第2話:拾った美青年の、切実すぎるプレゼン
深夜二時過ぎのエレベーター内は、息が詰まるほどの沈黙に支配されていた。
ステンレス製の壁に囲まれた狭い空間に、ゴオという鈍い駆動音だけが規則正しく響いている。階数表示を示すデジタルの赤い数字が『1』から『2』へとゆっくり切り替わるだけの数秒間が、まるで永遠のように長く感じられた。
葵の左肩には、ずっしりとした重みがのしかかっている。
水を含んで重くなった青年の身体は、触れている部分から容赦なく葵の薄手のブラウスへと冷気を伝えていた。濡れそぼったパーカーの布地越しに、骨張った肩の感触と、規則正しく刻まれる微かな呼吸の上下が伝わってくる。生きている。紛れもなく、自分と同じ体温を持った人間がここにいる。
(……私、本当に何やってるのよ)
金属の扉にぼんやりと映る自分たちの姿を見て、葵は胃の奥がきゅっと縮むような悪寒を覚えた。
濡れて乱れた髪の三十三歳の女が、深夜の豪雨の中、行き倒れていた見ず知らずの若い美青年を肩に担いで自宅マンションへ連れ込んでいる。客観的に見れば、完全に常軌を逸していた。警察に通報されても言い訳のしようがないし、もしこの男が危険な人物や詐欺師の類いだったら、明日の朝刊の三面記事に載るのは自分かもしれない。
そんな当たり前の危機管理能力が、激務による疲労と、あの雨の中で見つめられた濡れた大型犬のような瞳の切実さによって、ものの見事に麻痺してしまっていた。
チーン、と澄んだ電子音が鳴り響き、二階で扉が左右に開く。
「……っ、よいしょ」
葵は青年の腕を自分の首の後ろにしっかりと巻き直すと、よろめきながら内廊下へと踏み出した。絨毯が敷き詰められた静かな廊下に、青年の靴底からしたたり落ちた雨水がポタポタと黒い染みを作っていく。明日、管理人に怒られるかもしれないという現実的な懸念が脳裏をよぎるが、今は立ち止まるわけにはいかなかった。
二〇五号室。葵の城であり、同時に誰にも見せられない恥部の詰まった部屋の前で、鍵を回す。
カチャリと解錠の乾いた音が響き、ドアノブを押し下げた。
「入って。……あ、ちょっと待って、そこでストップ!」
玄関ドアを開けた瞬間、葵は青年の胸板を手で制し、慌てて上がり框の手前で彼を押し留めた。
靴を脱ぎ捨てて部屋の照明のスイッチを入れると、白いLEDの明かりが一瞬で部屋全体を冷酷なまでに照らし出した。
「うっ……」
眩しさに目を細めた葵は、瞬時に自分の住処の惨状を目の当たりにして呻き声を漏らした。
広めのワンルームは、文字通り『激務に追われる独身女の墓場』と化していた。脱ぎ捨てられたジャケットやストッキングが無造作にソファへ引っ掛けられ、ローテーブルの上には昨夜飲み干した缶ビールの空き缶と、食べ終わったコンビニのパスタ容器が放置されている。床の片隅には企画書の束やデザイン雑誌が乱雑に積み上がり、足の踏み場を探すのも一苦労という状態だった。
職場で『完璧な進行管理の藤堂マネージャー』として通っている人間が住んでいる空間とは、口が裂けても言えない。
「ご、ごめん、ちょっと散らかってて……いや、かなり散らかってるけど気にしないで! とにかく、玄関のたたきから上がらないでね。床が水浸しになっちゃうから!」
葵は早口でまくしたてると、洗面所へ小走りで向かった。
リネン棚から一番大きくて分厚いバスタオルを二枚引っ張り出し、さらに予備のフェイスタオルを抱えて玄関へと戻る。
青年は、葵に言われた通り玄関のコンクリートのたたきの上に直立不動で立ち尽くしていた。
水たまりの中にぽつんと取り残されたその姿は、雨に打たれて小さくなっている大型犬そのものだった。滴り落ちる水滴がつま先の周りに丸い水たまりを広げている。けれど彼は、自分の濡れた服が壁や靴箱に触れないよう、両腕を身体にぴったりと密着させ、申し訳なさそうに肩をすぼめていた。その姿勢の良さと細やかな気遣いに、葵はふと違和感を覚える。
(ずいぶん……育ちが良さそうな立ち居振る舞いをする子ね)
薄汚れた路上生活者特有の荒んだ気配は微塵もない。服こそ雨で濡れそぼっているが、生地自体は上質なコットンであることが触れた手触りから分かった。
「はい、これ使って。頭と顔、しっかり拭いて。それからこれ、床に敷くから靴を脱いでその上に上がって」
葵は一枚のバスタオルを床に広げ、もう一枚のバスタオルを青年の頭の上にふわりと被せてやった。
「あ……ありがとう、ございます……」
タオル越しにくぐもった声が返ってくる。青年はおずおずとスニーカーの紐をほどき、濡れた靴を揃えて玄関の端へ置くと、タオルの上に靴下を脱いで足を乗せた。その所作の一つひとつが丁寧で、礼儀正しさが染み付いているように見える。
青年は被せられたタオルを両手で押さえ、濡れた漆黒の髪を擦るように拭き始めた。
タオルが持ち上がり、再びその素顔が露わになる。
室内の明るい光の下で見る青年の顔立ちは、薄暗いエントランスで見た時よりもさらに息を呑むほど整っていた。
濡れて束になった前髪の隙間から覗く、すっきりと通った高い鼻梁。濡れた睫毛に縁取られた切れ長の瞳は、吸い込まれそうなほど深い黒を湛えている。寒さで青ざめた陶器のような白い肌と、薄く形の良い唇。水も滴るいい男、という陳腐な表現すら生ぬるい。どこかのファッション誌から抜け出してきた専属モデルと言われた方がよほど納得がいく造形だった。
(本当に……なんなの、この顔面偏差値は……)
三十三年の人生の中で、これほど整った容姿の異性と至近距離で対峙したことなど一度もない。葵は平静を装いながらも、心臓がトクトクと落ち着かないリズムを刻むのを感じていた。
「服……着替えた方がいいけど、あいにく男物の服なんてうちにはないのよね。私のスウェットで入るかしら。丈は短いと思うけど、風邪引くよりはマシよね」
「いえ、そんな……! 部屋に入れていただいただけでも十分すぎます。服なんて、これ以上ご迷惑をおかけするわけにはいきません」
青年は慌てて首を横に振った。掠れた声の中にも、どこか品のある落ち着きがある。
「迷惑ならとっくにかかってるから今更よ。いいから、その濡れたパーカー脱いじゃいなさい。風邪引くわよ」
「あ……はい」
促されるまま、青年は濡れて肌に張り付いたパーカーの裾を掴み、ゆっくりと頭の上へ引き抜いた。
その瞬間、葵は思わず視線を泳がせそうになった。
パーカーの下に着ていた白い半袖Tシャツも完全に雨水を含んで透けており、薄い布越しに鍛え上げられた胸板のラインと、引き締まった腹筋の起伏がくっきりと浮き彫りになっていたのだ。細身に見えていたが、決して華奢ではない。無駄な脂肪が一切削ぎ落とされた、しなやかで力強い若い男の身体だった。鎖骨の窪みに溜まった雫が、首筋から胸元へと滑り落ちていく。
「っ……! と、とりあえず、これ羽織ってて!」
葵は慌ててクローゼットから引っ張り出してきた自分のオーバーサイズのフリースポンチョを青年に押し付けた。青年は言われるがまま素直にそれを受け取り、冷えた肩を包み込むように羽織った。大人の葵が着れば膝上まで隠れるポンチョが、青年の広い肩幅にかかるとただの短い上着のように見えてしまう。体格の差をまざまざと見せつけられたようで、葵の頬がわずかに熱を持った。
「座ってていいわよ。あ、そのバスタオルを敷いた上にね。今、温かいお茶淹れるから」
「すみません……何から何まで……」
青年は恐縮した様子で、フローリングの隅に敷かれたタオルの上に正座した。長い足を器用に折りたたみ、膝の上に揃えた手を置いている。その姿は、やはり叱られるのを待つ従順な大型犬を彷彿とさせた。
葵はキッチンへ向かい、電気ケトルのスイッチを入れた。
湯が沸くシューという静かな音が、深夜の部屋に響き渡る。
棚からマグカップを二つ取り出し、戸棚の奥に眠っていたほうじ茶のティーバッグを放り込んだ。普段の葵なら、帰宅して飲むものといえば冷蔵庫で冷やした缶ビールか、ペットボトルのミネラルウォーターくらいのものだ。誰かのために湯を沸かし、温かい茶を淹れるなんて、一体何年ぶりのことだろう。
沸騰した湯を注ぐと、香ばしい茶葉の香りが湯気とともにふわりと立ち上った。
少しだけ荒んでいた葵の神経が、その香りによって解きほぐされていくのを感じる。
「はい、どうぞ。熱いから気をつけてね」
葵はローテーブルの端を少しだけ片付け、青年の前に湯気の立つマグカップを置いた。自分もその対面に、床に座り込む形で腰を下ろす。
「いただきます……」
青年は両手で大切そうにマグカップを包み込んだ。
凍えて白くなっていた長い指先が、陶器の熱を吸い取っていく。彼はそっと唇をつけ、熱いほうじ茶を一口、ゆっくりと喉へと流し込んだ。
「……っ、あたたかい……」
その瞬間、青年の端正な顔が、ふにゃりと崩れた。
張り詰めていた緊張の糸が切れたように、目尻が下がり、深い安堵の吐息が漏れる。凍てついていた表情が一気に和らぎ、年相応の少年のあどけなさが顔を覗かせた。
その無防備な笑顔の破壊力に、葵は胸の奥を不意打ちで突かれたような衝撃を覚えた。思わず自分のマグカップを両手で握りしめ、ごくりと唾を飲み込む。
(危ない危ない……何よその顔。反則でしょ、普通に)
三十三年の人生経験を総動員して、葵は咳払いを一つし、表情をビジネスモードの『冷徹なマネージャー』へと切り替えた。
温かいお茶を振る舞い、最低限の暖を取らせた。人道的な支援としてはここまでで十分だ。ここからは、大人の社会人として現実的な落とし前をつけなければならない。
「さて」
葵の声に、青年がピクリと反応して背筋を伸ばした。マグカップを膝の上に置き、葵をまっすぐに見つめ返す。その黒い瞳があまりにも澄んでいて、葵は気後れしそうになるのを必死に抑え込んだ。
「身体は少し落ち着いた?」
「はい。おかげさまで、指先の感覚が戻ってきました。本当に……ありがとうございます」
「礼には及ばないわ。人命救助の範囲内だから。……で、ここからが本題なんだけど」
葵は腕を組み、青年の目を真っ直ぐに見据えた。
「あなた、名前は? それから、どうしてあんなところで倒れていたの? 持ち物は何も持っていないの?」
葵の問いかけに、青年の表情が陰った。
彼はマグカップの縁を見つめたまま、長い睫毛を伏せた。先ほどまでの安堵の空気が消え去り、重苦しい沈黙がふたりの間に落ちる。
「……名前は、湊です」
「湊くん。苗字は?」
「……言えません」
頑なな拒絶だった。けれどその声には、葵に対する敵意ではなく、何か巨大なものに対する深い怯えのようなものが混ざっていた。
「言えない、ね……。じゃあ、他の質問の答えは? 持ち物は? 財布とか、携帯電話は持ってないの?」
湊は小さく首を横に振った。
「全部……置いてきました。お金も、身分証も、スマートフォンも、何も持っていません」
「置いてきたって……家出、ってこと?」
「…………」
沈黙が肯定の証だった。
葵は深くため息をついた。やはりそうか、という思いと、厄介なことに首を突っ込んでしまったという後悔が頭をもたげる。
「身寄りは? 頼れる親戚とか、友達の家とかはないの?」
「ありません。……僕には、身寄りも、頼れる人も、行くあても、何もありません」
湊の声は平坦だったが、その奥底には深い絶望が澱のように沈んでいた。
「帰る場所なんて、最初からどこにもないんです。あそこは……僕の家じゃなかった」
絞り出すように紡がれたその言葉の重みに、葵は息を詰まらせた。
家庭環境に何か深刻な問題を抱えているのだろうか。虐待か、あるいは強烈な不和か。これ以上深く踏み込むのは危険だと葵の理性が告げていた。他人の家庭の闇に、通りすがりの赤の他人が首を突っ込むべきではない。
葵はマグカップに口をつけ、冷めかけた茶を飲み込んでから、できる限り事務的で冷静なトーンを保って告げた。
「事情は分かったわ。深くは聞かない。でもね、湊くん。お金も身分証も行き場もない人間を、見ず知らずの私がこのまま部屋に置いておくわけにはいかないの。それは分かるでしょう?」
湊の身体が、ビクリと強張った。
「明日の朝になったら、警察に行きましょう。交番へ連れて行ってあげる。身元を明かしたくないなら、公的な一時保護施設や相談窓口を紹介してもらうのが一番安全よ。福祉の制度だってあるし、行政に頼れば寝泊まりする場所や次の生活の手続きだって――」
「嫌です……っ!」
激しい声だった。
それまでの静かで従順な態度が一変し、湊は弾かれたように顔を上げた。その瞳には、剥き出しの恐怖と焦燥が渦巻いていた。
「警察だけは……公の機関だけは、絶対に嫌です! 頼むから、警察には行かないでください……!」
「な、なんでよ。犯罪に巻き込まれてるなら尚更警察に行くべきだし、あなた自身が何か悪いことをしたわけじゃないんでしょう?」
「違います! 悪いことなんてしてません! でも……警察に行ったら、絶対に連れ戻される……っ。あそこに戻されたら、僕はもう……人間として生きられない……!」
湊の喉から、血を吐くような切迫した叫びが漏れた。
連れ戻される――その単語に、葵は眉をひそめた。誰に? 親に? それとも別の誰かに?
だが、葵がその疑問を口にするよりも早く、湊は信じられない行動に出た。
――バサリ、とタオルが擦れる音がした。
「え……?」
湊が、ローテーブルを回り込み、葵の足元へと移動してきたのだ。
そして、彼はフローリングの冷たい床の上に、躊躇うことなく両膝をついた。
葵の目の前で、端正な顔をした長身の青年が、床に額を擦り付ける勢いで深々と土下座をしたのである。
「ちょっ、ちょっと待って! 何してるの!? 頭を上げなさいよ!」
葵はパニックになり、座布団の上で後ずさりした。大の大人が、それも自分よりずっと若く美しい青年が、足元に跪いて平伏している。その光景はあまりにも異様で、心臓が早鐘を打ち鳴らした。
「お願いです……っ! 僕を、ここに置いてください!」
床に額を押し付けたまま、湊は震える声で叫んだ。
「置いてくださいって……そんなの無理に決まってるでしょ! 私たち、さっき会ったばかりの赤の他人なのよ!?」
「分かってます! 無茶苦茶なことを言っているのは百も承知です! でも、僕にはもうここしかないんです……!」
湊はゆっくりと頭を上げた。
その瞳には、大粒の涙が溜まっていた。濡れた黒い瞳から、ポロポロと透明な雫が零れ落ち、葵の足元のフローリングを濡らしていく。
その泣き顔の痛々しさに、葵の胸がぎゅっと締め付けられた。
「ただで置いてくれなんて言いません……! 僕にできることなら、何でもします!」
湊は葵の足元に膝立ちになり、必死に手を伸ばして、すがるように葵の膝の上に乗せられた手の甲を見つめた――触れようとして、汚してはいけないと躊躇うように、数センチ手前でその手を止める。その自制の利いた仕草が、かえって彼の切実さを際立たせていた。
「家事全般、炊事、洗濯、掃除、ゴミ出し……なんでも完璧にやります! 料理だって、栄養バランスを考えて三食作れます! 部屋の掃除も、水回りのカビ取りも、エアコンのフィルター掃除も、全部僕がやります!」
「は……? 家事……?」
予想外の単語の連続に、葵の思考が追いつかない。
「邪魔は絶対にしません! 物音も立てません! 息を潜めて、部屋の隅で小さくなっています! あなたが帰ってくるまでに完璧に部屋を綺麗にして、温かいご飯を作ってお風呂を沸かして待っています! だから……だからお願いです、僕を捨てないでください……!」
「捨てるって……拾った覚えないんだけど……!」
「犬だと思ってください!」
「はあぁ!?」
葵の口から、素っ頓狂な悲鳴が飛び出した。
犬? 今、この美青年は何と言った?
「犬です! ペットでいいんです! ご飯の残り水と、寝るための床の片隅さえあれば、僕は文句なんて一切言いません! ご主人様に絶対に逆らわない、従順な犬になります! どんな条件でも従います! だから……外に追い出さないでください……あの冷たい雨の中に、僕を戻さないでください……っ!」
湊の声は、最後には嗚咽に変わっていた。
大粒の涙をボロボロと流しながら、葵の足元にすがりつき、懇願する姿。
それは、誇りもプライドもすべてかなぐり捨てて、ただひたすらに『生きるための居場所』を求める、追い詰められた生き物の姿だった。
その瞳の奥にある純粋な絶望と哀切さに、葵は完全に言葉を失ってしまった。
(家事全般……完璧にやる、ですって……?)
パニックの極致にある脳裏の片隅で、葵の悪魔のような本音が、ふと囁いた。
視線を巡らせれば、荒れ果てた汚部屋。シンクに山積みになった洗い物。洗濯機の中に放置された生乾きのタオル。コンビニ弁当とエナジードリンクで誤魔化し続けて、ボロボロになっている自分の身体。
仕事に追われ、生活を完全に破綻させている葵にとって、湊が提示した条件――『完璧な家事と温かい手料理』は、あまりにも魅力的すぎる、毒入りの林檎のような甘いプレゼンだった。
いやいや、何を考えているのか。
相手は素性の知れない男なのだ。いくら顔が良くても、いくら哀れでも、同居なんて許せるはずがない。警察に突き出すのが唯一の正解だ。
そう自分に言い聞かせ、葵は息を吸い込んだ。
「湊くん、あのね――」
拒絶の言葉を紡ごうとした葵の唇は、しかし、次の瞬間に完全に凍りついた。
湊が、床の上で膝を進め、葵の足元へとさらに擦り寄ってきたのだ。
そして、躊躇いがちに伸ばされた彼の手が、葵のパジャマ代わりのスウェットの裾を、ぎゅっと、壊れ物を掴むような弱々しい力で握りしめた。
「……葵さん」
初めて呼ばれた、自分の名前。
エントランスのインターホン横の表札を見たのだろうか。掠れた、けれど甘く艶のある低音で名前を呼ばれた瞬間、葵の背筋をゾクリとした戦慄が駆け抜けた。
湊は、濡れた長い睫毛を持ち上げ、下から葵を見つめ上げていた。
その瞳は、涙で潤んで濡れていた。
雨の中で震えていた時と同じ、けれど今度は明確に葵個人に向けられた、熱を帯びた執着と哀願の光。
「僕を……置いてください。あなたの役に立ちます。絶対に後悔させませんから……」
その瞳に見つめられた瞬間、葵の頭の中にあった『大人の常識』という名の防波堤が、音を立てて崩れ去っていくのを感じた。
ずるい。
こんな顔で、こんな声で、こんな風に縋り付かれて、冷酷に突き放せる人間がこの世にいるだろうか。少なくとも、お人好しで、部下の失敗を肩代わりしてばかりの損な役回りを続けてきた藤堂葵という女には、到底不可能な芸当だった。
「……はぁぁぁぁぁぁぁぁぁっ」
葵は両手で顔を覆い、今夜で一番深く、重い溜息を吐き出した。
胃のあたりがキリキリと痛む。明日以降の自分が、この決断をどれほど呪うことになるか、想像するだけで恐ろしかった。
けれど、床に額をつけて震えているこの青年を、今すぐ雨の中に放り出すことなど、葵にはどうしてもできなかった。
「……分かったわよ」
葵の小さな呟きに、湊がピクリと肩を揺らした。
「……え?」
「今日だけよ。……いい? 雨が止んで、服が乾くまでの、今夜一晩だけの話だからね!」
葵は顔から手を離し、努めて厳しい表情を作って湊を指差した。
「警察に行くかどうかも含めて、詳しい話は明日の朝! 今夜はもう遅いし、私も疲れて限界なの。だから、一晩だけ泊まることだけは許可します!」
それは、明確な妥協であり、敗北宣言だった。
けれど、湊にとっては違ったらしい。
彼の瞳に、パッと眩いばかりの光が灯った。まるで、死刑宣告を待つ囚人が恩赦を与えられたかのように、その顔全体が歓喜に染まっていく。
「ほ、本当ですか……!? ありがとうございます……っ、本当に、ありがとうございます……!」
湊は再び床に額を擦り付けんばかりに何度も何度も頭を下げた。その姿は、あまりにも必死で、やはりどこか哀れで、そして胸が痛くなるほど愛らしかった。
「お礼なんていいから! ほら、頭を上げなさい! ……とりあえず、シャワー浴びてきなさい。風邪引かれたら私の責任になるんだから」
「はい……! すぐ浴びてきます!」
湊は立ち上がると、深々と一礼し、葵に教えられた浴室へと小走りで向かった。
パタン、と脱衣所のドアが閉まる。
直後、静まり返ったリビングに取り残された葵は、背後のソファへと力なく倒れ込んだ。
「……私、本当に何やってるんだろう……」
天井を見上げながら呟いた声は、情けないほど震えていた。
浴室からは、ジャーというシャワーの水音が聞こえ始めている。見ず知らずの若い男が、自分の家の風呂に入っているという現実。
一晩だけ。明日の朝には絶対に出て行ってもらう。
そう自分に強く言い聞かせながらも、葵の胸の奥には、先ほど足元に跪いた湊の濡れた瞳と、熱を帯びた『葵さん』という甘い声の残響が、消えない棘のように深く突き刺さっていた。




