第14話:一晩中の献身と、触れ合う指先
深い、底なしの暗闇の中を、どこまでも落下していくような感覚だった。
四肢は熱せられた鉛のように重たく、呼吸を繰り返すたびに灼熱の砂が気管へと流れ込んでくる。意識の淵で、断片的な映像が走馬灯のように浮かんでは弾け飛んだ。
無機質なオフィスの蛍光灯。積み上げられた修正指示書の山。冷笑を浮かべる役員たちの視線。
『藤堂マネージャー、あとは任せたよ』
『葵さん、これ今日中ですよね?』
『大丈夫ですから、私が全部やりますから――』
笑っていた。ずっと、笑っていた。三十三歳の自分は有能で、完璧で、決して弱音など吐かない人間でなければならないと、自らに呪いをかけ続けていた。誰かに寄りかかれば、その瞬間にこれまでの十数年が瓦解してしまう。だから、どれほど身体が悲鳴を上げようとも、平気な顔をしてハイヒールを鳴らし続けてきたのだ。
それなのに。
――ガチャン、と何かが割れるような音がして、身体を支えていた最後の細い糸が千切れた。
冷たい床へと落ちていく恐怖の直前、葵の記憶に焼き付いていたのは、自分を呼ぶ悲痛な叫び声だった。
『葵さんっ!?』
自分を抱きとめた、驚くほど強くて温かい腕。
取り乱し、泣きそうになりながら葵の名を呼び続ける、あの低く澄んだ声の主――。
「……あ……っ、……ぅ……」
喉の奥から掠れた呻き声が漏れ出た。
葵がわずかにまぶたを震わせると、視界を塞いでいた暗闇がゆっくりと薄れ、ぼんやりとした間接照明の琥珀色の光が瞳に染み込んできた。
そこは、見慣れた自分の寝室だった。
背中には柔らかなマットレスの感触。身体には羽毛布団がふんわりと掛けられている。
けれど、身体の内側から吹き出す熱気は、依然として猛威を振るっていた。額が燃えるように熱い。頭蓋骨の内側を直接金槌で叩かれているような激痛が続き、全身の関節がギチギチと軋みを上げている。
「……ん……っ」
身じろぎをしようとした瞬間、額の上にひんやりとした瑞々しい冷たさが乗せられた。
「葵さん……! 気がつきましたか!?」
耳元に飛び込んできたのは、切迫した、けれどどこまでも優しい声だった。
葵が重たい首をわずかに傾けると、ベッドサイドに膝をつき、必死の形相で自分を覗き込んでいる湊の姿が視界に飛び込んできた。
端正な顔立ちは青ざめ、漆黒の瞳は涙で潤んでいる。さらりとした黒髪は乱れ、額には細かい汗がびっしりと浮き出ていた。
「み……湊、くん……?」
「喋らないでください。喉、すごく痛いでしょう」
湊はそう制止すると、枕元に置かれていた水銀体温計ではなく、最新の非接触型体温計を葵の額から離した。液晶画面に浮かび上がっていた数字は『39.4℃』。目にしただけで眩暈がするような高熱だった。
「三十九度四分……。ずっとこんな熱で、あんな無茶なプレゼンをこなして……どうしてそこまで我慢しちゃったんですか……」
湊の声は悔しさに震えていた。自分自身を責め苛むような、痛ましい響き。
「僕が……僕がくだらない嫉妬で葵さんを怒らせて、夜更かしさせて……僕のせいです。僕が葵さんを追い詰めたんだ……っ」
「ちが……う……湊くんの、せいじゃ……」
否定しようと唇を動かすが、掠れた空気しか出てこない。熱気で肺胞がカラカラに乾き、息を吸い込むだけで咳き込みそうになる。
「いいから、無理に話さないでください。まずは熱を下げないと」
湊はすばやく立ち上がると、洗面器に張られた氷水から固く絞った濡れタオルを引き上げた。葵の額に貼られていた冷却シートを優しく剥がすと、その冷たいタオルで、熱を持った葵のこめかみや耳の後ろ、そして首筋を、驚くほど繊細な手つきで丁寧に拭い始めた。
「……っ、冷た……」
「ごめんなさい、ちょっと冷たいですよね。でも、太い血管を冷やさないと熱がこもっちゃうから」
湊の手は、迷いがなかった。
冷たいタオルの感触が、火照りきった皮膚の表面の熱を吸い取っていく。首筋を滑るタオルの冷涼感に、葵は小さく息を吐き出した。
さらに湊は、冷蔵庫で冷やしておいた予備の冷却ジェルシートを取り出すと、葵の額へそっと貼り直してくれた。ピト、と吸い付くような冷涼感が額を包み込む。
「枕、変えますね。少し頭を上げてください」
湊は葵の頭の下にそっと大きな手を滑り込ませ、まるで壊れやすい硝子細工を持ち上げるように慎重に後頭部を支えた。そして、今までの枕を抜き取り、タオルで包んだ冷凍ジェルの氷枕を差し入れる。
後頭部から首筋にかけて、ジンジンと心地よい冷気が染み渡り、脳髄を締め付けていた激痛がほんのわずかに和らいだ。
「葵さん、服を着替えましょう」
タオルの処置を終えた湊が、真剣な眼差しで葵を見下ろしながら告げた。
「え……?」
「ものすごい汗をかいてます。このまま濡れた服を着ていたら、汗が冷えてもっと体温を奪われちゃいますから」
言われて初めて、葵は自分の身体の惨状に気がついた。
オフィスに着て行ったネイビーのジャケットはすでに脱がされていたが、中に着ていた白いとろみブラウスは、吹き出した冷や汗を吸って肌にべっとりと張り付いていた。インナーのキャミソールまでぐっしょりと濡れており、胸元から背中にかけて、不快な湿気と冷気が絡みついている。
着替えなければならないのは明白だった。
けれど、三十三歳の女が、十八歳の少年の前で服を脱ぐ――その事実に、混濁した頭の中に羞恥心がチリチリと火花を散らした。
「じ、自分で……着替える、から……」
葵はシーツを胸元まで引き上げ、震える手で起き上がろうとした。
だが、肘に力を入れた瞬間、四肢の感覚がすっぽりと抜け落ち、葵の身体は無様にシーツへと沈み直した。
「無理です。動かないでください」
湊の声は厳しかったが、その瞳には深い慈愛と気遣いが満ちていた。
「着替えは、クローゼットから一番肌触りのいいコットンのパジャマを出してきました。下着も……引き出しの一番手前にあった清潔なやつを取ってあります」
「っ……!?」
下着、という単語に葵の頬がさらに熱を帯びた。
「み、見ないで……恥ずかしい……」
「見ません。絶対に、変な目で見たりしません」
湊は静かに首を横に振った。その顔には、先日の妖艶な笑みや雄の気配は微塵もなく、ただただ葵の健康を祈る医療従事者のような純粋な誠意だけが宿っていた。
「葵さんの身体を守るためです。僕に任せてください。……目を瞑っていていいですから」
葵は抗う気力を失い、ぎゅっと固く目を閉じた。
シーツがカサリと擦れる音がして、湊の温かな手が葵のブラウスの合わせ目へと伸びてくる。
湊の指先は、細心の注意を払っていた。
葵の皮膚に直接指が触れないよう、布地の端をつまみながら、胸元のボタンをひとつ、またひとつと丁寧に外していく。
外気に触れた胸元が、スーッと冷たい空気に晒される。
湊はすかさず、温かいお湯で濡らして固く絞った別の蒸しタオルを手に取った。
「失礼します……汗、拭きますね」
蒸気を含んだ温かいタオルが、葵の鎖骨のあたりから首筋、そして胸元へと優しく押し当てられた。
汗のベタつきを拭い去るタオルの感触。熱を持ちながらも冷え切っていた皮膚が、じんわりとした適度な温もりによって清められていく。
湊は葵の身体を起こすことなく、背中にそっと腕を回して上半身をわずかに浮かせると、背中の汗までも手早く、けれど隅々まで丁寧に拭き取ってくれた。
そして、冷たい空気に肌が触れる時間を最小限にするため、用意されていた清潔な長袖のコットンパジャマを、素早く葵の腕に通していく。
柔らかく、洗い立ての柔軟剤の香りがする乾いた生地が、葵の肌を包み込んだ。
ボタンが一番上まで留められ、濡れていたキャミソールとブラウスはベッドの脇の脱衣カゴへと片付けられた。
「……葵さん、ズボンも履き替えますね。少し腰を浮かせられますか?」
「……ん……」
葵が微かに力を入れると、湊は手際よく濡れたスラックスを脱がせ、乾いたパジャマのズボンを足元から引き上げてくれた。その間も、湊は終始視線を葵の顔から外さず、決して無遠慮に肌を凝視するようなことはしなかった。
最後に、汗を吸って湿っていた掛け布団のシーツの上に、乾いた大判のバスタオルを手早く敷き詰め、葵の身体をすっぽりと包み直す。
「……ふぅ……」
葵の口から、深い安堵のため息が漏れた。
汗の不快感が一掃され、乾いた清潔な布に包まれた心地よさ。
着替えを終えた湊の額からは、大粒の汗がポタポタと滴り落ちていた。他人の身体を、それも大人の女性を抱え上げながら着替えさせるという作業が、どれほどの重労働であったかが窺えた。
「……ありがとう、湊くん……」
葵が掠れた声で礼を告げると、湊はふっと安堵したように眉尻を下げて微笑んだ。
「お礼なんていいんです。少しはさっぱりしましたか?」
「うん……すごく、楽になった……」
「よかったです。……でも、まだ終わりじゃないですよ。脱水症状を起こしたら大変ですから、少しだけでも水分と栄養を摂ってください」
湊は一度寝室を出ると、数分後に小さな木製のトレイを持って戻ってきた。
トレイの上には、ストローの刺さった常温のスポーツドリンクのグラスと、小ぶりな陶器のスープボウルが乗せられていた。
ボウルからは、白く柔らかな湯気とともに、何とも言えず食欲をそそる芳醇な香りが立ち上っていた。
生姜の爽やかな辛味。
昆布と干し椎茸の上品な出汁の香り。
そして、ごくわずかに効かせたごま油とネギの香ばしさ。
「葵さん、少しだけ起き上がれますか? 背中、支えますから」
湊はベッドの縁に腰を下ろすと、葵の背中にそっと腕を回し、自分の胸元に葵の上半身をもたれかけさせるようにして抱き起こした。
ずっしりとした湊の胸板の厚みと、力強い腕のホールド感。
葵の頭が、自然と湊の肩口へと預けられる。
至近距離から伝わってくる湊の清潔な体温が、熱で朦朧とする葵の身体をしっかりと支えてくれた。
「まず、お水一口飲みましょう。ストロー、くわえられますか?」
湊が差し出してきたストローに唇を寄せると、冷たすぎないスポーツドリンクが乾ききった喉を潤していった。カラカラだった食道に染み渡る水分のありがたさに、葵は小さく息を継ぐ。
「えらいです。……次は、これ食べてみてください」
湊がスプーンを持ち上げた。
スープボウルの中に入っていたのは、透き通った黄金色のスープだった。
「鶏ささみと生姜の葛餡スープです。葵さんの喉がすごく腫れてたから、刺激が少なくて、つるんと喉を通るように本葛でとろみをつけてあります。細かく刻んだ大根と人参、卵白を流し込んで、出汁でじっくり煮込みました。消化にすごくいいですし、身体の芯から温まりますよ」
「湊くんが……作ってくれたの……?」
「はい。葵さんが倒れてから、急いで出汁を引いて作りました。……ほら、あーんしてください」
湊はスプーンですくい上げたスープを、ふうふうと自分の息で丁寧に冷まし、適温になったことを確かめてから、葵の唇の前へと運んできた。
十八歳の少年に「あーん」をされる三十三歳。
平常時であれば悶絶するほど恥ずかしいシチュエーションのはずだった。けれど、今の葵にはそれを拒絶する気力も、恥じらう余裕も残されていなかった。
促されるまま、葵はおずおずと口を開いた。
滑り込んできた銀のスプーン。
――じゅわり。
温かいとろみが、舌の上で優しくほどけた。
「……っ!」
葵の瞳が、微かに潤んだ。
美味しい。
喉が焼けるように痛んでいたはずなのに、滑らかな葛のとろみが粘膜を優しくコーティングし、一切の引っ掛かりもなく喉の奥へと滑り落ちていく。
鶏ささみの淡白な旨味と、昆布出汁の深いコク。生姜のピリッとした香りはごく控えめで、代わりに卵白のふわふわとした口当たりと、極小のサイコロ状に煮込まれた大根の自然な甘みが口いっぱいに広がった。
塩分は控えめなのに、出汁の輪郭がしっかりとしているため、熱で鈍った味覚にもはっきりとその豊かな味が届く。
「……美味しい……すごく、優しい味……」
「本当ですか? よかった……!」
湊の顔に、心からの安堵が広がった。
「もう一口、いけますか?」
「うん……」
二口目、三口目。
湊は急かすことなく、葵がゆっくりと飲み込むペースに合わせて、スプーンに一杯ずつスープを運んでくれた。
その都度、熱くないか息を吹きかけ、葵の唇の端にスープが零れそうになると、親指の腹でそっと優しく拭い去ってくれる。
温かい滋養が胃の腑へと落ちていくたびに、寒気に震えていた身体の奥底に、ポッと小さな温もり火が灯っていくのが分かった。
半分ほど食べたところで、葵の満腹中枢が限界を告げた。
「……湊くん、ごめん……もう、お腹いっぱい……」
「ううん、半分も食べられたら上出来です! よく頑張りましたね、葵さん」
湊は葵の頭を、まるで幼い子どもを褒めるように、大きな手のひらでふわりと撫でた。
その手つきがあまりにも慈愛に満ちていて、葵の目頭がツンと痛む。
湊は葵の身体をゆっくりとベッドへ横たえ直すと、羽毛布団を首元まで引き上げてくれた。
「汗をかいたら、また熱が下がりますからね。今夜は僕がずっとそばについてますから、何も心配しないで、ぐっすり眠ってください」
「湊くんも……寝て……明日の朝、大変でしょう……?」
「僕のことはいいんです。葵さんが元気になるまで、一秒も離れませんから」
湊はそう言って、サイドテーブルの明かりを極限まで絞った。
部屋が柔らかな薄暗がりに包まれる。
薬と温かいスープの効果が現れ始めたのか、葵の身体からじんわりと再び汗が滲み出し、鉛のように重たい睡魔が意識を覆い尽くしていった。
「……おやすみなさい、葵さん」
遠ざかる意識の向こうで、湊の囁く声が聞こえた。
葵は心地よい温もりに身を任せ、今度こそ底なしの深い眠りの中へと沈んでいった。
***
カチ、カチ、カチ――。
静まり返った部屋の中に、壁掛け時計の秒針が時を刻む微かな音だけが響いていた。
外は依然として、しとしとと静かな夜の雨が降り続いているようだった。時折、窓ガラスをかすかに揺らす風の音が、世界の広大さと、この部屋の親密な隔離感を際立たせていた。
「……ん……」
葵が再び意識を覚醒させたのは、午前四時を回った頃だった。
熱に浮かされていた時のあの息苦しさは、嘘のように引いていた。
頭の奥を締め付けていた激痛は遠のき、呼吸は驚くほど軽やかだった。額に手を当ててみると、皮膚の表面はまだ微熱を帯びているものの、あの灼熱のような熱さは完全に抜け落ちていた。
大量の寝汗をかいた爽快感。
パジャマの内側はサラサラとしており、どうやら眠っている間にも、湊が何度か汗を拭き、冷却シートを取り替えてくれていたらしいことが察せられた。
(……私、生きてる……)
葵は小さく息を吐き出し、ベッドの中で微かに身じろぎをした。
体調が劇的に回復していることを実感しながら、葵はふと、自分の右手に奇妙な『重み』と『熱』があることに気がついた。
動かそうとした指先が、何かに優しく、けれどしっかりと拘束されている。
「……え?」
葵は薄暗がりの中で、そっと視線を右手の先へと落とした。
そこにあった光景に、葵は思わず息を呑んだ。
ベッドサイドのフローリングの上。
薄い絨毯の上に正座したまま、上半身を葵のベッドの端へと折り曲げるようにして――湊が、眠りこけていたのだ。
椅子を持ってくることもせず、毛布を被ることもせず、ただ葵の顔のすぐ横に寄り添うようにして、床の上に突っ伏している。
そして。
湊の両手は、葵の右手を包み込むようにして握りしめられていた。
まるで、神仏に祈りを捧げる巡礼者のように。
葵の細い手を、自分の大きな両の手のひらでサンドイッチのように挟み込み、そのまま自分の頬へとぎゅっと押し当てるような格好で、湊は規則正しい寝息を立てていた。
「……湊、くん……」
葵の唇から、音にならない囁きが零れ落ちた。
起こしてしまわないよう、葵は息を殺し、じっとその寝顔を見つめた。
間接照明のわずかな光が、湊の無防備な顔立ちを柔らかく照らし出していた。
いつも葵を翻弄するあの切れ長の漆黒の瞳は、今は深い眠りの中で固く閉じられている。光を透かすほどに長い睫毛が、白い頬の上に濃い影を落としていた。すっきりと通った高い鼻梁。少し開いた薄い唇からは、スー、スー、と静かで無垢な呼吸が漏れ聞こえている。
起きている時の、あの圧倒的な美貌や、大人の男顔負けの冷徹な色気は、そこには微塵もなかった。
目の下にうっすらと浮かぶ疲労の影。
徹夜で看病を続け、葵の熱が下がるのを見届けた瞬間に、張り詰めていた緊張の糸が切れて力尽きてしまったのだろう。
床に正座したまま眠るその姿は、痛々しいほどに健気で、そしてどこまでも幼かった。
(……十八歳、なのよね)
改めて、その現実が葵の胸に染み渡っていく。
普段は完璧な家事をこなし、葵を甘やかし、時には強引に迫って葵の心を掻き乱すけれど――こうして眠っている姿は、紛れもなく高校を卒業したばかりの、守られるべき一人の少年に過ぎないのだ。
それなのに。
この少年は、一晩中、一睡もせずに葵のために尽くしてくれた。
冷えピタを替え、氷枕を換え、服を着替えさせ、汗を拭き、スープを作り、スプーンで口元へ運んでくれた。
誰にも頼れず、一人で歯を食いしばって生きてきた三十三歳の女のすべてを、その細い肩で、丸ごと受け止めてくれたのだ。
葵の胸の奥が、ぎゅっと締め付けられた。
痛いほどに、切なく、温かい感情が溢れ出して止まらない。
家族ですら、これほどまでに無条件の献身を葵に注いでくれたことはなかった。
職場では常に「頼られる側」であり続けた。部下のミスを庇い、上司の機嫌を取り、誰かの盾になることばかりを求められてきた。自分が倒れても、代わりの誰かが業務を引き継ぐだけだと思っていた。自分が弱音を吐くことなど、許されないと思っていた。
けれど、この子は違った。
藤堂葵という人間がどれほどボロボロで、みっともなくて、弱り果てていても――決して見捨てることなく、必死になってその手を握りしめ続けてくれた。
葵の右手を包み込む、湊の両手。
骨張っていて、大きくて、葵の手よりもずっとたくましい男の手。
その手のひらから、ドクン、ドクン、と力強い脈拍が葵の皮膚へと直接伝わってくる。
温かかった。
まるで、凍えそうな冬の夜に灯された、小さな焚き火のような温もり。
湊の手のひらの熱が、葵の指先から腕を通り、心臓の奥底へとじんわりと広がっていく。
葵は、繋がれた手を引くことができなかった。
指先をほんの少しでも動かせば、この浅い眠りの中にいる少年を起こしてしまうかもしれない。
それ以上に――この温もりから、自分から離れたくなかった。
葵は左手をそっと伸ばした。
シーツを滑らせ、音を立てないように、慎重に。
そして、床で眠る湊の、さらりとした黒髪へと指先を触れさせた。
柔らかい絹糸のような感触。
葵は指の腹で、湊の前髪をそっと払ってやった。
汗の引いた湊の白い額が現れる。熱はない。ただ、葵を看病し続けた疲労だけがそこに刻まれていた。
「……ありがとう、湊くん」
誰にも聞こえないほどの声で、葵は呟いた。
「ごめんね……私、こんなダメな大人で……」
その時。
葵の指先が髪に触れた微かな振動を感じ取ったのか、湊の眉がピクリと動いた。
「……ん……」
湊が小さく身じろぎをし、葵の手を挟み込んでいた両手に、さらにキュッと無意識の力が込められた。
葵の手を自分の胸元へと引き寄せるようにして、頬をすり寄せてくる。
まるで、夢の中でも葵がどこかへ行ってしまわないように、必死で繋ぎ止めようとするかのように。
その切実な寝相に、葵の目頭から、ツッと一筋の涙が零れ落ちた。
触れ合う指先。
重なり合う手のひらの熱。
外の雨音と、ふたりの重なり合う呼吸の音だけが満たす静寂の中で、葵は悟っていた。
もう、後戻りはできない。
十八歳と三十三歳という年齢の壁。保護者と保護対象という言い訳。
そんな脆い防波堤など、この一晩の圧倒的な献身と愛の前には、何の意味も成さないということを。
藤堂葵の頑なだった心は、この眠れる少年の手のひらの中で、完全に、跡形もなく溶かされ尽くしてしまっていたのだった。




