第十七話 燻る炎
森の中心にポッカリと空いた黒く焼けた灼熱の大地。濃赤の亀裂が縦横無尽に走り、至るところで湯気と煙が立ち上る。
西に傾き始めた太陽が、燻りを発火させるかのように熱を差し下ろしている。
その赤黒い大地の上に仰向けに倒れ込んでいる男と、少し離れたところで腕で額の汗を拭う短い茶髪の女性がいた。
「くっそが……」
勝炎が突き抜けるような青空に吐き捨てる。負けた悔しさと思い通りにできないもどかしさを含んだ愚痴が熱で蒸発して消えていく。
それを出し切った勝炎は麻美子に声をかけられる。
「ちょっとは反省した?」
それは反抗期の子供に反省を促すようだった。
得意気な麻美子の態度に、勝炎は空を仰いだまま小さな声で皮肉を零す。
「良い身分だな、チクショウが」
「どういう意味かしら?」
「ちっ……」
『地獄耳が』と聞こえてきそうなほどの舌打ち。全く反省はしていなさそうだった。
そこに藁色のローブを羽織った男が灼熱の赤黒い大地を歩いてくる。
この森の惨状と、副長の麻美子に臆すること無く、堂々と足跡を踏み刻んで近づいてくる。
「この程度なのか? 陽本勝炎」
シワを深く刻んだ白髪の男。
麻美子は初対面だが、その特徴は知っていた。蓮王と翠、刄が言っていた風貌そのままだ。
「櫻守、正樹……」
現在の櫻守当主の従兄弟であり、前当主の息子。
十数年前のいざこざで鳴上に不信感を持ち、その数年後に出奔して行方知れずだった男。
その力は未知数。だがーー
「違うだろうが。姉を殺した炎が、貴様が貴様の叔父を焼き殺した炎がこの程度な訳無いだろう」
勝炎に語りかける正樹が纏う空気は、敵を射抜くような覇気を背負った威圧感は、絶対強者。
本気の特務隊隊長・武永将弦を前にした時と遜色ない。
正樹は歩みを止め、内なる憎しみと怒りを漏らし、忿怒の声で脅し付ける。
「本当にこの程度なら……俺が、俺の業炎で、そこの女傑ごと貴様を焼き殺すぞ」
その言葉ははったりに聞こえない。造作もない事だと断言している。勝炎の傍らに立つ女性が特務隊、その副長だと知っていて。
勝炎は悩みが晴れたように笑みを浮かべた。
「……は、そうだな、その通りだ」
両腿を少し上げると一気に跳ね起きる。麻美子と激闘を繰り広げ、敗北したはずの勝炎が、意気揚々と気を高ぶらせていく。
「守るなんて俺らしくねえ」
「勝炎……」
麻美子も勝炎の闘気を見て再び臨戦態勢へと移行する。
先程までも強大な天術と天術の応酬だった。一介の天子が近づくことすら危険な災害級天術の激突。森を焼き払い、地形を変え、焼け野原にした二人の戦い。いくら天力を豊富に保有していたとしても激しい消耗は必至だったはず。
それでもまだ、戦える。
「獄炎、解放だ。こっから全力でいくぜ! クソババア!!」
「謹慎と減給、反省文くらいじゃ済ませないわよ、悪たれ小僧!」
輝ける炎に混じって漆黒の炎をも顕現させた勝炎と黒い大地を隆起させて地上を這う大蛇の如く土砂を操る麻美子の第二ラウンドが始まった。
***
「[堕天子]、噂は所詮噂か」
天術・紅蓮弾をその身で受け、仰向けに倒れている広輝に、拓真は失望の色をかくせない。踵を返そうとすると、鉄次が天真館の方から姿を現した。
「んな訳ないだろ。こいつは慧輔の愛弟子だぞ? まだ戦える」
特別試験官用のボディスーツを着た鉄次が太刀の鞘の先の方を持って担いでいる。
拓真はその姿を目で追いながら、イマイチ広輝が必死ではなかったことに合点がいく。人質になっていたはずの男がこの場に現れた、ということは天真館で何かがあり、元々その手立てがあった。解放された者は一人か複数人か、もしくは全員か。周りの様子をざっと窺うも鉄次以外の気配を感じることはなかった。
あの結界術を破ってきたのなら、相当の知識量と技術を兼ね備えてその道に精通しているか、強引に突破するだけの力を持っている。拓真は鉄次を警戒した。
「お前も岳隠だったか。身内贔屓がすぎるな」
「違う。事実だ」
鉄次が広輝の元へと向かう。
「そいつの持ってる剣、そいつ用じゃないんだよ」
鉄次は歩きながら、広輝の真の実力を見誤っている拓真にその理由を説明する。
「上手く使えれば、重さと遠心力で軽く叩き斬れるように、剣先を重くした試作品。もしも月永優里菜の試験官になったとしても気づかれないように広輝に渡した剣。だからーー」
右手を鍔に付けて鞘を握り直し、地面に突き立てた。
「こいつの全力は太刀だ。とっとと起きろ、コウちゃん」
ピクリと指先が動く。
飛びそうだった意識を何とか保ち、傷と体力回復に専念していた広輝のプライドが逆撫でされた。言われてしまう理由は分かるが、それでも他の言い方はなかったのかと溜め息に近い長めの息を吐いた後、左手で太刀の鞘を握って愚痴を溢した。
「……無傷じゃないんで、もう少し回復させてほしかったんですが」
「甘ったれるな。月陰星昌を渡した時に俺が言ったこと憶えているか? 憶えているなら約束を果たせ」
鉄次はピシャリと広輝の気の緩みを引き締める。気心触れた年長者が近くにいるからか、優里菜が解放されたことに気づいたからか、もしくは[堕天子]の件が岳隠で一段落ついたからか、自ずと出来ていた心の隙き。以前の広輝を知る者としては喜ばしいことだが、今は余計なものだ。かつての言葉を使い、先輩としてそれを正す。
『どんな巨星が落ちようと、どんな暗い道だろうとも、お前がその道を行くのならお前が示せ。自分が星の伝承者だと』
鉄次もまた広輝の共犯者の一人。広輝が新しい刀を欲した時、刀工の誰一人として[堕天子]の刀を打とうとしなかった。
彼らには彼らのプライドがある。武具を取り扱う以上それが誰かを殺める可能性は確かにあり、「武器は武器だ」と割り切っている。しかし、だからと言って最初から人殺しの為に造りはしない。人を守る為、人を脅かす魔を祓ってくれると信じるからこそ魂込めて鍛えるのだ。そこがブレれば、彼らは大金を積まれても首を縦に振ることはない。
だから鉄次は、表情を失くした闇い眼の広輝に言った。『真実を話せ』と。
淡々と話す広輝の話をひとしきり聞き終えた鉄次は、たんこぶができるくらい強烈な拳骨を広輝にお見舞いした後、悲憤慷慨を胸に、涙を汗に隠して広輝が望む刀を打った。
それが、月陰星昌。同年代に比べて背の低い広輝が求めたリーチと、才ある者たちに比べて切り返しに難のある広輝が『なら一閃で決めればいい』と結論した戦闘スタイルを実現する広輝だけの太刀。
広輝はしっかりと思い出し、一度太刀から手を離す。鉄次の目を見て返事をした。
「ーーはい」
ゆっくり立ち上がると剣を鉄次に手渡し、愛刀をきちんと受け取る。身体に馴染み親しんだ得物の帰還に広輝のスイッチが一つ入る。
「俺は見学させてもらうぜ。お前がその太刀を持つに相応しいか、改めて見定めてやる。俺は刀鍛冶なんでね」
鉄次は言葉通り剣を持ったまま後方に下がり、広輝は慣れた手付きで太刀を佩く。
左手を鞘に、右手で柄を握った瞬間、敵の拓真にもわかるほどに広輝は嵌った。二つに分かれた絵が再び一枚に戻ったように、それがそう在ることが当たり前のように。
腰を引き、胴を回し、太刀を抜く。鞘から離した左手を柄頭に添えると、太刀を振り下ろすように正眼に構えた。
「 嵐 」
瞬間、広輝を中心に凩が一陣、巻き起こる。
先程までよりも、確かな力を持った視線が拓真を見据えていた。
「いいだろう。ーーその本気も燃やし尽くす!」
拓真は天力を再び纏い、右手に緋色の炎玉を生み、その周りを公転する四つの炎。天術・火炎車を再び広輝へ投げつけた。
すると広輝が躱した記憶と同じく身を屈め、炎の下をくぐり抜けるような動きを見せる。ここで拓真が火炎車に仕込んだ天術を発動する。
ーー天術・炎柱ーー と ーー天術・渦炎ーー
公転する四つの炎が炎の柱と成り、中心の炎が膨れ上がり炎柱を巻き込む緋炎の竜巻を生む。
その直前に、中心の炎とその周りの二つの炎が、一瞬の閃きによって一刀された。
広輝が上空に跳び、炎が暴発する。
拓真は右腕で顔を覆って爆発の風をやり過ごすと、すぐに上空に逃げた広輝を見つける。空中なら逃げ場はない。左手で準備してた炎を攻撃に回そうとして咄嗟に防御へ切り替えた。烈風を引き連れた刃が迫ってきていた。
火守で防ぐ。あわよくば跳ね返そうとしたが、すぐにオマケを思考から消す。すでに広輝が間合いの一歩外に着地している。
(ーー斬られる!)
拓真は苦し紛れに広輝との間に炎玉を作る。何の術もかけていない。ただの炎。
しかし広輝は跳び退いた。太刀を斜めに構え、拓真の出方を窺う。
拓真は額の汗を腕で拭い、鉄次の言葉が真実なのだと確信に至る。
「[堕天子]の異名、伊達ではないようだな」
「…………」
「俺も全力を出ささせてもらう」
「……」
「この日を、この計画を果たさなければならない」
「ーー」
「二度とあんなことを起こさせない為に!」
拓真が緋色の炎を全身に纏う。
収束した強い炎。
その純粋に燃え輝く炎、その中にいる闇い眼を広輝がじっと見つめている。
広輝が何度も見た眼だった。犯してしまった罪と償いきれない過ちを思い出し、心をざわつかせる。
事件の真実を隠した欺瞞で堕天子となった後、岳隠で広輝に向けられた眼に似ている。更生所から戻った後、復讐を果たそうとした彼らの眼だ。復讐を誓い、実行していたクルスと、復讐を果たした後もその火の消し場所を失ったギレーヌの眼だ。掛け替えのない大事なものを奪われ、復讐を誓った者の眼だ。
「お前を斃し、逃げた人質をもう一度檻に入れさせてもらう」
炎の輝きが両手に集中する。
準備ができた合図だ。
広輝は守備の構えのまま拓真に問い掛けた。
「全員殺して、それでも成し得なかったらどうするつもりですか」
「なんだと」
「仮に成し得たとして、その後どうするつもりですか」
「……何が言いたい」
「貴方の復讐の火は、本当にそれで消えるんですか」
「ーーーー」
拓真は虚を突かれたように一度目を見開き、その顔を怒りに変えていく。天力が収束された美しい炎が力任せに燃え上がる。
「奪った側の言うことは一味違うな! 堕天子!!」
初めて拓真が自分から広輝に急接近。叩きつけるように炎を放つ。広輝が躱し、その広輝にもう片方の炎を放つと広輝は太刀を振って烈風を合わせてきた。拓真の炎は烈風を飲み込み、森の中を流れる。その火が消え去る前に広輝が拓真の右側面から斬りかかり、拓真は顔の前で炎を纏わせた腕を交差させ、太刀を受け止める。
天力を腕に集中させた天術による籠手。武闘派の天子が特に力を入れて鍛える天術の一つ。こうして斬撃すらも受け止めることができるようになる。
拓真はその両腕を思い切り押し開く。距離を置いた広輝を憎しみ宿る眼で睨み付けた。
「復讐の炎が消えるかだと? この思いが消えるかだと?」
炎が拓真の全身から立ち昇る。
「知るか!!」
拓真がその激情のまま広輝に殴りかかる。炎の籠手、フレイム・ガントレットは、攻防一体の天術。太刀を受け止められるならば、その拳も相応に重い。
拓真の右手に合わせた広輝の太刀は弾かれる。辛うじて太刀を握っていられた。
拓真に間合いの内側に入れられた。拓真の両拳が次々と繰り出される。
「おらおらららららああああ!!」
太刀の弱点が露わになり、広輝は防戦一方を強いられる。クリティカルヒットだけは避け続けるが、防御した場所が徐々に焼けた。拓真の炎が広輝が纏う嵐を突き抜け、ボディスーツを焦がし、銀色の腕輪も露わになる。
肌が所々露出するようになった時、拓真が腰を捻り、弓を射るが如く右腕を大きく引いた。
この僅かな間にカウンターする、または距離を置くだけの呼吸と天力が広輝には無かった。
広輝は先ほど拓真がしたように、顔の前で両腕を交差させた。左腕を前にして。
「っだらあああ!」
ボディスーツの破片すらなくなった左腕に拓真の会心の一撃が叩き込まれる。
「!!ーーっ!」
広輝は腕を十字に交差させて受け止めた。重心を下げて足の裏に、脹脛に、膝に、腿に、尻に、腰に力の大半を回して踏ん張った。左腕から肌の焦げた臭いがする。
直後、拓真が腕を力いっぱいに振り抜いてきた。
「はああ!」
広輝は後方の木にぶつかるまで両足で轍を書き、木にぶつかった反動もあって前に倒れ込みそうになるのを太刀を地面に突き刺して耐えた。左腕が骨が見えているんじゃないかと疑うくらい痛んだが、すぐにそんな痛みどころではなくなった。
拓真が両手を空に掲げて大炎玉を作り出している。手のひらサイズの炎玉ですら広輝はまともに受けられない。
「そうだ、そうだとも。この怒りが、憎しみが消えるなんてないんだろう。死ぬまで、この命燃え尽きるまで!」
拓真は開き直り、その目で広輝を見据えている。
広輝は咄嗟に叫んだ。
「エロ介さん! 剣!」
「お? おう……エロ介言うな!」
鉄次はさっきまで安全圏だった場所からあだ名の文句と一緒に剣を投擲した。
剣が広輝の足元に突き刺さる。
広輝は太刀を突き刺したまま、剣を引き抜いた。
「…………」
剣に天力を収束させていく。
これはおそらく太刀でもできる。だが、広輝の中で太刀に染み付いたイメージは斬裂による両断。今から放つ天術にその属性は乗せたくなかった。
腰を落とし、腕を交差させて剣先を左後方へ。
「森と共に焼け朽ちろ!」
拓真が炎玉を引き連れて両手を空から広輝へ。その炎玉に術名は無い。ありったけの天力を注ぎ込んだ炎の塊。その熱は辺りの水分を奪い、葉や枝をカラカラと固くさせ、たやすく発火させた。
その大炎熱を撒き散らし、内包する炎玉が広輝に迫る。
広輝は天力収束させた剣を、身体の前で大きく、かつ最速で横一閃した。
振り抜き終えた時ーー何も起こらない。
瞬きの間の後、それは起こる。
広輝の周りの空気が揺れる、震える。踏めば砕ける緑葉と小石が跳ね、ある一線に吸い込まれていく。広輝が斬り裂いて出来た真空の空間に風が激流となって入り込んでいく。
不可視の斬撃の後が葉と砂、塵によってその形を成していき、奇麗な返しの付いた鏃が現れる。
迫りくる炎に向かって、その風鏃が射出された。
ーー天剣術・真空烈破ーー
これは広輝の持つ絶技・真空破斬が生む副次的な強風に着目し、その風だけを生み出す為に天術・烈風を基にして編み出した天術。
風鏃が炎玉に衝突し、解放された風が豪風で炎を押し留める。炎玉は消えず、拮抗しているに過ぎない。
広輝はさらに風を送る。
ーー烈風刃三連発ーー
炎の勢い衰えず、逆に広輝の風をも飲み込んで大きくなろうとしているように見えた。
さらに風を送り込もうと構え直した時、広輝の視界に自分で地面に突き刺した愛刀が入り込んだ。
ある剣術が頭を過り、思考が走る。
(剣身の長いこの二振りでできるか?)ーー否、やる。
広輝は左手で太刀を引き抜く。全身の天力を、膂力の制御に全て回す。
イメージはオリバーと鷹之。
大剣を振って、その反動をものともしていなかったオリバー・エクスフォード。
二刀流剣術の達人で、嵐のような連撃を繰り出す宮永鷹之。
広輝は息を吐ききってから、限界まで息を吸った。
二刀流に構え、始めた。
ーー天剣術・空破斬 乱華月ーー
双剣で生み出す、反撃をも考えさせない果てしなき連撃。全ての風の斬撃を大炎玉をへ放ち続ける。
「はあああああ!」
ドクン、と炎玉が脈動したように見えた。が、広輝はお構いなしに斬撃を繰り出していく。
「ああああああああああ!!」
十回も剣を振れば身体の無理を自覚する。本来、刀なら一本で、小太刀なら二本で行うこの技。それを片や太刀、片や剣先に重心を傾けた剣。腕がもげ、肩が外れそうだった。
そこに激が飛ぶ。天真館の地下であの三人に掛けたように。
「てめえの師匠は慧輔だけか!? あの後お前を一番気にかけた奴は誰だった!?」
一人の女性の顔が浮かぶ。喉が痛む。罪悪感から真似はしないと決めていた。何より戦闘スタイルが異なり、できないとも思っていたから。
「できんだろそんくらい! 近くに居たんだろうが!!」
独りよがりの逡巡はすぐに消え去っていた。そんな言い方をされたら「できない」なんて言えない。
広輝は歯を砕くほどに食いしばる。太刀を振った力を利用して身体を回転させて剣を振った。その力を利用して太刀を振る。体を、全身を、周りの物すら利用して力を循環させて術技を繰り出す。
これは、円の戦い方だ。雅で、澱みなく流れ、爽やかな風を纏い起こす彼女の剣術。
「ああああっ、……っらああああ!!」
不格好な真似事だが、途切れそうだった空破斬が再び息を吹き返した。飲み込まれそうだった風術に追加の風を次々と送り込む。
その斬撃は大炎玉の一点を少しずつだが確実に削り取っていき、遂に炎の中核に到達。絶え間なく飛んでくる斬撃が核を斬り刻み、核の消えた大炎玉は驚くほどあっけなく燃え散った。
地面に二振りの剣が突き刺さる。
「ぶはあっ! はあはあ、はあ……」
大量の汗に混じって、口の中のよだれが地面に飛び散り、広輝は二本の剣を支えにして全身で息を繰り返す。乾いた息で呼吸する度に喉が痛んだ。可動域いっぱいに動かし続けた全身の関節がミシミシと悲鳴を上げ、腕全体が小刻みに震える。やはり慣れないことをした為、無理が出たようだ。広輝は地面に落としている視線をゆっくりと拓真へ向けた。
「……なんだその目は」
拓真が訊く。
「なんで全力で来ない?」
苛立ちが見え隠れした。
広輝は質問の意味も意図も分からず、皮肉を言われているように感じた。腕で口元を拭い、整い始めた呼吸で逆に訊くように返す。
「全力、ですけど? ……余裕あるように、見えます?」
「なぜ全力で殺しに来ないのか、と訊いている」
拓真の苛立ちの増した問い掛けで、広輝はようやく理解した。同時に『伝わってしまうんだな』とも思った。乾いた空気を大きく吸い込んで背筋を伸ばし、酸素を全身に行き渡らせる。胸に手を当て、溜め込んだ二酸化炭素を全て吐き出すように湿った息を長く吐く。
再び拓真を見据えて、一言。
「ーー殺して、終わるんですか?」
ここで拓真たちの企みを阻止し、捕縛もしくは殺害したら、この連鎖は終わるのか。
広輝は鳴上に所属していながら櫻守正樹の件は耳にしたことがない。口を閉ざされる理由があるのか、話すには後悔や汚点があるのか。しかし、白鷺については時折耳にしていた。それは行き過ぎた血統主義の一つの末路だった。その怨念と憎悪を被せられた人物を天子協会が葬ったとして、その後どうなるのか。彼らの企み、願いを成就させた方が長い目で見れば天子協会の為ではないのか。
ぐるぐる考えている。
「まだそんな事を吐くのか。そんなもの幻想だ。それを骨身に叩き込んでやる」
拓真は天力をグローブのように纏い、一度胸の前で拳を合わせると、広輝に歩み寄る。そこに炎はない。
広輝も拓真に視線を合わせたまま、太刀の前に出る。
手を伸ばせば届く距離。
僅かな時の間。
拓真が腕を振り上げた。
その拓真の腹に広輝の正拳が突き刺さった。
「ぐはっ?!」
「星月流には無手での戦い方もちゃんとあるんですよ」
広輝は得意気な様子もなく、淡々と事実を述べているーーつもりなのだろうが、"してやったり"感が僅かに口元に滲み出ている。疲労で堕天子の仮面が剥がれてきたのか、高校二年生の少年は拳を戻して整然と構え直した。
その広輝に対して、拓真は武術の心得を思い出したように腕を振りかぶるのではなく、腰を捻り全身で拳を打つが、同じように広輝に躱されて二度目の正拳が腹に突き刺さる。だが、その腹は固い。拓真は逆の左手の拳を振りかぶった。
「ぐ……っらあ!」
「がっ!」
広輝の横顔にヒットし、よろめいて後退する。
「向洋の拳に比べたら屁でもねえんだよ、堕天子!」
拓真がすかさず追い打ち。右の頬に二撃目が入る。
「んぎっ!」
広輝は口の中に広がる鉄の味で出血に気づく。じわりと染み出してくる血を唾と一緒に一度飲み込むと、ケンカと武術の心得、両方があるやっかいな相手だと認識し直し、拓真に相対した。
「ーー白鷺にしては、口が悪いです、ね!」
広輝の鋭いアッパーが拓真の顎に炸裂する。
「あがっ……んのヤロウ!」
「うぐっーーはあ!」
そこに天子の、天術による戦いはなかった。
天力こそ纏っているものの、それはただの殴り合い。傍から見れば、ただのケンカだった。
それを唖然・傍観していた鉄次は、しばらく経つと呆れた様子でため息をついた。もしもそこに肘をつく台があればきっと頬杖を付いたに違いない。
(どういう心境の変化か知らねえが)
鉄次は広輝のやりたいことを察し、それに薄々気付きながらも乗っている拓真にも広輝に向けている同様の視線を送る。
「泥臭いねえ、岳隠ってのは」
刀工・蔵元鉄次からただの江口理介に戻り、何度も見てきた兄弟喧嘩に似たケンカを最後まで見守った。




