第3話:契約成立。今日から君を『飼う』ことにします
脱衣所の方から微かに漏れ聞こえてくるジャーという規則正しいシャワーの水音が、夜の静寂に沈んだ部屋の中にやけに生々しく反響していた。
藤堂葵は、ローテーブルの前に投げ出された座布団の上にへたり込んだまま、両手で頭を抱えていた。
「……どうしてこうなったのよ」
指の間から漏れ出た独り言は、驚くほどかすれていた。
時計の針は午前二時半を回ろうとしている。連日の激務による慢性的な睡眠不足、締め切りに追われる神経の擦り切れ、さらには先ほどまでの土砂降りの雨に打たれた疲労が、泥のように重く全身へとのしかかっていた。頭の芯がジンジンと痺れるように痛む。
それなのに、神経だけが異常な興奮状態に陥っていて、眠気など完全にどこかへ吹き飛んでしまっていた。
理由は明白だ。
自宅の風呂場に、ほんの数十分前に道端で拾ったばかりの見ず知らずの男が入っているからである。
百歩譲って、道端で凍え死にそうな人間を保護したのはいいとしよう。人道的な配慮として、雨風をしのげる屋根を提供し、温かい茶を振る舞ったところまでは、親切な市民としての良心の範囲内だ。
だが、その先の展開が完全に狂っていた。
床に額を擦り付けて懇願する姿。大粒の涙を零しながら、すがるように見上げてきたあの漆黒の瞳。
『犬だと思ってください!』
『ご主人様に絶対に逆らわない、従順な犬になります!』
『僕を、ここに置いてください……っ』
思い出すだけで、葵の耳の奥がカッと熱くなった。
あんな美青年から、あんなにも哀切極まる顔で足元にすがりつかれて、冷静に追い出せる人間がいたらお目にかかりたい。少なくとも、職場で「面倒見が良すぎる」「頼まれたら断れないお人好し」と評され、部下のミスの尻拭いばかり押し付けられている藤堂葵という女には、絶対的に不可能な芸当だった。
「一晩だけ……そう、一晩だけよ。明日の朝になったら、冷静に話し合って然るべき場所へ送り出す。それで終わり。何も問題ないわ」
自分に言い聞かせるように、何度も何度も小さく頷く。
そうと決まれば、少しでも寝て体力を回復させなければならない。葵は立ち上がり、とりあえず自分の散らかり放題の部屋を見渡した。
「……うわぁ」
改めて見回すと、自己嫌悪で胃が痛くなるような有様だった。
六畳半のワンルーム。フローリングの上には、昨夜脱ぎ捨てたストッキングやカーディガンが無造作に転がり、テレビ台の周りには仕事の企画書やデザインの参考資料が地層のように積み重なっている。ローテーブルの上には、飲みかけのペットボトルと空になったビールのアルミ缶、コンビニのサンドイッチのプラスチック包装が散乱し、キッチンのシンクには昨朝使ったマグカップと数日前のスプーンが放置されたままだ。
激務を言い訳にして、生活という営みを完全に放棄した成れの果て。
今までは「自分一人しか入らない空間だから」と開き直っていた。けれど、他人が――それも、息を呑むほど端正な顔立ちをした若い男が足を踏み入れていると思うと、羞恥心で穴があったら入りたかった。
(せめて、足の踏み場くらいは作っておかないと……)
葵が慌てて散らばった衣類をかき集め、クローゼットへ適当に押し込もうとした、その時だった。
カチャリ、と脱衣所のドアノブが回る乾いた音がした。
浴室からふわりと、葵の愛用しているホワイトリリーのボディソープの甘く爽やかな香りと、白く温かな湯気がリビングへと流れ込んでくる。
「あ……葵さん、お風呂、ありがとうございました」
振り返った葵の視界に飛び込んできた光景に、葵の動きは完全にフリーズした。
「…………っ!」
息が止まりそうになった。
濡れた黒髪を無造作にタオルで擦りながら現れた湊は、先ほど雨の中で震えていた時とはまるで別人のような輝きを放っていた。
熱いシャワーを浴びたことで血色が戻り、陶器のように滑らかな白い頬はほんのりと上気して桜色に染まっている。濡れて束になった黒髪から滴り落ちる雫が、スッと通った高い鼻梁を滑り落ち、薄く形の良い唇の端で光を弾いていた。長い濡れ睫毛に縁取られた切れ長の瞳は、湿り気を帯びてトロンと柔らかく、まるで生まれたての小鹿か、あるいは雨露に濡れた花のような無防備な色気を放っている。
そして、何よりも葵の理性を激しく揺さぶったのは、その服装だった。
葵が貸し出したのは、自分が部屋着として着ている中で最も大きめサイズのスウェットとグレーのイージーパンツだった。葵が着ればダボダボで袖が余るはずの服が、湊の身体には明らかにサイズが小さすぎたのだ。
手首はすっかり露出し、骨張った男らしい手首と血管の筋がくっきりと見えている。スウェットの襟ぐりが横に大きく引っ張られ、深く窪んだ鎖骨のラインと、引き締まった首筋の筋肉がこれ見よがしに覗いていた。ズボンの丈も足りず、引き締まった足首が覗いている。
細身に見えていたが、肩幅は広く、胸板もしっかりと厚い。服の上からでも分かる骨格のたくましさと、湯上がりの少年のあどけなさが、暴力的なまでのギャップとなって葵の網膜を焼き尽くす。
「あの……勝手にシャンプーもお借りしてしまいました。すみません……」
湊はバスタオルを両手で握りしめ、申し訳なさそうに少し首を傾げた。その仕草一つをとっても、無自覚なのか計算なのか判別がつかないほど完璧に愛らしかった。
「あ、ううん! 全然いいの、使ってくれて! 風邪引かないようにちゃんと乾かしてね!」
葵は裏返りそうになる声を必死に抑え込みながら、慌てて視線を逸らした。直視し続けると、大人の女性としての理性が粉々に砕け散りそうだった。
「ドライヤーは洗面台の鏡の後ろにあるから。……あ、もう使ったのね、ある程度乾いてるわね」
「はい、お借りしました」
湊は丁寧に頭を下げると、ゆっくりと部屋の中へと歩みを進めた。
そして、部屋の中央で立ち止まり、葵の荒れ果てたワンルームをぐるりと見渡した。
「うっ……」
葵は心の中で小さく悲鳴を上げた。
見られた。三十三歳独身女性の、最も見られたくない生活の残骸を。
「ご、ごめんね! 本当に散らかってて! 今週ずっとプレゼンが重なってて、家には寝に帰るだけで全然片付ける時間が取れなくて……あ、これ、今すぐ片付けるから気にしないで!」
葵が真っ赤になりながら、床に散らばった企画書の紙束を大慌てで拾い集めようとした、その時。
「葵さん、僕がやります」
澄んだ、心地よい低音が耳元で響いた。
葵がハッとして顔を上げると、湊がすでに葵の隣に膝をついていた。
「え? いや、でも、あなたはお客さんだし、疲れてるでしょう――」
「お客さんじゃありません」
湊は葵の手から、そっと優しく企画書の束を抜き取った。その指先が葵の手に触れ、湯上がりの熱がじんわりと伝わってくる。
湊はまっすぐに葵の目を見つめ、真剣な眼差しで微笑んだ。
「僕を部屋に入れてくれた恩返しです。それに……さっき言いましたよね。家事全般、完璧にやるって。僕が役に立つところ、葵さんに見てもらわないと」
「えっ、でも――」
葵の制止の言葉が追いつく間もなく、湊は淀みのない動きで立ち上がった。
そこからの彼の動きは、葵の常識を根底から覆すものだった。
まず湊は、キッチンの収納扉を迷うことなく開け、シンク下にストックされていたゴミ袋をスッと取り出した。初めて足を踏み入れた部屋のはずなのに、まるで自分の家であるかのように収納の位置を瞬時に把握している。
「可燃ゴミと、缶と、ペットボトルで分別しますね」
軽やかな手つきで透明なゴミ袋を三つ広げると、湊はローテーブルの上の空き缶を回収し始めた。
ただ袋に放り込むのではない。缶の飲み口に残ったわずかな水分をキッチンのシンクでサッと水洗いし、しっかりと水気を切ってから資源ゴミの袋へと投入する。ペットボトルも同様に、キャップとラベルを手際よく剥がし、中を軽く濯いでから潰して袋へ。散乱していたコンビニの空き容器も、汚れを軽く流して重ね、体積を最小限にして可燃ゴミの袋へとまとめていく。
「ちょ、ちょっと、手際良すぎない……?」
葵が呆気に取られて口を半開きにしている間にも、湊の作業は一切止まらない。
テーブルの上からゴミが一掃されると、湊は布巾を水で濡らし、固く絞ってテーブルを拭き始めた。円を描くように手早く、かつ隅々まで力を込めて拭き上げていく。コーヒーの輪染みがこびりついていた木目の天板が、見る見るうちに本来の美しい艶を取り戻していく。
「企画書や資料は、日付か案件ごとに分かれていますか?」
床に積み上がっていた書類の山を前に、湊が振り返って尋ねてきた。
「え? あ、うん……右側の束が来週のコンペ用で、左側のファイルが現在進行中の修正案件……」
「分かりました。勝手に捨てたりは絶対にしませんから、サイズと案件ごとに揃えて、こちらのラックの棚に立てておきますね」
「あ、はい……」
もはや葵は、有能な部下に指示を出される上司のように小さくなって頷くことしかできない。
湊の指先は驚くほど細やかで、散らばっていたA4のプリント用紙が、あっという間に端の揃った美しい直方体の束へと整えられていく。クリップで留められた資料はカテゴリーごとに分類され、無造作に放り出されていたカラーマーカーやボールペンは、ペン立ての中に色順で綺麗に収められた。
さらに湊の快進撃は止まらない。
ソファの上に脱ぎ捨てられていた葵のカーディガンを手に取ると、空中でパパッと軽く埃を払い、縫い目に沿って寸分の狂いもなく四角く畳み上げた。アパレルショップの店頭に並んでいる商品かと見紛うほどの美しい畳み方だった。
「葵さん、クローゼットのハンガーをお借りしてもいいですか?」
「あ、うん、一番右側の段に入ってるはず……」
許可を得た湊は、葵のジャケットを型崩れしないよう丁寧にハンガーへ掛け、クローゼットの中へと綺麗に収納した。その際も、他人のプライベートな領域を覗き見ようとする下品な視線は一切なく、ただひたすらに「服を美しく整える」ことだけに集中している。
そして極めつけは、キッチンのシンクだった。
スポンジに洗剤を含ませ、泡立てる手際の良さは完全にプロのそれだった。放置されていたマグカップの茶渋を丁寧にこすり落とし、流水で泡を洗い流すと、吸水マットの上に整然と伏せていく。シンクの内側までスポンジで磨き上げ、排水口のゴミ受けネットを取り替えて水滴を拭き取るまで、わずか五分足らず。
最後に、部屋の隅に置かれていたハンディモップを手に取り、テレビ台の裏やラックの隙間の埃を音もなく払い落とし、コード類の絡まりまでマジックテープで美しく束ねてみせた。
――作業開始から、わずか二十分。
「……嘘でしょ」
葵の口から、呆然とした呟きが漏れた。
先ほどまで「激務に追われる独身女の墓場」だったワンルームが、まるでインテリア雑誌のモデルルームのように劇的な変貌を遂げていた。
床には埃ひとつ落ちておらず、ローテーブルの上はピカピカに磨き上げられ、書類は美しく整頓されてラックに収まり、シンクは曇りひとつなく輝いている。空気まで澄み渡ったように感じられるほどだった。
休日に半日かけて大掃除をしても、ここまで完璧に仕上げられたことなど一度もない。それを、この青年は湯上がりのわずかな時間で、汗ひとつかかずにやってのけたのだ。
「ふぅ……。とりあえず、今できるのはこれくらいですね」
湊は息を整えると、スウェットの袖を少し捲り上げ、満足そうに部屋を見回した。
それから、葵の方へと向き直る。
「葵さん、どうでしょうか。少しは落ち着いて過ごせるようになりましたか?」
その問いかけは、あまりにも純粋で、葵の心からの安らぎを願う色に満ちていた。
「ど、どうでしょうかって……凄すぎるわよ! 何これ、魔法!? あなた、家事代行のプロか何かなの!?」
葵が思わず身を乗り出して叫ぶと、湊は少し照れたように頬を緩めた。
「プロなんてそんな……。昔から、掃除や料理をするのが好きだっただけです。綺麗になると、気持ちが落ち着くので」
謙遜するその笑顔には、嘘偽りのない素直さがあった。
けれど葵の頭の中では、猛烈な勢いで計算機が弾き出されていた。
(待って……この家事スキル、本物だわ。というか、本物どころの騒ぎじゃない……!)
現在、葵が最も喉から手が出るほど欲しているもの。それは「時間」と「生活の維持」だった。
毎日の残業で終電帰り。自炊する気力など残っておらず、コンビニ飯で塩分と脂質を過剰摂取し、荒れた部屋に帰っては自己嫌悪に苛まれる負のループ。もし、この部屋が常にこの状態に保たれ、さらに「料理も作れる」という彼の言葉が本当だとしたら――。
それは、葵の崩壊しかけていた私生活を根底から救い出す、奇跡のような救済措置ではないか。
(いやいやいや! 何を血迷ってるの藤堂葵! 相手は素性の知れない男の子よ!? 家事ができるからって同居を許すなんて、そんな都合のいい話があるわけ――)
葵が激しい脳内葛藤に悶絶していると、湊がすっと歩み寄り、葵の目の前に再び正座した。
背筋をピンと伸ばし、膝の上に揃えた手を置く。
湯上がりの瑞々しい肌、整った顔立ち、そして葵を見つめる漆黒の瞳。その瞳には、先ほどまでの怯えや涙は消え、代わりに強い覚悟の光が宿っていた。
「葵さん」
静かで、凛とした声だった。
「改めて、お願いがあります」
「……え?」
「僕を、ここに置いてください」
再び繰り返されたその言葉に、葵の心臓がトクンと跳ねた。
湊は葵の目を逸らさず、まっすぐに視線を絡めながら言葉を紡ぎ出した。
「警察や公の施設に行けば、僕は確実に元の場所へ連れ戻されます。そこに戻るくらいなら……僕は本当に、死んだ方がマシなんです。でも、葵さんにただで甘えるつもりはありません。さっき見ていただいた通り、僕はこの家の家事全般を完璧にこなすことができます。掃除も、洗濯も、買い出しも、そして料理もです」
湊の言葉には、淀みがなかった。自分の持てる唯一の武器を、最大限にアピールするプレゼンテーション。
「葵さんが仕事から疲れて帰ってきた時、温かいご飯を作って待っています。お風呂を沸かして、部屋を綺麗にして、明日着ていく服にアイロンをかけておきます。葵さんが外で戦うための、最高の休息場所を僕が作ります。だから……僕に、生活のサポートをさせてください」
「湊くん、でも……」
「家賃も生活費も、僕が外でアルバイトをして稼げるようになったら、必ず全額お支払いします。それまでの間は、家事代行としての労働で相殺させていただけないでしょうか。……お願いします」
湊はそう言って、再び深く頭を下げた。
フローリングに額を近づけるその姿勢は、先ほどの絶望的な土下座とは違い、葵に対する絶対的な敬意と誠意に満ちていた。
葵は息を呑んだ。
三十三歳の大人の女として、常識というブレーキを踏まなければならないのは分かっている。
けれど、目の前で頭を下げるこの青年が差し出してきた提案は、あまりにも葵の弱り切った心に刺さりすぎた。
『葵さんが外で戦うための、最高の休息場所を僕が作ります』
その言葉が、どれほど孤独に戦い続けてきた葵の胸を強く打ったか、湊には想像もつかないだろう。
誰かに甘えたいなんて、二十代の半ばでとうに諦めていた。弱音を吐けば「女だから」と見下される男社会の中で、肩肘を張り、牙を剥き出しにして、必死にキャリアを築いてきたのだ。帰る場所には誰もいない。誰も「お疲れ様」とも言ってくれない。冷え切った暗い部屋で、一人で缶ビールを煽るだけの毎日。
そんな荒野のような生活の中に、突如として現れた、完璧な家事能力を持つ美しい青年。
「……はぁ」
葵は天を仰ぎ、深く長い息を吐き出した。
もう、負けだ。
最初から、あの雨の中でこの子を拾った時点で、自分の負けは決まっていたのかもしれない。
「……顔を上げなさい、湊くん」
葵が言うと、湊はおずおずと顔を上げた。不安そうに葵の表情を窺うその瞳は、やはり捨てられるのを恐れる大型犬そのものだった。
葵は腕を組み、できる限り威厳を持たせた声で告げた。
「条件を出すわ。それを全部飲めるなら、一時的な同居を認めます」
その瞬間、湊の瞳がパッと見開かれた。
「ほ、本当ですか……!?」
「まだ喜ばないで。条件よ、条件」
葵は指を一本立てた。
「一つ目。これはあくまで『次の行き先が見つかるまでの期間限定』であること。身元を明かせない事情があるのは分かったけれど、一生ここに隠れ住むわけにはいかないわ。生活基盤を整えて、自立の目処が立ったら、速やかに出ていくこと」
「はい……! もちろんです!」
「二つ目。私たちの関係は、あくまで『同居人』であり『家事代行契約』であること。お互いのプライベートには過度に干渉しない。部屋のルールは私の指示に従うこと」
「はい! ご主人様の言いつけには絶対に従います!」
「……ご主人様って言うのやめなさい。鳥肌立つから」
葵が顔をしかめると、湊は少しシュンとした顔をして「はい、すみません……」と呟いた。その反応すら可愛らしくて、葵の調子が狂う。
「そして三つ目。これが一番大事よ」
葵は湊の目をまっすぐに見つめた。
「犯罪行為や、誰かに迷惑をかけるようなトラブルには一切関わらないこと。もし警察沙汰になるようなことがあれば、その瞬間に契約解除。即座に出て行ってもらいます。いいわね?」
「誓います」
湊は迷うことなく、力強く頷いた。
「葵さんに迷惑をかけるようなことは、絶対にしません。もし約束を破ったら、どんな罰でも受けます」
その瞳に宿る光はどこまでも澄み切っていて、嘘をついている気配は微塵も感じられなかった。
葵は小さく息を吐き、組んでいた腕を解いた。
「……契約成立ね。とりあえず、今夜はもう寝ましょう。私はベッドを使うから、湊くんは……あそこのクローゼットにある予備の毛布を使って、ソファで寝てくれる?」
「ソファなんて滅相もないです! 床で十分です!」
「いいからソファで寝なさい! 風邪引かれたら私の家事代行計画が破綻するでしょ!」
葵が半ば強引に毛布と枕を引っ張り出してソファに放り投げると、湊は両手でそれを受け取り、まるで宝物でも抱きしめるかのように胸元に抱えた。
「ありがとうございます……葵さん」
その顔に浮かんだのは、心からの安堵と、途方もない喜びに満ちた笑顔だった。
先ほどまでの凍えそうな表情が完全に消え去り、花が綻ぶように華やかに輝くその美貌に、葵は胸の奥を激しく鷲掴みにされたような衝撃を覚えた。心臓がトクン、と不規則に跳ね上がる。
「……まったく」
動揺を悟られないよう、葵はそっぽを向いて自虐的な笑みを漏らした。
「深夜に雨の中で行き倒れてた美少年を拾って、家事代行として住まわせる三十三歳独身OL……客観的に見たら、完全にヤバい女ね。まるで、雨の日に迷い込んできた野良犬を飼い始めたみたいだわ」
自嘲気味に吐き捨てたその言葉。
けれど、湊の反応は全く予想外のものだった。
「野良犬……」
湊はその言葉を反芻するように呟くと、ふわりと目を細めた。
そして、抱きしめていた毛布から少しだけ顔を覗かせ、上目遣いに葵を見つめてきたのだ。
漆黒の瞳をトロリと甘く細め、口元にいたずらっぽい笑みを浮かべながら。
「はい。喜んで、葵さんの飼い犬になります。――ご主人様」
「っ……!!?」
葵の心臓が、ドカンと音を立てて爆発しそうになった。
あざとい。
あまりにもあざとすぎる。
大型犬のような愛くるしさと、年下の少年特有の無邪気さ、そしてその奥に潜むほんのわずかな大人の男の色気。それらを完璧にブレンドした、破壊力抜群の笑顔だった。
従順なペットのように首を傾げながら、その瞳の奥には、葵の領域にしっかりと爪を立てた確信めいた光が微かに揺らめいていた。
「ば……っ、バカ言ってないで早く寝なさい!」
葵は真っ赤になった顔を手で覆い隠しながら、逃げるように自分のベッドへと飛び込み、頭からすっぽりと羽毛布団を被った。
「おやすみなさい、葵さん。……拾ってくれて、本当にありがとうございました」
背後から聞こえてきた湊の穏やかで甘い声が、静かに部屋の空気を満たしていく。
カチリ、とリビングの間接照明が消され、部屋が柔らかな薄暗がりに包まれた。
布団の中で、葵は激しく高鳴る自分の胸の音を聞いていた。
ドク、ドク、ドク、と、まるでマラソンを走った後のように心臓が跳ねている。
(飼い犬、って……何なのよ、あの子……!)
三十三歳。恋愛リタイア組。仕事だけに生きていくと決めていたはずの自分の日常が、あの18歳の青年の笑顔一つで、とんでもない方向へ転がり始めてしまったことを痛感していた。
けれど、布団越しに伝わってくる部屋の空気は、昨夜までの凍えるような冷たさとは違い、どこか温かく、そして微かにホワイトリリーの香りが漂っていた。
激務で疲れ果てていた葵の意識は、激しい動揺を抱えたまま、けれど不思議なほどの安心感に包まれながら、深い眠りの底へと急速に落ちていった。




