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激務アラサー女子、雨の日に拾った18歳のワンコに胃袋と理性を奪われる〜逃げた御曹司の重すぎる執着愛〜  作者: ヒデコ


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第4話:目覚めの出汁の香りと、夢のような朝食

いつもなら、朝の訪れは葵にとって最も苦痛に満ちた処刑台へのカウントダウンでしかなかった。

ピピッ、ピピッ、と脳髄を直接針で刺すように鳴り響くスマートフォンの耳障りなアラーム。重力を三倍に増量されたかのように鉛のように重たい四肢。擦り切れた喉の渇きと、胃の底に澱のように溜まった前夜の缶ビールのアルコールの臭気。

遮光カーテンで閉ざされた薄暗い部屋の中、重い瞼をミリ単位で押し上げ、枕元のアラームをスヌーズで三度止め、四度目にようやく絶望とともに掛け布団を跳ね除ける。それが、藤堂葵がここ数年間、毎朝欠かさず繰り返してきた儀式だった。

朝食と呼べるようなものは口にしない。冷蔵庫から取り出した冷たいミネラルウォーターを一気に煽り、胃が冷えて痛むのを無視して、洗面所で冷水で顔を洗い、時間に追われながらファンデーションを叩き込む。コンビニで買った無糖のアイスコーヒーか、駅の売店で掴み取ったエナジードリンクを胃に流し込み、満員電車の暴力的な揺れに耐えながら会社へと向かうのだ。

――生きるための食事ではなく、ただ活動限界を先延ばしにするための燃料補給。

そんな荒みきった朝が、葵にとっての当たり前の日常だった。


けれど。

今朝は、何かが決定的に違っていた。

「……ん……?」

まだ完全に意識が覚醒していない浅い眠りの淵で、葵の鼻腔をくすぐったのは、アラームの不快な音色ではなく、信じられないほど甘美で優しい『香り』だった。

どこか懐かしく、そしてたまらなく食欲を刺激する香り。

昆布の奥深い滋味と、削りたての鰹節をふんだんに使った時にしか出ない、澄み切った力強い出汁の香気。そこに、ほんの少しの醤油とみりんが熱せられた香ばしさが重なり、さらに遠くからパチパチと魚の脂が焼けるような香ばしい匂いと、炊き立ての白米特有のふくよかな蒸気の匂いが混ざり合ってくる。

(……なに、この匂い……?)

寝返りを打つと、頬に当たるシーツがいつもより温かく感じられた。

ここは実家だろうか、と葵は寝ぼけた頭で考えた。

子どもの頃、まだ母が生きていた頃の、日曜日の穏やかな朝のような。階下の台所から包丁がまな板を叩くリズミカルな音が響いてきて、味噌汁の香りで自然と目が覚めた、あの遠い記憶の中にいるのだろうか。

――トントントン、サク、サク。

軽やかで、小気味のいい包丁の音が耳に届く。

一定のテンポで刻まれるその音は、まるで熟練の料理人が厨房で刻みネギを作っているかのような規則正しさだった。

チリチリ、と魚焼きグリルから立ち上る香ばしい煙の匂いが、葵の乾いた喉を激しく刺激する。自然と、口の奥に唾液がじわりと滲み出てきた。空っぽの胃袋が、キュルル、と情けない音を立てて収縮する。

(……待って。実家なわけないじゃない)

葵の思考が、急速に輪郭を取り戻し始めた。

実家を出てからもう十年以上が経っている。ここは都内の賃貸マンション、葵が一人で暮らす六畳半のワンルームだ。

一人暮らしの部屋で、朝から出汁の香りが漂い、包丁の音が響くはずがない。泥棒? いや、泥棒がわざわざ朝食を作るわけがない。

じゃあ、どうして――。


その瞬間、昨夜の出来事が奔流のように脳裏に蘇った。


深夜二時の豪雨。

エントランスの軒下で行き倒れていた、ずぶ濡れの長身の青年。

息を呑むほどの美貌。

床に額を擦り付けて涙を流しながら懇願した、あの切実すぎるプレゼンテーション。

『犬だと思ってください!』

『家事全般、炊事、洗濯、掃除、なんでも完璧にやります!』

『喜んで、葵さんの飼い犬になります。――ご主人様』


「――っっっ!!?」

葵は弾かれたように跳ね起きた。

掛け布団を勢いよく蹴飛ばし、乱れた髪を両手で押さえながら、恐る恐るベッドからリビングとキッチンの方へと視線を走らせる。

そして、葵は息を呑んだ。


そこには、葵の三十三年の人生の中で、一度たりとも見たことがない光景が広がっていた。


薄い遮光カーテンが開け放たれ、東向きの窓から柔らかく澄んだ朝の陽光が、リビングいっぱいに降り注いでいた。

埃ひとつなく磨き上げられたフローリング。完璧に整頓されたラック。

そして、白く眩しい朝の光に包まれたキッチンの前に、一人の青年が立っていた。

「……湊、くん……?」

思わず零れた葵の掠れ声は、換気扇の回る低い音にかき消された。

湊は葵の視線に気づいていないらしく、真剣な横顔でコンロの火加減を調整していた。

その姿に、葵の目は完全に釘付けになった。

湊が身につけていたのは、葵が以前、何かの販促キャンペーンの景品でもらって以来、キッチンの引き出しの奥底に丸めて放置していた淡いベージュ色のエプロンだった。

小柄な女性向けに作られたはずのエプロンは、湊の体格には明らかに小さすぎた。

首から掛けられた紐はピンと張り詰め、引き締まった細い腰の周りでリボンがぎりぎり結ばれている。昨夜葵が貸したオーバーサイズのスウェットは、腕まくりされて肘のあたりまでたくし上げられており、そこから伸びる前腕のしなやかな筋肉と、浮き出た美しい血管の筋が惜しげもなく露わになっていた。

広い肩幅と、引き締まった腰回り。男性的な骨格の美しさと、エプロンという家庭的なアイテムの組み合わせ。

しかも、そのエプロンを身につけているのが、朝の光を浴びてさらさらと輝く黒髪と、彫刻のように完成された美貌を持つ十八歳の少年なのだ。

光を透かす長い睫毛が伏せられ、真剣な眼差しでフライパンを見つめている。薄い唇が集中するようにキュッと引き結ばれ、額にかかる前髪の隙間から、若々しく瑞々しい陶器のような肌が覗いていた。

(な……な、なんなの、この破壊力……! ここは天国なの? それとも私はまだ夢の中にいるの……!?)

葵は心臓が早鐘を打つのを感じながら、ベッドの上で呆然と固まるしかなかった。朝の寝起きで頭が働いていないことを差し引いても、目の前の光景はあまりにも現実離れしすぎていた。


湊の手元に目をやると、その動きはもはや芸術の域に達していた。

左手で四角い卵焼き器の柄を軽く煽り、右手で持った菜箸で、薄く流し込まれた卵液をくるくると手際よく巻き込んでいく。ジュワッ、という心地よい音とともに、立ち上る甘い湯気。焦げ目は一切つけず、弱火でじっくりと、幾重にも層を重ねて巻かれていく卵焼きは、まるでお寿司屋さんのカウンターで職人が焼く出汁巻き卵そのものだった。

「よし……」

湊が小さく呟き、焼き上がった黄金色の出汁巻き卵を、まな板の上にスッと滑らせる。包丁を垂直に当て、サクッ、サクッ、と均等な厚みに切り分けていく。断面から、じわりと透明な出汁が溢れ出しているのが遠目からでも分かった。

さらに湊は、コンロの横に置かれた小鍋の火を止め、お玉で汁をすくい上げた。味噌の豊かな香りがふわりとリビングを満たす。

そして、魚焼きグリルの扉が引き出された。中から現れたのは、程よく脂が乗り、皮目がパリッと黄金色に焼き上げられた鮭の切り身だった。ジジジ、と皮の表面で脂が弾ける微かな音が響いている。

湊は手際よくそれらを器に盛り付け、ローテーブルへと運び始めた。

その所作の滑らかさ、一切の無駄がない動きに、葵はただただ圧倒されるばかりだった。


「――あ」

最後の小鉢をテーブルに並べ終えた湊が、ふとベッドの方へと視線を向けた。

葵と目が合う。

その瞬間、先ほどまでの料理人のような凛々しい表情が一変した。

湊の切れ長の瞳がパッと見開かれ、花が咲くように柔らかく、愛らしさに満ちた笑顔がその顔いっぱいに広がったのだ。

「葵さん! おはようございます」

まるで、待ちに待った飼い主が目を覚ました瞬間の、大型犬のような輝かしい笑顔。

湊はエプロンの前で両手を軽く合わせ、小走りでベッドサイドへと歩み寄ってきた。

「起こしちゃいましたか? ごめんなさい、もう少し静かに作ろうと思ったんですけど……」

「あ……う、ううん! 全然! アラームよりずっと気持ちよく起きられたわ……」

葵はシーツを胸元まで引き上げながら、上目遣いに湊を見上げた。

近い。朝の澄んだ光の中で見る湊の顔は、昨夜の薄暗い部屋で見た時よりもさらに透明感があり、肌のキメの一つひとつまで透き通るように美しい。しかも、葵が普段使っているホワイトリリーの香りと、美味しそうな出汁の香りが混ざり合って、なんとも言えない甘美な空気を纏っていた。

「あの……お腹、空いてませんか? ちょうど朝ご飯ができたところなんです」

湊は屈託のない笑みを浮かべ、ローテーブルを振り返った。

「あ、さ……朝ご飯……?」

葵は促されるまま、ベッドから恐る恐る足を下ろし、ローテーブルへと近づいた。

そして、テーブルの上に並べられた料理の全貌を目にした瞬間、葵の口から「ひえっ」という情けない感嘆の声が漏れ出た。


「な、何これ……旅館の朝食……!?」

ローテーブルの上に広げられていたのは、コンビニ弁当やシリアルといった粗末なものでは断じてなかった。

完璧な、非の打ち所がない『極上の和定食』だった。


まず目を引いたのは、部屋の押し入れの奥底に何年も眠っていたはずの黒い一人用の土鍋だった。

蓋を開けると、ボワッと白い湯気とともに、甘く香ばしい米の香りが立ち上る。一粒ひと粒がピンと立ち、真珠のように艶やかに輝く炊き立ての白米。お米の輪郭がくっきりと際立っており、底の方にはほんのりと香ばしいおこげが見え隠れしている。

その隣には、先ほど焼き上がったばかりの出汁巻き卵。一切の焦げ目がない美しいレモンイエローの肌は、ぷるぷるとかすかに震えており、添えられた大根おろしには一滴の醤油が垂らされている。

焼き魚は、脂の乗った銀鮭の塩焼き。絶妙な火入れで皮はパリッと香ばしく、身はふっくらと焼き上がっており、箸を入れた瞬間にジューシーな脂が溢れ出すことが確約されているような佇まいだった。

椀に注がれた味噌汁からは、立ち上る湯気とともに合わせ味噌の芳醇な香りが漂っていた。中を覗けば、丁寧に角切りにされた絹ごし豆腐、たっぷりのワカメ、そして薄切りにされた大根と油揚げが入っており、中央には小口切りの青ネギが散らされている。

さらに、副菜として二つの小鉢まで用意されていた。

一つは、緑鮮やかなほうれん草の胡麻和え。すりたての白胡麻の香ばしい匂いが食欲をそそる。

もう一つは、細く均等に切り揃えられた人参と牛蒡のきんぴら。鷹の爪がピリッと効かせてあり、照りよく輝いている。

卓上には、ピカピカに磨かれた塗り箸と、温かい緑茶の入った湯呑みまでセットされていた。


「これ……湊くんが、全部作ったの……?」

葵は震える指先でテーブルを指差した。

「はい!」

湊はエプロンのポケットに手を入れ、誇らしげに胸を張った。

「葵さんの冷蔵庫を開けさせていただいたら、ほとんど調味料とお酒しか入っていなくて焦ったんですけど……冷凍庫の奥に賞味期限内の鮭と冷凍ご飯用のタッパーがあって、野菜室の底に手付かずのほうれん草と牛蒡と人参が眠っていたので、急いで下処理して救出しました。お米も戸棚に少しだけあったので、土鍋をお借りして炊いてみたんです。あ、出汁は昆布と鰹節があったので、ちゃんと一から引きましたよ」

「一から……出汁を引いたの……!?」

「はい。やっぱりお味噌汁と出汁巻き卵は、顆粒出汁じゃなくて一番出汁で作った方が香りが段違いですから。本当はもっと早く起きて、葵さんが起きるジャストの時間に焼き魚が仕上がるようにしたかったんですけど、キッチンの使い勝手を把握するのに少し手こずっちゃって……ぬるくなってないか心配です」

湊は少し眉尻を下げて、申し訳なさそうに言った。

葵は言葉を失った。

賞味期限を切らしそうになって放置していた野菜の数々。いつ買ったかも忘れていた冷凍の鮭。それらの『死にかけの食材』が、この青年の手にかかっただけで、高級料亭の朝食のような輝きを放っているのだ。

「あ、あのね、湊くん。私、顔も洗ってないし、パジャマだし、髪の毛もボサボサで……」

「気にしないでください。葵さんは起きたばっかりの姿もすごく綺麗ですから」

「っ……!」

湊は一切の衒(てら)いもなく、あまりにも自然にそんな殺し文句を口にした。本人は葵をからかっている様子など微塵もなく、心底からそう思っているような澄んだ瞳で見つめてくる。

「冷めないうちに、早く食べてください。お顔を洗うなら、洗面所に新しいタオルを出しておきましたよ」

「あ、ありがとう……すぐ戻るわ……!」

葵は心臓の爆発を防ぐために、逃げるように洗面所へ駆け込んだ。

鏡を見れば、昨夜のメイクを落としてすっぴんになった三十三歳の顔が映っている。目の下の隈は昨夜の睡眠で少しマシになっていたが、それでもとても十八歳の美少年に見せられるような代物ではない。けれど、洗面台の横には、綺麗に畳まれた葵のフェイスタオルがちょこんと置かれていた。

冷たい水で大急ぎで顔を洗い、髪を乱暴にゴムで一つに束ねる。

洗面所を出ると、湊がローテーブルの横に正座して、葵が座るのをじっと待っていた。エプロン姿のまま、膝の上に手を揃えて待つその姿は、やはり忠実なワンコそのものだった。


「お待たせ……。湊くんも、座って一緒に食べましょう」

「いえ、僕はご主人様が食べ終わってからで――」

「ダメ! 一緒に食べるの! これは命令!」

葵が少し強めの口調で言うと、湊は嬉しそうに目を細めて「はい、ご主人様」と素直に葵の対面に座った。もう『ご主人様』という呼び方を訂正する気力すら湧かなかった。

「じゃあ……いただきます」

葵は両手を合わせ、塗り箸を手に取った。

湊が期待と不安の入り混じった瞳で、じっと葵の手元を見つめている。まるでテストの採点を待つ生徒のような眼差しだ。

葵はまず、湯気を立てる味噌汁のお椀を持ち上げた。

ふわりと立ち上る出汁の香りに包まれながら、お椀に口をつけ、静かに汁をすする。


――ズズッ。


「…………っ!」

その瞬間、葵の全身の細胞が、歓喜の悲鳴を上げたような衝撃が走った。

美味しい。

美味しいなんて言葉では到底足りない。

舌の上に広がったのは、昆布の上品な甘みと、鰹節の力強いコク。それらを包み込む合わせ味噌のまろやかな塩梅。濃すぎず、薄すぎず、五臓六腑に染み渡るような完璧な味のバランスだった。具材の大根には出汁が芯まで染み込んでいて驚くほど柔らかく、油揚げのコクと豆腐の滑らかな舌触りが重なり合う。

温かい汁が食道を通って胃に落ちていく瞬間、日々の残業とストレスでガチガチに強張っていた内臓が、じわじわと解きほぐされていくのが分かった。

「……すごい。なにこれ、信じられないくらい美味しい……」

葵が思わず呟くと、湊の表情がパッと明るくなった。

「本当ですか!? 口に合いましたか?」

「合うどころじゃないわよ! 料亭の味よ、これ!」

葵は興奮気味に言うと、次に箸を出汁巻き卵へと伸ばした。

箸を差し入れた瞬間、指先に伝わってくるぷるぷるとした弾力。持ち上げると、ずっしりとした重みがある。口の中に放り込むと、噛むまでもなく、舌の上でふわっと卵がほどけた。

じゅわぁっ、と溢れ出す温かい出汁。

甘さはごく控えめで、出汁の旨味と卵の濃厚なコクが前面に押し出されている。焼き目のない完璧な火入れのおかげで、舌触りはどこまでも滑らかで、プリンのように柔らかい。添えられた大根おろしと一緒に食べると、さっぱりとした清涼感が加わり、いくらでも食べられそうだった。

「んん〜〜っ!」

あまりの美味しさに、葵は思わず眉間を寄せて悶絶した。

すかさず、土鍋の炊き立てご飯を茶碗によそい、口いっぱいに頬張る。

お米の一粒ひと粒にしっかりとした弾力があり、噛み締めるたびに自然な甘みが口いっぱいに広がる。出汁巻き卵の出汁と、米の甘みが合わさり、暴力的なまでの多幸感が脳内を満たしていく。

さらに、鮭の塩焼きに箸をつける。

パリッと音を立てて割れた香ばしい皮の下から、鮮やかなピンク色の身がほぐれる。程よい塩加減と、ジュワッと広がる鮭の脂。それがまた、白米の甘みを限界まで引き立てる。

ほうれん草の胡麻和えはシャキシャキとした食感が完璧に残っており、胡麻の風味が鼻を抜ける。きんぴら牛蒡は歯ごたえが心地よく、ピリッとした辛味が絶妙なアクセントになっている。

「美味しい……美味しいよ、湊くん……っ!」

葵は夢中で箸を動かした。

食べるという行為が、これほどまでに人間を幸福にするものだったなんて、いつ以来忘れていただろうか。

冷え切ったコンビニのおにぎりを、パソコンのモニターを見つめながら機械的に口に詰め込んでいた日々。栄養ドリンクで誤魔化し、夜中に胃薬を飲んでいた生活。

そんな荒涼とした自分の身体の中に、丁寧に作られた温かい料理が、命の篝火のように染み渡っていく。

胸の奥が熱くなり、葵の視界が不意に滲んだ。

「え……!? 葵さん、どうしたんですか!?」

湊が狼狽えて身を乗り出してきた。

「どこか痛いですか? 味付け、しょっぱすぎましたか……!?」

「ううん……違うの」

葵は慌てて手の甲で目元を拭い、照れくさそうに笑った。

「美味しくて……あったかくて、なんか……泣きそうになっちゃっただけ。私、こんなちゃんとした朝ご飯食べたの、何年ぶりか分からないわ」

葵の言葉を聞いた湊は、ほっと胸を撫で下ろした。

それから、湊はとても優しく、慈しむような眼差しで葵を見つめた。

その瞳の奥には、年下のあどけなさとは違う、葵という存在を丸ごと包み込もうとするような深い熱が宿っていた。

「葵さん、毎日すごく頑張ってるんですね」

湊の静かな声が、葵の胸にじんわりと染み込んでいく。

「お部屋の散らかり方や、冷蔵庫の中身を見て……葵さんがどれだけ外で戦って、自分を後回しにしてきたか、すごく伝わってきました。だから……少しでも葵さんの力になりたかったんです。美味しいって言ってもらえて、僕、本当に嬉しいです」

「湊くん……」

葵の胸が、ぎゅっと締め付けられた。

ただの三十三歳の疲れた女の生活を、この少年は否定するどころか、すべて肯定して受け止めてくれたのだ。

「だからね、葵さん」

湊はテーブルに少し身を乗り出し、葵の目をまっすぐに見つめた。

朝の光が湊の黒髪を縁取り、その圧倒的な美貌を神聖なまでに輝かせている。

エプロン姿のまま、湊は天使のように無邪気に、けれど有無を言わせない確信を込めて、甘く微笑んだ。


「これからは、僕が毎朝作りますね」


「――っ」

葵の息が止まった。

「葵さんが仕事に行く前に、ちゃんと美味しい朝ご飯を作って、元気に出かけられるようにします。夜も、温かいご飯を作って待ってますから。僕をずっと、葵さんのそばに置いてください」

その言葉は、約束の形をとった、甘やかな呪縛だった。

従順なワンコのように無邪気な笑顔の裏側に、決して葵をここから逃がさないという、底知れない執着の光が揺らめいている。

けれど、温かい味噌汁と出汁巻き卵で満たされた葵の身体は、その甘い毒を拒絶することがどうしてもできなかった。

(あぁ……ダメだ……)

葵は心の中で、完全に白旗を掲げていた。

胃袋を掴まれるとは、こういうことを言うのだろう。

こんな生活を知ってしまったら、もう元の冷たいコンビニ飯と荒れた部屋には戻れない。

三十三歳、大手デザイン会社の敏腕マネージャー藤堂葵の理性は、十八歳の美青年の出汁巻き卵によって、跡形もなく完膚なきまでに叩き潰されてしまったのだった。


「……おかわり、ある?」

葵が小さくお茶碗を差し出すと、湊は破顔した。

「はい! 土鍋にいっぱい炊いてありますから、いくらでも食べてください、ご主人様!」

満面の笑みでおかわりをよそいに立つ湊の後ろ姿を見つめながら、葵は自分の未来に猛烈な不安と、それを遥かに上回る甘やかな幸福感を抱かずにはいられなかった。

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