第13話:限界突破。張り詰めた糸が切れた夜
目覚ましのアラームが鳴るよりもずっと前、午前五時過ぎの薄暗がりの中で、葵は重たい瞼を押し上げた。
呼吸をするだけで、胸の奥がきしむように痛い。喉の粘膜は砂漠のようにからからに渇ききっており、唾液を飲み込むだけで鋭いガラスの破片を飲み下すような痛撃が走った。
「……っ、痛……」
かすれた声が、乾いたシーツに吸い込まれて消える。
二日酔い、と片付けるにはあまりにも身体の芯が熱かった。後頭部の奥底を鈍器で小刻みに殴打され続けているような拍動性の頭痛。四肢の関節という関節には、まるで濡れた重い砂袋を括り付けられたかのような鉛色の倦怠感が絡みついている。
前夜の光景が、熱を持った脳裏に生々しく蘇った。
深夜二時過ぎの、暗闇に沈んだ玄関。
冷え切ったタイルの上に素足で立ち尽くしていた湊の、凍りつくような眼差し。
『誰ですか、あの人』
『僕以外の男に、触らせないでください』
耳朶を直接震わせた、低く濁った掠れ声。
あの男らしすぎる威圧感と、首筋に残された熱い呼気の感触。ブラウスのボタンに伸びてきた指先の震え。
結局のところ、昨夜は泥酔した葵の千鳥足と、湊の剥き出しの嫉妬とが限界まで衝突した末、葵がその場に座り込んで「お願いだから許して……」と泣き言を漏らしたことで、湊がふっと我に返ったように手を引いたのだった。
そこから先は、記憶が曖昧だった。
湊は何も言わずに葵を寝室まで運び、コートを脱がせ、冷たいミネラルウォーターを枕元に置いて部屋を出て行った。
あの子が何を考え、どんな表情で眠りについたのか、葵には計り知れなかった。
(……気まずい、なんてレベルじゃないわ)
額に手のひらを当てると、皮膚が異様な熱を帯びているのが分かった。微熱どころではない。おそらく三十八度近くまで上がっているのではないかという自覚があった。
だが、休むという選択肢は葵の頭の引き出しには存在しなかった。
今日から、秋口に向けた最重要プロジェクト――国内屈指のコスメブランド『エテルナ』のフルリブランディング案件が、いよいよクライアント側の上層部チェックに入る日だった。葵が担当マネージャーとして、デザイナーのスケジュール、予算配分、外部プロダクションへの発注状況をすべて統括し、何十ページにも及ぶ最終資料をクライアントの宣伝本部長へ直接プレゼンしなければならないのだ。
(私が穴を開けたら、ヤマダや相原くんが血反吐を吐くことになる。進行管理が倒れるなんて、絶対に許されない)
葵は歯を食いしばり、ベッドから這い出た。
床に足をついた瞬間、グラリと視界が歪んだ。壁に手をついて必死に身体を支える。
洗面所へ向かい、鏡を覗き込んだ。そこに映っていたのは、頬の毛細血管が浮き出て異様に紅潮し、対照的に唇の血色が抜けて青ざめた三十三歳の女の顔だった。目の下の隈は濃く、光を失った瞳が虚ろに揺れている。
引き出しから解熱鎮痛剤のシートを取り出し、銀色のアルミを破って二錠の白い粒を手のひらに落とす。冷たい水道水とともに一気に胃の中へ流し込んだ。
「……よし。大丈夫。動ける」
自分に呪文をかけるように呟き、ファンデーションを厚めに塗りたくって顔色の悪さを塗り潰す。髪をひっつめ、首元の詰まったネイビーのジャケットを羽織る。昨夜のような失態を繰り返さないよう、隙のない鎧を身に纏うのだ。
リビングのドアを開けた時、葵は思わず息を止めた。
部屋の中には、すでに香ばしい香りが漂っていた。
キッチンには、グレーのカットソーにエプロンをつけた湊が立っていた。
朝の柔らかな光を浴びながら、湊はお玉で小鍋の中身をかき混ぜている。さらりとした黒髪が額に落ち、端正な横顔は彫刻のように美しい。
葵の足音に気づいた湊が、ゆっくりと振り返った。
「…………葵さん」
その声には、昨夜の凍りつくような冷徹さも、狂気的な独占欲のトゲもなかった。
けれど、いつもの「おかえりなさい!」と駆け寄ってくる大型犬のような無邪気さも、そこにはなかった。
湊の切れ長の瞳には、深い後悔と、葵を気遣う痛々しいほどの不安が渦巻いていた。
「おはようございます。……お酒、残ってませんか?」
「おはよう、湊くん。……ううん、大丈夫よ。お水たくさん飲んだから」
葵は努めて普段通りの、冷静なキャリアウーマンの声を装った。声が掠れてしまわないよう、喉の奥に力を込める。
「あの……昨日は、ごめんなさい」
湊がおずおずと視線を伏せ、エプロンの端をぎゅっと握りしめた。
「僕、取り乱して……ひどいこと言って、葵さんを怖がらせました。本当に……ごめんなさい」
消え入りそうな謝罪の言葉。
その背中が、まるで叱られるのを待つ子どものように小さく縮こまっているのを見て、葵の胸がきゅっと痛んだ。
十八歳の少年に、深夜まで待ちぼうけを食らわせたのは自分なのだ。他の男に送られて帰ってきた姿を見せれば、いくら同居人とはいえ動揺するのは当たり前だ。
「いいのよ、湊くん。私の方こそ、遅くなるならちゃんと連絡するべきだったわ。心配かけてごめんね」
「葵さん……」
「さ、朝ご飯いただくわね。時間があまりないから、急がなくちゃ」
葵がローテーブルに向かうと、そこにはすでに湯気を立てる食卓が整えられていた。
生姜とネギがたっぷり入った鶏肉の出汁雑炊。小鉢には、葵の胃腸を労るためにすりおろされた長芋と、ほうれん草のお浸し。
一口すすると、生姜のピリッとした刺激と、鶏ガラの上品なコクが喉を優しく滑り落ちていった。
美味しい。五臓六腑に染み渡る。
けれど、熱のせいで味覚が麻痺しかけている葵の舌には、いつもの半分ほどの輪郭しか感じ取れなかった。喉の痛みをごまかしながら、無理やりスプーンを動かして半分ほどを胃に流し込む。
「……ごちそうさま。すごく美味しかったわ」
「えっ、葵さん、もういいんですか? 半分以上残ってますけど……」
「ちょっと今朝は胃が小さくなってるみたい。ごめんね。今日、大事なプレゼンがあるから、もう出社しなきゃ」
葵は立ち上がり、バッグを掴んだ。
湊は心配そうに葵の顔をじっと見つめていた。その鋭い観察眼から逃れるように、葵はサッと視線を逸らし、足早に玄関へと向かった。
玄関のたたきには、今朝もピカピカに磨き上げられた黒のパンプスが揃えられていた。
靴を履き、ドアノブに手をかける。
「葵さん」
背後から呼び止められ、葵は振り返った。
湊が、上がり框の上に膝をついて葵を見上げていた。その瞳には、隠しきれない焦燥が浮かんでいた。
「……今日、本当に大丈夫ですか? 顔色、あんまり良くないです」
「大丈夫よ。気合で乗り切るわ。……行ってきます」
「……はい。いってらっしゃい」
重い扉を閉めた瞬間、葵は壁に額を押し当て、小さく喘いだ。
薬が効き始めているはずなのに、身体の熱は一向に引く気配を見せない。むしろ、心臓がトクトクと速い鐘を乱打し、足元がフワフワと浮き上がるような感覚が増していく。
それでも、葵は歯を食いしばり、駅へと向かうアスファルトを歩き出した。
***
だが、その日のスタジオ・アークは、葵の体調など一顧だにしない過酷な現実を用意していた。
午前九時十五分。
オフィスに足を踏み入れた瞬間、フロアの空気が異様な殺気に満ちていることに葵は気づいた。
「藤堂マネージャー! 良かった、出社されたんですね!」
駆け寄ってきたのは、チームの若手デザイナーのミホだった。その顔は真っ青で、手には何十枚もの修正指示書が握りしめられていた。
「どうしたの、ミホちゃん。何があったの?」
「『エテルナ』の宣伝部から、朝イチで緊急連絡が入ったんです! 先方の役員会で突然方針変更があって……キービジュアルのモデル選定と、パッケージデザインのカラーパレットを、すべて全面刷新しろって……!」
「……は?」
葵の脳髄を、氷の杭が貫いたような衝撃が走った。
「全面刷新……? だって、あの企画は二ヶ月前から先方の役員会を通して、先週最終フィックスが出たはずでしょう!?」
「そうなんですけど、先方の競合他社が昨日、似たようなトーンの広告を打ち出したらしくて! 役員が『二番煎じに見えるから全部作り直せ』って激怒してるらしくて……今日の午後四時からの役員プレゼンまでに、新しいデザインの方向性を最低三パターン用意しろって言われてるんです!」
「午後四時……!? あと六時間しかないじゃない!」
オフィスの中では、すでにディレクター陣が怒号を交わしながら激しい議論を繰り広げていた。
「無茶苦茶だ! 六時間でモデル選定からやり直せるわけないだろ!」
「印刷用のダミーパッケージはどうするんだよ! 色校正すら間に合わないぞ!」
パニックに陥る現場。チーム全体が今にも空中分解しそうな危機的状況。
葵の頭の中で、ズキズキとした激痛が激しさを増した。目の前がチカチカと白く明滅する。
(倒れちゃダメ。今、私がパニックになったら、このプロジェクトは本当に死ぬ)
葵は両手で自分の頬を思い切り叩いた。バチン、と乾いた音がフロアに響き、周囲のスタッフが一瞬静まり返る。
「全員、一旦作業の手を止めて!」
葵はフロアの中央に立ち、通る声で指示を飛ばした。
「混乱しても時間は一分も増えないわ! まず優先順位を整理する。ミホちゃんは過去のストックフォトから、別トーンのモデル候補を三十枚ピックアップして。相原くん!」
「はい!」
昨夜の気まずさを微塵も感じさせない俊敏さで、相原がデスクから立ち上がった。その眼鏡の奥の瞳は真剣そのものだった。
「相原くんはパッケージのカラーパレットを暖色系、寒色系、モノトーンの三方向で至急モックアップを作成。三時間で仕上げて。私が先方の宣伝部長と直接交渉して、プレゼンの構成を新しいコンセプトに書き換えるわ!」
「了解です!」
「動いて! 大丈夫、私たちがこれまで積み上げてきた検証データがあれば、絶対に間に合わせられる!」
そこからの六時間は、まさに地獄の狂騒曲だった。
葵は受話器を耳に挟み、激昂するクライアントの宣伝部長に対して、冷静かつ丁重に頭を下げ続けながら、相手の真の要望を探り当てていった。
「部長、お怒りはごもっともです。競合との差別化は至上命題ですから。私どもの方で、役員の方々が確実に納得される全く新しいアプローチの資料を、午後四時ジャストにお手元にお届けします。はい、必ずお約束します」
受話器を置いた瞬間、胃液が喉元まで逆流しそうになり、葵はデスクの下で口元を押さえた。
冷や汗が止まらない。背中を冷たい汗が滝のように流れ落ち、ジャケットの内側がじっとりと湿っていく。手足の先は氷のように冷たいのに、顔面だけが火照って赤熱している。
正午過ぎ、デスクに置かれたペットボトルの水を飲もうとしたが、手の震えが止まらず、キャップを開けることすらおぼつかない。
「……藤堂さん、顔色ヤバいですよ」
資料を抱えて駆け寄ってきた相原が、眉をひそめて葵の顔を覗き込んだ。
「熱あるんじゃないですか? 手が震えてますよ。プレゼン、僕が代わりに行きましょうか?」
「大丈夫よ、相原くん」
葵は無理やり口角を持ち上げ、相原から資料を受け取った。
「これは私の案件よ。私が説明しなきゃ、先方の役員は納得しないわ。相原くんのデザイン、すごくいい。これなら戦える。ありがとう」
「葵さん……」
相原の心配そうな視線を振り切り、葵は午後三時半、タクシーに乗り込んでクライアントの本社ビルへと向かった。
午後四時から始まった役員プレゼンテーションは、針の筵のような時間だった。
巨大なガラス張りの大会議室。長テーブルの向こう側に居並ぶ、白髪交じりの役員たち。
葵はプロジェクターの光の前に立ち、レーザーポインターを握りしめた。
立っているだけで、膝がガクガクと震えていた。プロジェクターのファンの回転音が、頭の中で巨大な爆音のように反響する。スライドを映し出す液晶スクリーンの文字が二重にブレて見え、自分が何を喋っているのかすら意識が遠のきそうになる。
(倒れるな。ここで倒れたら、チームの全員の努力が水の泡になる。立って、喋りなさい、藤堂葵!)
三十三年間、誰にも頼らず、一人でキャリアを築いてきた意地だけが、葵の肉体を支えていた。
声が震えそうになるのを奥歯で噛み殺し、堂々とした態度で新しいデザインコンセプトの正当性を説き明かしていく。
「競合他社が『日常の延長』を謳うのであれば、我が社が提供すべきは『非日常の覚醒』です。この深いボルドーとゴールドの配色は、ターゲット層の自己肯定感を最も高める設計となっております」
淀みのないプレゼンテーション。完璧な論理武装。
一時間後。
中央に座る専務取締役が、深く腕を組み、ゆっくりと頷いた。
「……なるほど。短時間でよくぞここまで練り上げてくれた。この方向性で行こう。藤堂マネージャー、見事な仕事だ」
「……ありがとうございます」
深々と頭を下げた瞬間、葵の視界が真っ暗になりかけた。会議室の重厚な絨毯が、底なしの沼のように葵の足元を引きずり込もうとする。
それでも葵は壁に手をつくこともなく、完璧な笑顔を保ったまま、会議室を退出した。
クライアントのビルを出たのは、午後六時を過ぎていた。
ビジネス街の空は、鉛色の重たい雨雲に覆われ、初夏の夕暮れ特有の生温かい風が吹き抜けていた。
オフィスに戻り、成功を喜ぶ部下たちに「みんな本当にお疲れ様! 大勝利よ!」と笑顔で労いの言葉をかけ、追加の事務処理を指示する。
誰一人として、葵が限界を迎えていることに気づく者はいなかった。
なぜなら、藤堂葵はいつだって完璧で、いつだってタフで、いつだって頼れる上司でなければならなかったからだ。
弱音を吐けば、誰かに寄りかかれば、自分がこれまで築き上げてきた全てが崩壊してしまう――そんな強迫観念が、葵の心を何重もの鉄の鎖で縛り付けていた。
残務処理を終え、最後のメールを送信した時、オフィスの時計は午後十一時を回っていた。
「……お先に、失礼します……」
誰もいないフロアに向かって小さく呟き、葵は重い足取りでオフィスを後にした。
***
終電の車内は、冷房が効きすぎていて、葵の震える身体を容赦なく痛めつけた。
吊革に掴まる握力すら残っておらず、ドアの横の金属の手すりに体重のすべてを預ける。
ガタゴトと揺れる電車の振動が、そのまま頭蓋骨の内側に響いて激痛を呼ぶ。
息が苦しい。吸い込む空気が熱く、肺が焼けるようだ。
(……早く、帰らなきゃ)
混濁していく意識の中で、葵の脳裏に浮かんでいたのは、あの二〇五号室の光景だった。
温かいお風呂。
ピカピカに磨かれた部屋。
そして――。
『葵さん、お仕事、無理しすぎないでくださいね』
朝の光の中で、エプロンをつけて自分を見つめていた湊の、心配そうな漆黒の瞳。
あの子が待っている。
あの部屋に帰れば、誰かが自分を迎えてくれる。
その思いだけが、切れかけの電球のように明滅する葵の意識を、辛うじてこの世界に繋ぎ止めていた。
最寄りの駅に辿り着いた時、夜空からはポツポツと冷たい雨が降り始めていた。
傘を差す気力すら湧かなかった。
バッグを胸元に抱え込み、葵は濡れるアスファルトを千鳥足で進んだ。
一歩踏み出すたびに、膝がガクリと折れそうになる。街灯の光が滲み、世界全体が水槽の底のようにゆらゆらと歪んで見える。
寒い。寒くて歯の根が合わないほどガタガタと震えているのに、皮膚の表面は燃えるように熱い。
息を吸うたびに、ヒューヒューと喉からかすれた音が漏れる。
「……あと、少し……」
角を曲がり、見慣れたマンションの外観が視界に入った。
二階の窓。
カーテンの隙間から、優しいオレンジ色の光が漏れていた。
明かりが、灯っている。
待っていてくれている。あの子が、今夜も部屋の中で待っていてくれている。
その光を見た瞬間、葵の心の中でピンと張り詰めていた最後の一本の細い糸が、プツンと、音を立てて千切れた。
エントランスのオートロックを、震える指先でどうやって開けたのか、葵には記憶がなかった。
エレベーターに乗り込み、二階で降り、内廊下の壁に肩を擦り付けながら進む。
二〇五号室のドアの前。
鍵穴に鍵を差し込もうとするが、手が震えて何度も金属のドアを引っ掻いてしまう。
カチャリ、とようやく鍵が回り、葵はドアノブを押し下げた。
ギィ……とドアが開いた。
その瞬間、玄関の向こうから、ふわりと温かい空気と、生姜と出汁の優しい香りが流れ込んできた。
そして。
「葵さん!」
小走りで駆け寄ってくる、聞き慣れた足音。
淡いベージュのエプロンをつけた湊が、満面の、けれど安堵に胸を撫で下ろしたような表情で玄関の廊下に現れた。
「遅かったから、すごく心配して……」
湊の言葉は、そこまでだった。
葵の視界が、突如として激しく回転した。
上下の感覚が完全に消失する。天井の白い壁が横に倒れ、床が猛スピードで迫ってくるような、凄まじい遠心力。
「あ……」
声にならなかった。
膝の関節から完全に力が抜け、葵の身体が、前触れもなく床に向かって崩れ落ちた。
手から重いトートバッグが滑り落ち、ドサリと鈍い音を立ててたたきに激突する。
支えを失った葵の細い身体が、コンクリートの冷たい床へとダイブするように倒れ込んでいく。
「――葵さんっ!?」
空気を切り裂くような、絶叫が響いた。
床に激突する寸前――。
強烈な風の気配とともに、葵の身体は、硬いコンクリートではなく、驚くほど温かく、力強い腕の中に受け止められていた。
ドサッ、と激しい衣擦れの音が響く。
湊だった。
上がり框から飛び降りるようにして身を投げ出した湊が、滑り込みながら両腕を伸ばし、葵の身体を間一髪のところで抱きとめたのだ。
葵の頭が、湊の胸板へと勢いよく埋まる。
「っ……あ、おい、さん……!?」
湊の荒い息遣いが、葵の頭上から降ってくる。
湊の身体は、葵を受け止めた衝撃で床に膝を強打していたが、そんな痛みに構う様子など微塵もなかった。
湊の腕が、葵の背中と腰を、骨がきしむほどの強さで抱きしめていた。逃がさないように、二度と落とさないように。
「葵さん!? しっかりしてください! 葵さん!!」
耳元で叫ばれる湊の声。
けれど、その声は葵の混濁した意識の膜を通り抜けるたびに、水中で聞く音のようにくぐもって遠のいていった。
葵はピクリとも動けなかった。
まぶたを持ち上げることすらできない。ただ、湊の胸元に頬を預けたまま、浅く、苦しげな熱い息を吐き出すことしかできない。
葵の額に、湊の大きな手のひらが触れた。
「……っ!?」
湊が、息を呑む気配がした。
手のひらを通して伝わってきたのは、尋常ではない熱量だった。
「熱い……! 嘘だろ、何これ……火傷しそうなほど熱いじゃないですか……!」
湊の声が、激しく震えていた。
先日の冷徹な独占欲も、計算高いあざとさも、大人の男としての余裕も、すべてが吹き飛んでいた。
そこにあったのは、ただひたすらに、自分の腕の中でぐったりと力なく崩れ落ちた最愛の存在に対する、底知れない恐怖と焦燥のパニックだった。
「葵さん、目を開けてください! 僕が分かりますか!? 葵さん!!」
湊の手が葵の青ざめた頬を包み込み、必死に呼びかける。
けれど、葵の唇からは、かすかな掠れた呻き声しか漏れなかった。
「……み……な……と……」
「はい! 湊です! ここにいます、葵さん!」
「……ごめ……ん……ね……」
それだけを呟いて、葵の首がコテンと力を失い、湊の腕の中で完全にぐったりと垂れ下がった。
瞳の光が途絶え、葵の意識は深い闇の底へと沈み込んでいった。
「葵さん……っ! 葵さんッ!!」
湊の悲痛な叫びが、玄関の空間に木霊する。
湊は青ざめた顔で葵の身体を抱き直した。
三十三歳の大人の女の身体は、湊の長身からすれば驚くほど軽かった。無駄な脂肪のない華奢な骨格。こんな細い身体で、どれほどのプレッシャーと激務を一人で背負い込んできたのか。
どれほど強がり、どれほど限界を超えて踏ん張り続けてきたのか。
湊の瞳から、大粒の涙がポロポロと零れ落ち、葵の熱い頬の上にポタポタと落ちていく。
「どうして……どうして言ってくれなかったんですか……! 僕が……僕がくだらない嫉妬なんかで葵さんを追い詰めたから……!」
自分を責める悔恨の言葉が、湊の唇から絞り出される。
だが、湊はすぐに涙を手の甲で乱暴に拭い去った。
泣いている場合ではない。
今、この人を救えるのは、この世で自分一人しかいないのだ。
湊は葵の膝の裏に腕を滑り込ませ、迷うことなく、一気にその身体を抱き上げた。
お姫様抱っこの格好で、葵の脱力した身体が宙に浮く。
「葵さん、大丈夫ですから……。僕が、絶対に治しますから……!」
湊の足取りには、先ほどまでの怯えは消え失せていた。
冷静さをかなぐり捨て、なりふり構わず、ただひたすらに葵の命を守るためだけに研ぎ澄まされた男の決意。
湊は葵を腕に抱いたまま、大股でリビングを駆け抜け、寝室のベッドへと飛び込んでいった。
暗闇に沈む意識の底で、葵の耳には、自分を抱きしめる湊の激しい心臓の鼓動と、泣き叫ぶような切実な呼気の音だけが、いつまでも、いつまでも響き続けていた。




