第17話:お弁当のメモと、昼下がりの誘い
五月の柔らかな日差しが、オフィスビルの最上階に近い二十階のリフレッシュラウンジを、淡い黄金色に染め上げていた。
全面ガラス張りのパノラマウィンドウの向こうには、整然と区画されたビジネス街の摩天楼と、初夏の乾いた風に揺れる街路樹の深い緑が広がっている。昼下がりの十二時半。ランチタイムの喧騒がフロアのあちこちで波のように引いていき、残された空間には、豆を挽くエスプレッソマシンの低い駆動音と、遠くの首都高速を走る車の微かなロードノイズだけが心地よく漂っていた。
藤堂葵は、フロアの最も奥まった、観葉植物の大きなモンステラに視界を遮られた窓際のカウンター席に腰を下ろしていた。
手元には、淡い若草色の風呂敷クロスで包まれた、細長い二段重ねの弁当箱。
布の結び目にそっと触れると、まだほんのりと、朝の台所の温もりが残っていた。
(……今朝は、置いてこなくて本当によかった)
葵は小さく息を漏らし、自嘲気味に口元を緩めた。
昨日の月曜日、薬指に落とされた口づけの生々しい熱に耐えかねて、葵は湊が早起きして作ってくれたお弁当を「打ち合わせがあるから」と嘘をついて家に置き去りにしてしまったのだ。
あの時の湊の顔を、葵は今でも鮮明に思い出すことができた。
玄関の上がり框に膝をつき、差し出した弁当包みを葵の手から引かれた瞬間、あの息を呑むほど整った美貌から、さぁっと血の気が引いていった光景。捨てられた大型犬のように眉尻を下げ、今にも泣き出しそうに震えていた漆黒の瞳。
『……葵さん、僕のご飯、嫌いになっちゃいましたか……?』
掠れた少年の声が胸を抉るように痛んで、葵は昨夜、定時退社を勝ち取って這うように家へと帰ったのだ。
そして、暗いリビングでポツンと膝を抱えていた湊に対し、何度も頭を下げて「本当に急な仕事だったの、ごめんなさい! 明日は絶対に持っていくから!」と平謝りした。
その結果が、今朝のあの凄まじい気合の入りようだった。
葵が目を覚ますよりも一時間以上前、まだ薄暗い午前五時からキッチンに立ち、葵の健康と疲労回復を徹底的に計算し尽くした献立を、湊は鼻歌交じりに仕込んでいたのだ。
『葵さん、昨日はお外のご飯だったから、きっと塩分が多めだったはずです。今日はカリウムが豊富なお野菜と、良質なタンパク質をたくさん摂れるようにしておきましたからね!』
誇らしげに胸を張り、眩いばかりの笑顔で弁当箱を手渡してきた湊。
その姿があまりにも健気で、そして愛らしくて、葵は今朝こそはと両手で大切に抱きしめるようにしてバッグへ収めて出社したのだった。
「……さて。今日のメニューは何かしら」
葵は指先で器用にクロスの結び目を解いた。
滑らかな手触りの上質な布を広げると、木目調のシックな曲げわっぱ風の二段弁当が現れる。
上段の蓋に指をかけ、静かに持ち上げた。
――ふわり。
立ち上ったのは、どこか懐かしく、そしてたまらなく食欲をそそる芳醇な香りだった。
甘辛い生姜醤油の香ばしさと、炭火で炙ったかのような鶏肉の香気。そこに、みりんの艶やかな甘みと、炒りごまの芳ばしさが重なり合ってくる。
「……わぁ」
葵の口から、思わず感嘆の吐息が零れ落ちた。
そこに広がっていたのは、まさに職人技と呼ぶにふさわしい、彩り豊かな小宇宙だった。
メインのおかずスペースを占領しているのは、黄金色の照りをまとった『鶏胸肉の生姜みりん焼き』だった。パサつきがちな胸肉のはずなのに、表面には薄く葛粉が打たれており、肉汁を閉じ込めたままぷるりとした艶を放っている。一口サイズに均等に切り揃えられ、断面から覗く白身は驚くほどしっとりと柔らかそうだ。
その隣には、鮮やかなレモンイエローが眩しい、湊の十八番である『出汁巻き卵』。焦げ目ひとつなく、幾重にも薄い層が巻き込まれ、冷めてもなお出汁を蓄えてふっくらと膨らんでいる。
隙間を埋める副菜の彩りも完璧だった。
スナップエンドウの鮮烈な黄緑色。
赤パプリカとインゲンの胡麻味噌和え。
丁寧に菊花の飾り切りが施されたラディッシュの甘酢漬け。
さらに、カボチャの面取り煮物が、ほっくりとした琥珀色で鎮座している。
下段の蓋を開ければ、ふっくらと炊き上げられた麦ご飯の上に、香ばしいちりめん山椒が散らされ、中央には種を抜いて食べやすく整えられた紀州南高梅の紫蘇漬けがちょこんと乗っていた。
栄養バランス、ビタミン、ミネラル、そして目を楽しませる色彩の黄金比率。
三十三歳の疲れた身体を癒やすためだけに、十八歳の少年が手間暇を惜しまずに注ぎ込んだ、純度百パーセントの献身の結晶。
(……本当に、あの子の手料理には敵わないわね)
葵は胸の奥を温かい波で満たされながら、箸箱に手を伸ばした。
――その時だった。
上段の蓋の内側、水滴防止のための透明なフィルムの端に、小さな長方形の紙片が貼り付けられているのが目に留まった。
「……ん? これ、何?」
葵は怪訝そうに眉を寄せ、その紙片を指先でそっと剥がし取った。
それは、淡い桜色の正方形の付箋だった。
そこには、万年筆のような滑らかなインクで、驚くほど達筆で整った文字が並んでいた。
丸文字でも、崩れた若者言葉でもない。育ちの良さを如実に物語る、凛とした美しい筆跡。
『葵さんへ
午前中のお仕事、お疲れ様でした。
午後からも無理しすぎないで、葵さんのペースで頑張ってくださいね。
……今日も、早く帰ってきてね。
葵さんの大好きなご飯を作って、玄関で待ってます。
湊』
「…………っ!」
葵の心臓が、跳ね馬のように大きく波打った。
ドクン、と熱い血が全身を駆け巡り、カッと耳の付け根が沸騰するように赤く染まる。
……早く帰ってきてね。
ただの二行のメッセージ。
それなのに、その言葉の端々から立ち上ってくるのは、紙の温度を超えた、あの少年の生々しい体温だった。
昨夜、すがりつくように葵の膝元に頭を預けてきた湊の感触。
あの朝、薬指に吸い付くように熱い唇を押し当て、『僕を捨てないでください』と泣きじゃくった、狂おしいまでの独占欲。
従順なワンコのように無邪気な顔の裏側で、葵の日常のすべてを自らの手料理と存在で塗り潰し、一秒たりとも他の世界へ逃がさないようにと手ぐすねを引いている――底知れない執着の重み。
(な……なんなのよ、もう……っ!)
葵は手の中の付箋を胸元に抱え込み、小さく身悶えした。
嬉しい。たまらなく愛しい。
けれど、それと同じくらい、背筋を甘い戦慄が駆け抜けていく。
三十三歳の大人の女が、十八歳の少年の手のひらの上で、これ以上ないほど綺麗に転がされている。
お弁当の蓋を開けただけで、胃袋だけでなく、心臓の鼓動のリズムまで完全にあの少年に支配されているという事実に、葵は眩暈に似た降伏感を覚えていた。
「――お。なんだそれ、すげぇ美味そうじゃん」
唐突に、頭上から降ってきた低く耳触りのいい声に、葵は「ひゃっ!?」と情けない悲鳴を上げて跳ね上がった。
慌てて付箋を手のひらの中に握り込み、弾かれたように顔を上げる。
そこには、淹れたてのアイスコーヒーの紙カップを手にした結城颯真が、面白そうに目を細めて立っていた。
「ゆ、結城くん……!? いつからそこにいたのよ!」
「ん? 『うわぁ』って感嘆の声を漏らしながら弁当箱開けて、顔を真っ赤にして付箋を拝んでたあたりから」
「全部見られてるじゃないの!!」
葵が真っ赤になって抗議すると、結城は悪びれる様子もなくカラカラと笑い、葵の隣のハイスツールを長い脚で引き寄せて腰を下ろした。
仕立てのいいチャコールグレーのスーツから、爽やかなシトラスとサンダルウッドの洗練された香水の香りがふわりと漂ってくる。大人の男特有の、計算された無駄のない所作。昨日、葵をスマートにエスコートしてくれた同期の顔がそこにあった。
「悪かったよ、驚かせるつもりはなかったんだ。ちょっとコーヒー買いに来たら、背中丸めて幸せそうにしてるお前が見えたからさ」
結城は長い指先でアイスコーヒーのストローを回し、それから葵の手元にある弁当箱へと涼やかな視線を落とした。
「……それにしても、すごいなそれ。プロの仕出し弁当かと思ったぞ。鶏肉の照り焼きに、出汁巻きに、飾り切りのラディッシュ……? おいおい、冷凍食品が一個も入ってないじゃないか」
「あ、ええと、これはその……」
「昨日、俺とランチ食った時は『今日はお弁当がない』って言ってたよな。昨日の夜、自分で作ったのか?」
「そ、そうよ! 自炊よ自炊! たまには料理くらいするわよ、三十三歳なんだから!」
葵は必死に胸を張り、取り繕おうとした。
だが、結城はニヤリと口の端を吊り上げ、葵がデスクの上に置き忘れていた『桜色の付箋』へと視線を走らせた。
――あ。
葵が血の気を引かせた時には、すでに遅かった。
結城の動体視力は、クリエイティブディレクターとして卓越していたのだ。紙片に刻まれた文字の並びを、結城の切れ長の瞳が一瞬で捉えていた。
「……へぇ」
結城の声のトーンが、わずかに低くなった。
「『今日も、早く帰ってきてね。葵さんの大好きなご飯を作って、玄関で待ってます』……か」
「み、見ないでよ!!」
葵は素早く手を伸ばし、付箋を鷲掴みにしてポケットの奥深くへと押し込んだ。顔から火が出るどころか、全身の毛穴から蒸気配が噴き出しそうだった。
結城は頬杖をつき、組んだ長い脚を揺らしながら、底意地の悪い、けれどどこか真剣な光を瞳の奥に宿して葵をじっと見つめてきた。
「自分で作った弁当に、自分で『早く帰ってきてね、湊』ってメモを入れる趣味でもあるのか? 藤堂」
「ぐっ……」
完璧なまでの論理的矛盾。逃げ場のない詰みの盤面。
葵は息を詰まらせ、手の中の割り箸をぎゅっと握りしめることしかできなかった。
「……愛妻弁当、かと思ったけど」
結城はアイスコーヒーに口をつけ、氷をカランと鳴らした。
「筆跡を見る限り、男の字だな。それも、相当しっかり教育を受けた奴の字だ。……湊、って誰だよ」
「だ、誰でもいいでしょ! 結城くんには関係ないじゃない!」
「関係大アリだろ。同期のトップマネージャーが、どこの馬の骨とも知れない男を家に囲い込んでるかもしれないんだからな」
「囲い込んでるだなんて人聞きの悪いこと言わないで!」
「じゃあ否定してみろよ。同居人がいるんだろ? 毎朝こんな手の込んだ弁当を作って、手書きのメモまで添えて、玄関で待ってる男が」
結城の言葉は、からかいの調子を帯びていた。
けれど、その視線は少しも笑っていなかった。
大人の男が、気になる女のテリトリーに見知らぬ男の影を嗅ぎつけた時の、鋭く研ぎ澄まされた警戒心。
葵はごくりと唾を飲み込んだ。
正直に言えるはずがない。
『雨の夜に行き倒れていた十八歳の家出少年を拾って、家事代行として同居させていたら、胃袋も心も奪われて毎朝愛妻弁当ならぬ愛夫弁当を持たされています』などと口が裂けても言えるわけがない。言った瞬間に、会社中の噂になるか、結城に警察へ突き出されるかの二択だ。
「……ただの、親戚の子よ」
葵は喉の奥から絞り出すように、苦しい嘘を紡いだ。
「地方から出てきて、次の住まいが決まるまで一時的に部屋に泊めてるの。家事を手伝ってくれてるだけ。変な関係じゃ絶対にないから」
「ふーん……親戚、ねぇ」
結城は全く信じていない様子で、細めた瞳で葵を観察し続けた。
「親戚の男の子が、三十路の従姉妹に対して『早く帰ってきてね』なんて甘えたメモ残すか? しかも、お前のその真っ赤になった顔。……とてもじゃないが、ただの居候を語る女の顔じゃないぞ」
「か、顔が赤いのはラウンジの日当たりが良いからよ!」
葵は誤魔化すように、割り箸を割って鶏肉の生姜みりん焼きを一口、口の中に放り込んだ。
――サクッ、じゅわり。
舌の上に広がったのは、計算し尽くされた極上の旨味だった。
冷めているはずなのに、鶏胸肉は信じられないほど柔らかく、噛むほどに生姜の爽やかな香りと甘辛いタレのコクが溢れ出してくる。葛粉の衣が肉汁を一滴も逃さず閉じ込めており、噛み締めるたびに幸福感が脳を痺れさせる。
すかさず出汁巻き卵を口へ運ぶ。
ジュワッと染み出す上品な一番出汁。控えめな甘みと、卵の濃厚なコク。
美味しい。
あまりにも美味しくて、胃の腑がじんわりと温まり、張り詰めていた神経が溶けていく。
どんなに取り繕おうとしても、葵の表情がふにゃりと緩んでしまうのを止めることができなかった。
「……ったく」
その様子を見ていた結城が、呆れたように、けれどどこか苦々しげに息を吐き出した。
「そんなに美味いのかよ、その湊くんの手料理は」
「……すごく、美味しいわよ。文句ある?」
「文句はないけど、嫉妬はするな」
「は……?」
葵が目を丸くして顔を上げると、結城は真剣な眼差しで葵の瞳を射抜いていた。
至近距離にある、三十代の大人の男の整った顔立ち。
結城はハイスツールの上で葵の方へと身体を傾け、長い腕をカウンターの上に置いた。葵のパーソナルスペースへと踏み込んでくる、静かな圧力。
「俺だって、お前がそんな顔して喜ぶなら、いくらでも美味い店に連れて行ってやるのにさ」
「結城、くん……?」
「昨日のパスタだって、美味そうに食ってただろ。……なぁ、藤堂」
結城の声が、ワントーン低く甘やかな響きを帯びた。
オフィスの喧騒から切り離されたラウンジの片隅で、ふたりだけの空気が急速に密度を増していく。
「今週末、土曜日。空けといてくれないか」
「え……土曜日?」
「ああ。秋からの大型案件、クライアントがターゲットにしてる層の最新トレンドをリサーチしておきたいんだ。先月オープンした湾岸エリアの複合商業施設、あそこの空間デザインとブランディングの動線設計、かなり尖ったことやってるらしくてさ。俺たちのチームと、お前のチームで合同視察に行こうって話、部長会でも通してある」
「あ……あの複合施設ね。確かに、一度現地を見ておく必要はあると思ってたけど……」
葵は仕事のスイッチが入り、手帳のスケジュールを思い浮かべた。
だが、結城の狙いはそれだけではなかった。
「視察自体は昼過ぎには終わる。……そのあと、夜は開けておけよ」
「え?」
「東京湾が一望できる、いいフレンチのレストランを押さえてあるんだ。テラス席から夜景が見えて、ワインも料理も最高らしいぞ」
結城はそう言って、ニヤリと悪戯っぽく笑ってみせた。
「仕事のリサーチにかこつけた、俺からの正式なお誘いだ。……お前の慰労会、昨日だけじゃ足りないだろ? あんな無茶な働き方して倒れかけたんだから、たまには大人の男にエスコートされて、美味い酒飲んで贅沢する週末があってもいいはずだ」
「…………っ」
葵の喉が、引き攣るように鳴った。
大人の男からの、完璧な誘い文句。
同年代で、仕事の実力も申し分なく、ルックスもスマートで、周囲からの人望も厚い同期のエースディレクター。
そんな男が、休日の昼から夜までの時間をすべて自分ひとりのために空け、夜景の見えるフレンチレストランを予約してエスコートしてくれると言うのだ。
三十三歳の独身女性として、これ以上のシチュエーションがあるだろうか。
もし一ヶ月前の、あの雨の夜の前の葵であれば、二つ返事で「行くわ!」と飛びついていたかもしれない。張り詰めた日常から解放され、洗練された大人の恋愛ごっこに身を委ねることは、激務に追われるアラサー女子にとって最高のカンフル剤のはずだった。
けれど。
(……土曜日)
葵の脳裏に真っ先に浮かんだのは、結城の言う夜景のフレンチレストランではなかった。
二〇五号室の、あの狭いワンルームだった。
淡いベージュのエプロンを身につけ、土鍋で炊いたご飯をよそいながら、『葵さん、おかえりなさい!』と満面の笑みで出迎えてくれる湊の姿。
熱い味噌汁。
ピカピカに磨かれた床。
そして――。
『葵さん、今日も頑張ってね。早く帰ってきてね』
ポケットの奥深くにしまい込んだ、あの桜色の付箋に刻まれた、切実で甘い文字。
もし、土曜日の夜まで外に出て、他の男とディナーを食べて帰ったら?
深夜、真っ暗な玄関で、冷たい瞳をして待ち構えていたあの夜の湊の姿が脳裏をよぎる。
『誰ですか、あの人』
『僕以外の男に、触らせないでください』
あの狂おしいまでの嫉妬の炎。
そして、朝の光の中で薬指に唇を押し当て、『僕を捨てないで』と泣きじゃくった、あの少年の底知れない重い愛。
(……ダメよ。あの子を、また一人で待たせるなんて……)
胸の奥が、ぎゅっと締め付けられるように軋んだ。
結城のスマートな誘いに心を動かされる自分と、湊の待つ部屋へ一秒でも早く帰りたいと渇望する自分。
ふたつの相反する感情が、葵の胸の中で激しく火花を散らしていた。
「……結城くん」
葵は伏せていた視線を上げ、できる限り平静を装いながら口を開いた。
「リサーチの件は、すごくありがたいわ。合同視察ならぜひ行きましょう。でも……夜のディナーは、遠慮させて。週末は、家でやることがあるから」
断りの言葉。
大人の関係に踏み込ませないための、精一杯の境界線。
だが、結城颯真という男は、その程度の牽制で引き下がるような柔な男ではなかった。
「家でやること? どうせ溜まった洗濯物片付けて、缶ビール飲みながら寝落ちするだけだろ」
「そ、そんなことないわよ!」
「だったらいいじゃん。たまには外で美味いもん食えって。……それとも何?」
結城はスツールから身を乗り出し、葵の顔を覗き込んできた。
その距離はわずか数十センチ。大人の男の鋭い視線が、葵の瞳の奥を逃さず射抜く。
「その『湊くん』とかいう居候が、お前の帰りを待ってるからダメなのか?」
「っ……!?」
図星を突かれ、葵の息が止まった。
結城はフッと唇を歪め、どこか挑発的な笑みを浮かべた。
「ますます興味が湧くな。お前をそこまで縛り付けてる男がどんな奴なのか。……仕事の合同リサーチだぞ? 正規の業務の一環だ。断る正当な理由、ないだろ」
「結城くん、それは職権乱用よ……!」
「マネージャー同士の親睦を深めるのも立派な業務だ。……土曜の十時、現地のメインゲート集合な。逃げるなよ、葵」
結城はそう言い残すと、紙カップをゴミ箱へと放り込み、葵の肩をポンと軽く叩いて立ち上がった。
スマートで、強引で、けれど決して不快感を与えない完璧な引き際。
颯爽とラウンジを去っていく結城の背中を見送りながら、葵はその場にへたり込むように息を吐き出した。
「……はぁぁぁぁぁぁぁ……っ」
静寂が戻ったラウンジで、葵は一人、ポケットの中の付箋を握りしめた。
指先に伝わる、紙の温もり。
外の世界で、大人の女性として自分を口説きにかかってくる、有能で洗練された同期の男。
そして、閉ざされた部屋の中で、エプロンをつけて完璧な手料理を作り、重すぎる執着愛で自分を縛り付けようとする、十八歳の少年。
昼下がりの穏やかな光の中で、葵の日常は、確実に、そして急速に、ふたつの男の熱量に挟み撃ちにされ始めていた。
冷めかけた出汁巻き卵を口に運びながら、葵の胸の奥で、週末に向けた嵐の予兆が、静かに、けれど激しく蠢いていたのだった。




