り込んでくるスプーン。
温かい雑炊を咀嚼し、飲み込むと、湊はまるで世界で一番偉大なことを成し遂げたかのように、パッと花が綻ぶ満面の笑顔を咲かせた。
「えらいです、葵さん。いっぱい食べて、元気になってくださいね」
湊の手が伸びてきて、葵の頭をよしよしと優しく撫でる。
その手つきの温かさに、葵の目頭がツンと痛んだ。
――あぁ、本当に。
自分は、この少年に完全に飼い慣らされてしまったのだ。
胃袋も、生活も、心も、身体も。
すべてを明け渡し、この十八歳の青年の手の中で、甘やかされ、愛され、生かされている。
月曜日になれば、またあの過酷な現実が待っているだろう。
失注したコンペの事後処理、役員たちからの冷たい視線、部下たちのケア。社会人としての厳しい戦いは、何一つ終わってはいない。
けれど。
今の葵には、もう恐れるものは何もなかった。
どれほど外の世界で傷ついても、どれほど理不尽な泥水を啜らされても――この部屋に帰ってくれば、自分を世界一愛し、全肯定し、抱きしめてくれる存在がいる。
その圧倒的な安全地帯を手に入れた葵の心には、昨日までの絶望が嘘のように、静かで力強い勇気が満ち満ちていた。
「葵さん」
朝食を終え、温かい緑茶を啜っていた時、湊が静かに口を開いた。
「明日は日曜日ですね」
「ええ。そうね」
「一日中、ベッドの中で一緒にいましょうね」
湊はテーブル越しに葵の手を握りしめ、妖艶な笑みを浮かべた。
「葵さんの身体の隅々まで、僕の愛を刻み直してあげますから」
「ちょっ……湊くん!?」
葵が真っ赤になって叫ぶと、湊は「ふふっ」と楽しそうに喉を鳴らして笑った。
甘くて、濃密で、狂おしいほどに幸せな、ふたりの新しい朝。
窓の外では、雨上がりの青空が広がり、初夏の眩い陽光が、ふたりの未来を祝福するように部屋いっぱいに降り注いでいた。
保護者と居候の契約は、完全に終わりを告げた。
ここから始まるのは――三十三歳のバリキャリと、十八歳の完璧な恋人による、甘美で底なしの溺愛の日々だった。




