第18話:エントランスの鉢合わせ
灰色の鉛雲が、昼過ぎから急速に東京湾の水平線を覆い尽くしていた。
海からの湿った生温かい風が吹き抜け、真新しいガラス張りの複合商業施設のキャノピーをガタガタと小刻みに震わせている。
午後五時を回った頃には、初夏の清々しかった青空の面影はどこにもなく、視界全体が重苦しい薄墨色の帳に閉ざされようとしていた。
「――なるほどな。三階のテラスから続く吹き抜けの動線、あえて中央エスカレーターを迂回させることで、奥のコスメゾーンへの滞留時間を伸ばす設計か。視線誘導のグラフィックも、空間のトーン&マナーを壊さないギリギリの彩度で抑えてある。勉強になるな」
手元のタブレット端末にスタイラスペンで手際よくスケッチを走らせながら、結城颯真が感心したように息を吐き出した。
仕立てのいいチャコールグレーのサマージャケットの袖を無造作に捲り上げ、首元のボタンを外した白シャツ姿。休日出勤とは思えないほど隙のない洗練された佇まいは、行き交う買い物客の視線を幾度となく引きつけていた。
「ええ。単に回遊性を高めるだけじゃなくて、自然光と間接照明の切り替えポイントで、顧客の購買意欲を刺激する心理的アプローチが徹底されてるわ。秋からのうちの大型商業施設のコンペでも、この動線設計のデータは大きな武器になるはずよ」
葵もまた、手に持ったメモ帳から顔を上げ、手応えを感じて小さく頷いた。
午前十時に現地に集合してから、およそ七時間。
葵と結城は、オープンしたばかりの湾岸の巨大複合施設を端から端まで歩き回り、建築設計、内装デザイン、サイン計画、店舗ごとのブランディング戦略を徹底的にリサーチしていた。
仕事における結城颯真は、文句のつけようがないほど優秀なパートナーだった。
葵が気付かない視覚的な死角を的確に指摘し、クライアントが喜びそうな数値化されたデータをその場でまとめ上げる。デザインの思想やビジネスとしての採算性について、対等に、かつ高度な次元で議論を交わすことができる唯一無二の同期。
仕事に没頭している間だけは、葵の胸の奥を苛んでいたあの息苦しい葛藤も、しばし忘れることができていた。
――そう、あの激しい雷鳴が轟くまでは。
ゴロゴロ、と腹の底に響くような重低音が天蓋を揺らした。
施設内のガラス天井に、突如として激しい水滴の弾ける音が叩きつけられた。
「……え?」
葵が顔を上げた瞬間、まるでバケツの底をひっくり返したかのような凄まじい豪雨が、窓ガラスの向こうの景色を一瞬で白く塗り潰した。
ゲリラ豪雨だった。
天気予報では「夜遅くに所によりにわか雨」と言っていたはずなのに、梅雨の先触れのような強烈な雨雲が、湾岸の海風に乗って急速に発達してしまったらしい。
「うわ、降ってきたな。こりゃ酷いスコールだ」
結城がスマートフォンを取り出し、気象レーダーの画面を覗き込んで眉をひそめた。
「赤と紫の雨雲が直撃してる。しばらく止みそうにないな……電車も海沿いの路線は見合わせが出始めてるぞ」
「嘘……」
葵の心臓が、トクンと嫌な音を立てて跳ね上がった。
電車の運転見合わせ。
その単語を聞いた瞬間、葵の脳裏に真っ先に浮かび上がったのは、二〇五号室の小さな部屋だった。
(……帰らなきゃ)
朝、家を出る時の湊の姿がフラッシュバックする。
土曜日だというのに仕事に出かける葵のために、湊は完璧な朝食を作ってくれた。そして、葵が靴を履く際、愛おしそうにコートの裾を整えながら、すがるような漆黒の瞳で見つめてきたのだ。
『葵さん、夕方には終わりますか? 今夜は、葵さんの大好きな牛すじの味噌煮込みを作って待ってますから。……絶対に、寄り道しないで帰ってきてくださいね』
あの切実な声。
平日の夜、他の男の車で送られて帰った葵を、真っ暗な玄関で待ち構えていた時の、あの冷たく研ぎ澄まされた刃物のような視線。
もし、今夜も遅くなったら。
もし、この雨のせいで帰宅が大幅に遅れてしまったら――あの子は、あの暗い部屋で、どれほど恐ろしい絶望と嫉妬に心を狂わせるだろうか。
「……結城くん、ごめん! 今日の視察、ここまでで上がらせてもらってもいいかしら? 電車が完全に止まる前に、駅へ向かいたいから」
葵は早口で言い、バッグのストラップを肩に掛け直した。
小走りで出口へと向かおうとする葵の腕を、結城の細く乾いた手がサッと引き留めた。
「待てよ、藤堂。駅まで歩くだけでずぶ濡れになるぞ。傘だって持ってないだろ」
「折りたたみ傘を持ってるから平気よ!」
「あの頼りない傘じゃ、この風雨は防げない。スーツも靴も一発でダメになる」
結城は至極もっともな正論を口にし、葵の焦燥を和らげるように穏やかに微笑んだ。
「地下の駐車場に俺の車が停めてある。送っていくよ」
「えっ、でも……結城くんの家と私の家、全然方角が違うじゃない! わざわざ遠回りさせるわけには――」
「同期の女を嵐の中に放り出せるわけないだろ。それに、元々ディナーに誘ってたんだ。メシを奢る約束がお流れになったんだから、せめてタクシー代わりくらい務めさせろよ」
結城はそう言うと、葵の返答を待つことなく「ほら、行くぞ」と葵の背中を軽く押し、地下駐車場へと続くエレベーターのボタンを押した。
大人の男の、完璧で淀みのない気遣い。
これ以上頑なに拒絶すれば、かえって「何かやましい事情がある」と勘繰られてしまう。
葵は唇を噛み締め、結城の後に従うしかなかった。
***
地下駐車場から地上へ這い出た結城の愛車――深みのあるミッドナイトブルーのドイツ製高級セダンは、雨水に濡れた湾岸道路を滑るように走り出した。
車内は、外界の凄まじい嵐が嘘のように静まり返っていた。
重厚なドアが遮音する静寂。微かに香るレザーシートの芳香と、結城のつけているサンダルウッドの上品なコロンが、密閉された空間に溶け合っている。
フロントガラスを激しく叩きつける雨粒を、ワイパーが規則正しいリズムで拭い去っていく。
助手席に深く身体を沈めながら、葵はバッグの中のスマートフォンをぎゅっと握りしめていた。
画面を点灯させても、何の通知もない。
湊には連絡手段がない。電話も、メッセージアプリも通じない。
ただ、あの子は部屋の中で、時計の針の音だけを聞きながら葵の帰りを待っているのだ。
(……早く、着いて……)
祈るような葵の心中を察してか、運転席の結城がハンドルを切りながら、チラリと横顔を覗き込んできた。
「……そんなに焦って、どこへ帰りたいんだ?」
結城の声は低く、車内のスピーカーから流れる静かなボサノバの調べに紛れるように響いた。
「え……?」
「さっきからずっと、膝の上のバッグを握りしめてる。信号待ちで止まるたびに、時計ばかり気にしてるしな」
結城の涼やかな瞳が、バックミラー越しに葵の動揺を射抜く。
「そんなに早く帰って、その『親戚の子』とやらにご飯を作ってもらいたいのか?」
「結城くん、からかわないで……」
「からかってないさ。ただ、不思議なだけだ」
結城は前方のテールランプを見据えながら、淡々と言葉を紡いだ。
「俺の知ってる藤堂葵は、もっと仕事中毒で、自分の生活なんて二の次で、週末のリサーチの後は美味い酒を飲んでくだを巻くような奴だったはずだ。……それが、ここ最近のお前は、どこか遠くを見つめてるみたいだ。誰かに心を奪われて、一秒でも早くその場所へ帰りたがってる」
「そんなこと……」
「あるだろ。男の勘を舐めるなよ」
結城は苦笑交じりにハンドルを握り直した。
その横顔には、いつもオフィスで見せる軽やかな大人の余裕の裏側に、押し殺した真剣な熱が滲んでいた。
「正直、悔しいよ。新人の頃からお前を見てきた。誰にも頼らず、一人で牙を剥いて戦ってきたお前を、俺はずっとリスペクトしてきたし……いつか、お前が誰かに寄りかかるなら、その相手は俺でありたいと思ってた」
「結城、くん……」
葵の喉が詰まる。
三十代の対等な男からの、真っ直ぐすぎる言葉。
長年共に戦ってきた戦友からの、偽りのない求愛。
それは、葵のようなキャリアを重ねてきた女にとって、この上なく名誉で、安心できる未来の提示だった。結城と手を取り合えば、仕事も生活も、すべてが順風満帆に回っていくことは火を見るより明らかだった。
けれど。
結城の言葉が葵の胸に届くたびに、葵の脳裏を支配するのは、全く別の体温だった。
雨の夜、ずぶ濡れで行き倒れていた、身寄りのない少年。
拙い手つきでエプロンを締め、葵の胃袋を満たしてくれた温かい料理。
そして――あの朝、薬指に吸い付くように落とされた熱い唇と、『僕を捨てないで』と泣きじゃくった、あの狂おしいまでの重い執着。
結城のスマートな優しさに触れれば触れるほど、葵の身体の奥底は、あの少年の逃げ場のない甘い毒を、痛いほどに欲してしまっていた。
(……ごめんなさい、結城くん)
葵は心の中で小さく頭を下げ、濡れる車窓の向こうの闇を見つめた。
もう、自分は戻れないのだ。
あの十八歳の美少年に胃袋も心も飼い慣らされ、その重い愛の鎖に繋がれることに、至上の快感を覚えてしまっているのだから。
車は幹線道路を抜け、葵の住む住宅街の路地へと入っていった。
外の雨脚は依然として激しく、アスファルトを叩きつける雨粒が白い水煙を上げている。
やがて、見慣れたマンションの外観が視界に入った。
二階の角部屋――二〇五号室。
ベランダの窓からは、カーテンの隙間を縫って、優しいオレンジ色の明かりがしっかりと灯っていた。
(……待ってる)
あの子が、部屋の中で待っている。
その光を見た瞬間、葵の胸の奥からホッと安堵の吐息が零れ出た。
「着いたぞ」
結城はマンションのエントランスポーチの真横、雨を避けられる屋根のない車寄せにハザードランプを点滅させて車を滑り込ませた。
カチ、カチ、と規則正しいウインカーの点滅音が車内に響く。
「結城くん、本当にありがとう。こんな嵐の中、わざわざここまで送ってもらっちゃって……」
「いいよ。お前が無事に帰れたなら、送った甲斐があった。……はい、これ使えよ」
結城は後部座席から、大きな黒いゴルフ傘を手に取り、葵に差し出そうとした。
「あ、でも、結城くんの傘がなくなっちゃう――」
「車からエントランスまで数メートルあるだろ。走ったら濡れる。俺が差してやるから、動くな」
結城はそう言うと、運転席のドアを開け、素早く傘を広げて外へと出た。
激しい雨音と冷気が一瞬にして車内へと流れ込む。
結城は車の前を回り込み、助手席のドアを外側から恭しく開けてくれた。
「ほら、足元気をつけて」
差し出された結城の大きな傘。
葵は「ありがとう」と呟きながら、シートから腰を浮かせ、雨のカーテンの下へと一歩足を踏み出した。
結城の傘の下に入り込む。
肩が触れ合うほどの至近距離。大人の男の体温と、雨に濡れたスーツの匂いが葵の鼻腔をかすめる。
「濡れてないか?」
結城が葵の肩にそっと手を添え、自分の傘の中央へと引き寄せた。
紳士的なエスコート。
葵がペコリと頭を下げ、「大丈夫、ありがとう」と微笑みかけた――まさにその瞬間だった。
――バシャッ、と激しく水たまりを蹴散らす足音が、豪雨の音を切り裂いて響いた。
「……え?」
葵が息を呑んで顔を上げた。
マンションのエントランスの自動ドアが勢いよく開き、薄暗いポーチの奥から、ひとつの影が弾かれたように飛び出してきたのだ。
深いネイビーの大きな傘。
その傘を斜めに構え、濡れるアスファルトをものともせずに駆け寄ってきたのは――。
「……湊、くん……!?」
葵の唇から、掠れた声が零れ落ちた。
九条湊だった。
白のシンプルな長袖カットソーに、黒の細身のパンツ。
傘を差しているというのに、風雨の激しさのせいで、その漆黒の前髪は濡れて額に無造作に張り付いていた。
息を切らし、胸元を激しく上下させながら、湊は車寄せの前でピタリと足を止めた。
そして――。
結城の傘の下で、肩を寄せ合って立っている葵と結城の姿を視界に収めた瞬間。
湊の表情が、凍りついた。
「…………っ」
時間が、止まったかのようだった。
激しい雨の音だけが、三人の周囲を白いノイズのように包み込んでいる。
ハザードランプのオレンジ色の点滅が、雨粒を弾く湊の白い肌を、陰影深く照らし出していた。
息を呑むほどの美貌。
雨に濡れたその姿は、まるで神話の彫刻のように冷たく、研ぎ澄まされていた。
けれど、その切れ長の漆黒の瞳の奥底に宿っていたのは、神聖さなどでは断じてなかった。
――深淵の闇。
氷点下の冷徹さと、それを瞬時に焼き尽くすほどの狂暴なまでの憎悪と独占欲の炎が、ドロリとした熱を帯びて燃え盛っていたのだ。
「……へぇ」
沈黙を破ったのは、葵の隣に立つ結城だった。
結城は傘の柄を握り直すと、片眉をわずかに持ち上げ、目の前に現れた美青年の全身を、頭の先から足の先まで品定めするようにゆっくりと見下ろした。
「君が……例の『親戚の子』か」
大人の男の、余裕を崩さない声。
けれど、結城の瞳の中にも、ただの若者ではない異様なオーラを放つ湊に対する、鋭い警戒心の色が灯っていた。
三十代の洗練された男と、十八歳の圧倒的な美貌を持つ少年。
土砂降りの雨の中で、二人の男の視線が、火花を散らすように真っ向から激突した。
結城は葵の肩に添えていた手にわずかに力を込め、引き寄せるようにしながら、柔らかく微笑んでみせた。
「わざわざ傘を持って迎えに来てくれたのか。感心だな。でも、心配いらないよ。俺が車でちゃんと送り届けたから。……藤堂の上司兼同期の、結城だ」
大人としての立場、社会人としての優位性、そして何より「今夜、葵の時間を独占していたのは自分だ」という無言のマウント。
結城のスマートな牽制は、完璧だった。
普通の十八歳の少年であれば、その気迫と大人の余裕に気圧され、たじろいで頭を下げるのが関の山だろう。
けれど。
九条湊という生き物は、最初から普通の少年などではなかった。
「…………」
湊は、結城の自己紹介に対して、会釈ひとつ返さなかった。
返答すらしない。
湊の漆黒の双眸は、結城の顔を一瞬だけ、まるで路傍の小石を見るかのような冷ややかな侮蔑を込めて一瞥しただけだった。
そして、その視線は瞬時に、結城の手が置かれている葵の肩へと滑り落ちた。
ピクリ、と湊の顎の筋肉が引き締まる。
その瞬間、湊の全身から立ち上った殺気配は、背筋が凍りつくほどに鋭く、重かった。
「……葵さん」
低く、掠れた、けれど耳の奥を直接震わせるような重低音が、雨音を切り裂いて葵に届いた。
湊は結城の存在などまるで視界に入っていないかのように、ただひたすらに葵の瞳だけを射抜いていた。
「おかえりなさい」
「み、湊くん、どうして外に……」
「雨がすごかったから」
湊はそう言いながら、一歩、アスファルトを踏みしめて前へ進み出た。
水たまりが跳ねる。
湊は結城の傘の縁を自らの大きな傘で押し上げるようにして割り込むと、躊躇うことなく、その長い腕を伸ばした。
――グイッ。
「あっ……!」
葵の口から、小さな悲鳴が漏れた。
湊の骨張った大きな手のひらが、葵の右腕の手首を、万力のような力で掴み取ったのだ。
そして、一切の躊躇もなく、強引に自らの胸元へと引き寄せた。
結城の肩から、葵の身体が引き剥がされる。
葵の身体はふわりと宙を浮き、そのまま湊の差すネイビーの傘の中へと、すっぽりと抱え込まれるように引きずり込まれた。
ドサッ、と葵の額が湊の胸板に激突する。
雨水を含んだ冷たい夜風の匂いと、葵が買い与えた柔軟剤の香り、そして湊自身の熱い体温が、一瞬にして葵の五感を包み込んだ。
「おっと……おい、君!」
結城の声が、初めて焦燥を帯びて尖った。
傘の下で空振りを喫した結城の手が、宙を泳ぐ。
「いきなり何を乱暴なことしてるんだ。危ないだろ」
結城が眉を吊り上げ、一歩踏み出そうとした。
だが、湊は葵の肩をその長い腕ですっぽりと抱きすくめたまま、ゆっくりと結城の方へと振り返った。
その瞬間、結城の足がピタリと止まった。
湊の顔には、もはや一欠片の人間味も残っていなかった。
白い陶器のような肌。雨露に濡れた漆黒の前髪の隙間から覗く瞳は、凍りつくような零度の殺気を孕んで結城を睨みつけていた。
十八歳の少年のものとは到底思えない、絶対的な捕食者の威圧感。
名門・九条家の血筋が持つ、他者を平伏させるための冷徹な支配者の気配が、剥き出しになって空気を圧迫していた。
「……送っていただいて、ありがとうございました」
湊の唇から零れ出たのは、礼儀正しいはずの、けれど一切の感情を削ぎ落とした氷の言葉だった。
「ですが、ここからは僕の役目です。葵さんは、僕が部屋まで連れて行きますから」
「君ねぇ……」
結城が苦々しげに息を吐き、葵を見つめた。
「藤堂。本当に大丈夫か? その子、ずいぶん気が立ってるみたいだけど……」
「え……あ、うん! 大丈夫、大丈夫だから!」
葵はパニックになりながら、湊の腕の中で必死に声を張り上げた。
このまま二人が衝突したら、どんな大惨事になるか分かったものではない。
「結城くん、本当に今日はありがとう! 車、気をつけて運転してね! 月曜日にオフィスで!」
「……葵」
結城は名残惜しそうに、そして何かを警戒するように湊を凝視していたが、葵の必死の懇願を前にして、それ以上踏み込むことを諦めたようだった。
「……分かった。風邪引くなよ」
結城はそう言い残すと、傘を傾けて運転席へと戻っていった。
重厚なドアがバフンと閉まり、セダンのヘッドライトが雨のカーテンを切り裂きながら、ゆっくりと夜の闇の中へと走り去っていく。
テールランプの赤い光が消え去り、エントランスの前には、激しい雨の音と、ふたりだけの荒い呼吸だけが残された。
湊の傘の下。
葵の肩を抱きしめる湊の腕は、未だに解かれる気配はなかった。
それどころか、骨がきしむほどの強い力で、葵の身体を自らの胸板へとさらに深く押し付け、逃げ場を完全に奪っていた。
「……湊、くん……痛い……腕、痛いよ……」
葵が震える声で訴えると、頭上から降ってきたのは、低く、濁り、狂おしい熱を孕んだ呼気だった。
「……誰ですか、あの男」
傘の柄を握る湊の指先が、白くなるほど強く軋んでいた。
「僕が待ってるって言ったのに……僕のご飯があるって言ったのに……どうして、他の男の車で帰ってくるんですか」
耳元で囁かれたその声は、泣き出しそうなほど切実で、そして息が止まるほど恐ろしかった。
傘を叩く凄まじい雨音の中で、葵の日常を縛る甘い鎖が、今夜、取り返しのつかない強さで締め上げられようとしていた。




