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激務アラサー女子、雨の日に拾った18歳のワンコに胃袋と理性を奪われる〜逃げた御曹司の重すぎる執着愛〜  作者: ヒデコ


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第1話:午前二時、エントランスのずぶ濡れワンコ

午前一時四十八分。

日付が変わってとうに久しい深夜の私鉄車内は、湿った空気と疲労の澱(おり)のような沈黙に満たされていた。

金属の吊革を握る藤堂葵(とうどうあおい)の指先は、かじかんだように冷え切っていた。吊り革に体重を預けながら、ふと窓ガラスに目をやる。暗闇を背負ったガラス越しに、疲れ果てた一人の女の顔が浮かび上がっていた。

丁寧に引いたはずのアイラインはかすかに滲み、ファンデーションは口元から乾燥してひび割れ始めている。艶を失いかけた髪を無造作にハーフアップでまとめ、襟ぐりの開いたオフィスカジュアルのブラウスに羽織ったノーカラージャケット。三十三歳。大手デザイン会社『スタジオ・アーク』で制作進行管理のマネージャーを務める女の、これが偽らざる深夜のリアルだった。

「……生きてるだけで、満身創痍ね」

誰にも聞こえないほどの吐息で呟く。隣の席に座るサラリーマンが、ビールの匂いを漂わせながら舟を漕いでいた。

今日のスケジュール帳を開けば、ため息しか出ない。朝一番の定例ミーティングに始まり、気難しいクライアントからの理不尽なデザイン修正依頼、板挟みになって泣き出した二十代の新人デザイナーのメンタルケア、夕方からの追加プレゼン資料の作成、そして終電間際まで続いた予算調整のすり合わせ。

マネージャーという肩書きは、聞こえこそ良いが、実態は上からの重圧と下からの不満をすべて一身に受け止める巨大な緩衝材のようなものだ。責任ばかりが雪だるま式に膨らみ、私生活のすべてを削り取っていく。

かつて二十代の半ば頃には、深夜残業の後に同僚と飲みに行き、愚痴を肴にワインを煽るような気力もあった。あるいは週末になれば、少し良い服を着て合コンに顔を出し、実のない恋愛駆け引きに一喜一憂するエネルギーも残っていたはずだった。

けれど三十歳を過ぎたあたりから、恋愛というシステムそのものが、あまりにも燃費の悪いアトラクションに思えてならなくなったのだ。

休日にわざわざ髪を巻き、痛むヒールを履いて見ず知らずの男と向かい合い、互いの年収や休日の過ごし方を探り合う――そんな不毛な儀式をこなすくらいなら、一秒でも長くベッドの中で泥のように眠っていたい。部屋の隅に溜まった埃を見ないふりをして、ぬるくなった缶ビールを飲みながら、録画した旅番組をぼんやり眺める方がよほど贅沢だ。

そうやって日々の忙しさを言い訳に、生活のすべてを仕事に捧げてきた結果が、現在の「藤堂葵(三十三歳・恋愛完全リタイア組)」の完成である。

「間もなく、終点です」

機械的な車内アナウンスが流れ、電車が軋んだ音を立ててホームに滑り込む。

葵は重い革張りのトートバッグを持ち直した。中には十五インチの社用ノートパソコンと、ずっしりと重いカタログの束。肩に食い込むストラップの痛みに顔をしかめながら、電車を降りた。


改札を抜けて地上へ上がった瞬間、葵は思わず立ち止まり、天を仰いだ。

「……嘘でしょ」

視界を埋め尽くしたのは、白く煙るほどの凄まじい豪雨だった。

天気予報では「夜遅くに所によりにわか雨」程度だったはずだ。それがどうだ。アスファルトを激しく叩きつける雨粒は、まるでバケツの水をひっくり返したかのような土砂降りになっている。雷鳴こそ響いていないものの、叩きつける雨音はゴーという不気味な地鳴りのように夜の住宅街を包み込んでいた。

駅前のコンビニで傘を買おうにも、すでにビニール傘のラックは空っぽだった。

葵はバッグの底から、いつ入れたかも定かではない軽量の折りたたみ傘を引っ張り出した。頼りない骨組みをギシギシと広げ、雨のカーテンの中へと意を決して足を踏み出す。

一歩踏み出しただけで、履き慣れていたはずのパンプスに冷たい雨水が染み込んできた。

「冷た……最悪」

ヒールが水たまりを撥ね、パンツの裾を容赦なく濡らしていく。斜めに吹き付ける強風のせいで、開いたばかりの折りたたみ傘はほとんど役に立たない。吹き込む雨がブラウスの肩を濡らし、肌に冷たく張り付く。ノートパソコンだけは死守しなければと、葵はバッグを胸元に抱え込み、前かがみになって早足で歩いた。

駅からの徒歩十分が、まるで永遠の苦行のように感じられる。

街灯のオレンジ色の光が、舗装されたアスファルトの上に無数の水紋を描いては弾け飛んでいる。すれ違う人は誰一人としていない。平日の深夜二時、当たり前の光景だ。世界中に自分一人しか残されていないような、寒々しい錯覚が胸を締め付ける。

早く帰りたい。

帰ったところで、待っているのは冷え切った暗いワンルームと、脱ぎ捨てられた服の山、そしてシンクに溜まったマグカップだけなのだが、それでも雨風をしのげる天井があるだけマシだ。

肩をすぼめ、凍える指先で傘の柄を握りしめながら、葵はやっとの思いで自宅マンションの敷地へと辿り着いた。


築八年、タイル張りのモダンな外観を持つ十階建ての賃貸マンション。

エントランスへと続くアプローチには、雨露に濡れた植栽が黒々と茂っている。深い庇(ひさし)が突き出たエントランスポーチに滑り込み、葵は深く長い息を吐き出した。

「はぁ……っ、着いた……」

壊れかけた折りたたみ傘をすぼめ、激しく水滴を振り払う。

濡れた前髪が額に張り付いて不快極まりない。ジャケットを脱いでパンパンと叩き、早くエレベーターに乗って熱いシャワーを浴びようと、自動ドアの解錠盤へ向かって数歩踏み出した。


――その時だった。


視界の端、エントランスの最も暗いタイルの隅に、異様な「影」があることに気がついた。

「……え?」

葵の足がピタリと止まる。

最初は、誰かが粗大ゴミの回収日を間違えて放置した大型の荷物か何かだと思った。あるいは、濡れて膨らんだ黒いビニール袋の塊か。

だが、違った。

その影は、ゆっくりと、しかし確実に上下に波打っていた。呼吸をしているのだ。

街灯の明かりが届きにくいエントランスの軒下、雨水がわずかに吹き込むタイルの冷たい床の上に、一人の人間が蹲(うずくま)っていた。

膝を抱え、頭を深々と腕の中に埋め、まるで外界からのすべての刺激を拒絶するように身体を丸めている。

背格好からして、明らかに男だ。それも、丸まっていても分かるほど背が高い。手足が長く、薄手のグレーのパーカーと黒いスキニーパンツを身につけているが、その衣服は頭から足の先まで完全に雨水を吸い、びしょ濡れになっていた。絞れば滝のように水が滴り落ちるのではないかというほど、ぐっしょりと重たく張り付いている。

(酔っ払い……? ううん、こんなところで?)

葵の心臓が、警戒心でドクンと嫌な跳ね方をした。

深夜のマンション前で行き倒れている成人男性。どう考えても関わるべきではない案件だ。都会の一人暮らしにおいて、見知らぬ他人の異変に関わるのはリスクでしかない。泥酔者か、あるいは危険な人物か。

見て見ぬ振りをして、さっさとオートロックの鍵を開けて中に入り、管理会社か警察に通報する。それが三十三歳の大人の女性として、最も合理的で正しい危機管理のはずだった。

葵は鍵を取り出そうと、震える手でバッグを漁った。

だが、その男の身体が、目に見えてガタガタと激しく痙攣するように震え始めたのが見えてしまった。

「う……っ、……ぅ」

微かな、押し殺したような呻き声が雨音の隙間から漏れてくる。

冷たい風が吹き抜け、青年の濡れた衣類から体温を容赦なく奪い去っていく。この豪雨だ。気温は五月にしては異常に低く、初冬のような寒気が立ち込めている。このまま朝まで放置されれば、確実に低体温症で危険な状態に陥るだろう。

その震え方は、泥酔して眠りこけている人間のそれではない。雨に打たれ、行き場を失い、寒さと絶望の中で命をすり減らしている生き物の震え方だった。

(……何やってるのよ、私。早く行きなさいよ)

頭の中の理性が警告を発する。他人のことなど構っている余裕がどこにある。自分だって明日は朝九時から経営会議の資料を作らなければならないのだ。余計なトラブルに巻き込まれている暇など一分一秒たりともない。

それなのに。

雨の冷たさに震えるその背中が、どうしても、かつて激務の中で心が完全に折れ、深夜の非常階段で膝を抱えて泣いていた自分自身の姿と重なってしまった。

「……はぁ。もう、私のバカ」

自分に対する諦め混じりの悪態を吐きながら、葵は踵を返した。

水たまりを踏まないよう気をつけながら、そっと軒下の影へと近づいていく。濡れた靴底がタイルを擦るキュッという音が、静かなポーチに響いた。

一メートルほどの距離を保ち、いつでも逃げ出せる姿勢を取りながら、葵は胸元にバッグを抱えたまま、できる限り穏やかな、けれど通る声を絞り出した。


「――あの。すみません」


返事はない。ただ、小刻みな震えがピクリと止まった。

生きている。葵は少しだけ安堵し、傘を少し傾けて男の顔を覗き込もうとしながら、もう一段階言葉を重ねた。

「大丈夫ですか? こんなところで寝ていたら風邪を引きますよ。……警察か、救急車を呼びましょうか?」

通報という単語を出せば、厄介ごとなら逃げ出すだろうという計算もあった。

だが、男の反応は予想外のものだった。

「……や、だ」

掠れた、けれど驚くほど澄んだ低音の響きが、濡れた布越しに漏れ聞こえた。

「警察は……呼ばないで、ください……」

拒絶の声には、怯えと深い疲弊が混ざり合っていた。

そして、男がゆっくりと、強張った身体を軋ませるようにして頭(こうべ)を持ち上げた。


その瞬間。

藤堂葵の思考は、文字通り完全に停止した。


「……っ」

思わず息を呑み、喉の奥が小さく鳴った。

街灯の淡い光と、エントランスポーチのダウンライトが、青年の濡れた顔立ちを陰影深く照らし出していた。

――息を呑むほどの、美青年だった。

水を含んで額や頬に無造作に張り付いた漆黒の髪。その隙間から覗く肌は、雨に洗われて陶器のように白く、陶芸家が心血を注いで削り出したかのような完璧な鼻梁を描いている。薄い唇は寒さのせいで血色を失い、わずかに紫がかって震えていたが、それすらも退廃的な美しさを際立たせていた。

何よりも葵の目を奪ったのは、その瞳だった。

長い濡れた睫毛の奥にある瞳は、深く澄んだ夜の色をしていた。光を拒むように暗く、それでいてどこか切実で、捨てられた大型犬がすがるような、胸を締め付けるほど純粋で湿った光を湛えている。

世の中にこれほど端正な造形の人間が存在するのかと、デザインという視覚的な美を仕事にしてきた葵ですら、本能的な眩暈を覚えるほどの美貌だった。年齢は、どう見ても若い。二十代前半……いや、もしかしたらもっと若いかもしれない。

青年は、虚ろな瞳で葵を見上げていた。焦点が合っているのかすら定かではない。

その肩が、凍えるようにガチガチと激しく音を立てて震えている。雨水が彼の顎先から、ツッと雫となって冷たいタイルへと滴り落ちた。

「あ、の……」

美貌への衝撃から我に返り、葵は慌てて言葉を探した。三十三年の人生で培ってきたはずの語彙力が、信じられないほど綺麗に霧散していた。

「ええと……あなた、どうしてこんなところで……? お家は、どこなの? 誰か連絡できる人は?」

青年の喉が、痛ましげに上下した。

彼は葵を見上げたまま、力なく小さく首を横に振った。

「ない、です……」

「え?」

「帰る場所も……行くところも……誰も、いません」

消え入りそうな声だった。

雨の音にかき消されそうなほど弱々しいその言葉は、しかし嘘をついているようには見えなかった。ただただ、世界から切り離されて途方に暮れている子どものような無防備さが、そこにはあった。

青年は震える両腕で自分の身体を強く抱きしめ、寒さに耐えるように目を伏せた。

「……邪魔ですよね。すみません。すぐ……どこか、行きますから……」

そう言って、青年は壁に手をつき、立ち上がろうとした。

だが、雨に打たれ続けた身体はとっくに限界を迎えていたらしい。濡れたスニーカーがタイルに滑り、青年の長い手足が力なく崩れ落ちそうになった。

「ちょっ……危ない!」

葵は考えるよりも先に、持っていた折りたたみ傘を放り出し、とっさに青年の身体を支えようと手を伸ばしていた。

ずしり、とした重みが腕にかかる。

「あっ……!」

細身に見えたが、骨格は紛れもなく大人の男のものだった。濡れたパーカー越しに伝わってくるのは、布地の氷のような冷たさと、その奥にある生命の確かな重み。葵の華奢な体躯では完全に支えきれず、ふたりしてエントランスの壁にドサリともたれかかるような格好になった。

至近距離に、青年の濡れた顔がある。

雨の匂いに混ざって、微かに漂う石鹸のような清涼な香り。触れ合った肩から、青年の激しい震えがダイレクトに葵の肌へと伝わってくる。氷のように冷たい。このまま放置すれば、本当に命に関わる。

「おい、しっかりして! 立てる!?」

葵が声を荒らげると、青年はうっすらと瞼を開けた。

至近距離で葵の瞳を捉えたその漆黒の双眸が、ふっと揺れた。

まるで、暗闇の中で唯一見つけた救いの光を見つめるかのように。

「……温かい」

青年が、掠れた声で小さく呟いた。

葵の肩に預けられた青年の額から、じわりと冷気が染みてくる。それなのに、触れ合っている部分の奥から、微かな熱のようなものが葵の胸の奥をチリチリと焦がした。

「温かいです、あなた……」

青年の細く長い指先が、葵の濡れたジャケットの裾を、まるで溺れる者が藁を掴むように、弱々しく、けれど決して離さないという意志を込めてギュッと握りしめてきた。

その力は驚くほど切実で、葵の心臓を強く鷲掴みにした。

(どうしよう……)

頭の中で警告音が乱れ飛んでいる。

冷静になれ、藤堂葵。三十三歳にもなって何を動揺している。警察を呼ぶのが筋だ。交番へ連れて行けばいい。それが社会のルールだ。自分の部屋に入れるなんて常識外れも甚だしい。どこの誰かも分からない、行き倒れの男を?

けれど。

ぎゅっと葵の裾を握りしめたまま、寒さに唇を噛み締めて耐えている青年の顔を見た瞬間、そのすべての正論が喉の奥で詰まってしまった。

雨に濡れそぼり、誰にも見向きもされず、冷たいコンクリートの上で震えている大型犬。

もし今、この手を振り払ってオートロックの扉の向こう側へ行ってしまったら――この青年は、明日の朝には本当に冷たくなっているかもしれない。

そして何より、この縋り付くような瞳を裏切る自分自身を、葵は一生許せない気がした。

「……はぁぁぁっ」

今夜何度目になるか分からないため息を、葵は雨空に向かって盛大に吐き出した。

もう、どうにでもなれ。

明日後悔するなら、明日後悔すればいい。今夜だけだ。今夜、雨が止んで、この子の身体が温まるまでの、ほんの数時間だけの話だ。

「……立てる?」

葵は声をワントーン落とし、努めて事務的な、保護者のような口調で言った。

「私の肩に掴まりなさい。部屋は二階だから。……歩ける?」

青年は驚いたように目を丸くし、それから信じられないものを見るように葵を見つめ返した。

「……いいん、ですか……?」

「よくないけど、ここで死なれたら後味が悪すぎるの。ほら、行くよ。しっかり掴まって!」

葵が青年の腕を自分の肩に回すと、青年は恐縮するように、けれど決してその温もりを手放さないように、葵の細い肩に体重を預けて立ち上がった。

背が高い。葵の頭一つ分以上は優に高い。濡れた前髪から覗く美しい顔が葵のすぐ横にあり、弱々しい息遣いが葵の耳元をかすめる。

葵はバッグから鍵を取り出し、震える手でオートロックのセンサーに翳した。

ピッ、という電子音とともに、重い自動ドアが静かに開く。

深夜二時過ぎの、誰もいない静まり返ったマンション。

ずぶ濡れのアラサーバリキャリと、行き倒れの美青年。

水滴で濡れた床にふたつの靴跡を残しながら、葵は自分の平凡で平穏だった日常が、この瞬間から音を立てて狂い始めたことを、まだ何一つ理解していなかった。

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