037 物語の英雄
バジリスクが吼える。超高音の咆哮は、ともすれば金属を砕くのではないかと思わせる。
八雲がバジリスクに向き直り、両手で聖剣を握る。かつてないほどの集中具合にアリスはまたしても驚いた。
一陣の風が吹き抜ける。
「――来る」
風鈴が鳴るように、呟いた。
バジリスクが均衡を破る。水中から飛び出した尻尾が鞭のようにしなって、八雲に襲い掛かる。同時に水弾が放たれ、八雲は左右からの攻撃に挟まれた。
「――っ!?」
アリスが口に手を押し当てて声にならない悲鳴を上げた。水の弾丸を食らえば胴に孔を空けられ、尾の鞭を食らえば全身の骨が砕けるかもしれない。
アリスは、己の目を疑った。八雲が予想外の行動に出たのだ。
「うぉおおおおおッ」
斬り上げ動作に入ると、着弾寸前の水の塊を跳ね返し、勢いのまま右から来る尻尾にぶつけて上に弾いた。むろん相殺しきるはずもなく、聖剣が遥か上空に飛ばされ、八雲の身体が宙に浮く。そこをバジリスクが狙い咎めるのは必然と言えた。
八雲の背景に、深淵のような大口がある。二対の牙を剥いた大蛇が、獲物を求めていた。
思わず目を瞑ろうとした、そのとき。
「――アリスッ!」
いまだ炯炯として勝利を諦めていない双眸が、見えているはずのないアリスを射止めた。
その瞬間アリスはハッとして、
「はいっ!」
呼びかけに応えるべく、足場となる魔法陣を展開。八雲はそれを足蹴にして、軽やかに跳躍する。直後、八雲の居た空間を大蛇の顔が占める。縦に裂けた瞳孔だけがぎょろりと動き、八雲を睥睨する。両者の距離はほぼ零に等しい。
懐のナイフを取り出し、八雲は、言った。
「その右目ぐらいは、もらうぞ」
大質量の殺気が時間を支配した。バジリスクもアリスも、八雲の動きから目が離せなかった。アリスはただ呆然とし、バジリスクは俊敏な動きを見せない。
硬直した時間のなか、八雲だけが動いている。世界が灰色になったような、そんな錯覚。
――なに、これ……。
バジリスクの瞳に八雲の姿が映っている。冷ややかな表情で、ぞっとするほどの冷徹さが吹雪いていた。アリスはその光景に戦慄を覚えた。
かざした白刃が煌めいて、飛沫を作り出す。氷結していた時間が融解して、世界に色彩が戻る。気がつけば、八雲は返り血に赤く染まっていた。
クァァアアア――!!
バジリスクは目玉を穿たれた激痛で悲鳴を上げる。もがきくるしむ大蛇は、尻尾を振り乱し、狙いもなく岩石を噛み砕くなど、激怒に暴れまわっていた。岩の破砕音が遠雷のように轟き、長い尾が滝壷を打って破裂音を鳴らす。
巻き込まれればひとたまりもない。
「一旦離れるぞ」
「は、はい」
何食わぬ顔で離脱し、聖剣を回収する。感触を確かめるように何度か聖剣を振ると、八雲はアリスに問いかけた。
「どれくらいだ」
「え?」
「魔力はどれくらい残ってる」
「あ、はい……あと四分の一弱くらいです」
「なら、全部預けろ」
「へ?」
素っ頓狂な声が出た。突然預けろと言われてもアリスは何も持っていない。と言うか、持つことすら不可能なのだ。だってほとんど霊体だもの。
しかし八雲は、至って真剣な表情で繰り返す。
「全部預けてくれ」
「なにを?」
「まどろっこしいな……」
「ちゃんと言ってくれなきゃわかりませんよぉ!」
アリスが催促する。理解力に乏しいのは自覚しているし、いろいろと言われ慣れては来たが、今回ばかりは悲しくなった。
八雲は頭をガシガシ掻くと、恥ずかしそうに言った。
「お前の全部、俺に賭けろ!」
「……?」
「……」
「……あ!」
アリスはしばしぽかんとした。それから八雲の照れくさそうな表情を見て、理解する。
ひとたび意図に気がつけば、込み上げてくる可笑しさを抑えることはできなかった。
「あはははっ……面白いこと言いますね……」
「どうして笑うんだよ……」
「だってこんなの、笑うしかないですよ」
なぜ諦めていたのだろう。信じると決め、彼を救うと決めたのに。
「うるさいな……賭けろって言っただけだろ……」
「それですよ、それそれ」
アリスが指摘する。八雲は何のことだと言いたげに眉を顰めた。それがまた可笑しくてしょうがない。再び込み上げる笑い声を抑えて、アリスは顔を綻ばせる。
「私は八雲さんを信じます」
今度こそ、信じる。彼のすべてを信じよう。
「だから、私のすべてを賭けるなんて当たり前です」
賭けるなんてなんでもないことだ。アリスの本心が口を突いて出た。
「……っ」
すると、八雲が目を見開いた。どんどん目許に涙が溜まっていく。しかもそのことに気がつかないまま涙を流し始めるので、アリスはどうしたものかと狼狽えた。
「ど、どうしたんですかっ。どこか怪我でもしましたか!?」
「あ、あれ……いや、その、なんでもない」
「でもっ」
「ああ、大丈夫だ。本当に、何のことはないんだ」
八雲は涙を拭いながら追及を制止する。なにも言えなくなって、アリスは頬を膨らませた。心配してあげたのに、と思うが、八雲の穏やかな顔つきを見ると心配も晴れてしまった。
「大丈夫ならいいんです。それより、なにか作戦でも?」
「いいや、作戦なんて何もない」
晴れやかに言い切る八雲。なぜそうも自信有り気に言うのか。アリスはもう溜息を吐くことしかできなかった。
だが、別段責める気にもならない。全部預けろと言うのならば、アリスは八雲にすべてを委ねるだけのことだ。
「わかりました。全力でサポートしますよ、勇者さま」
「なんでそれをっ!?」
「あははっ。初代勇者はすごいのです!」
ポーズを決めて言ってみるが、八雲に見えているはずもない。それでもアリスは、八雲が少しずつ明るくなることに嬉しさを感じずにはいられなかった。
「どうしてお前が知ってるんだ!? アリスっ!」
「ほらほら、早いところやっつけちゃいましょうよ」
言い募る八雲を無視してやる。
――さっきのお返しですよっ、なんてね。
八雲は驚いていたが、怒っている気配はなかった。どこかで闇を払拭したのかもしれない。もしくは、包み隠さずアリスに打ち明ける覚悟ができたのか。
いずれにせよ、いま気にするべきことではない。
「行きましょっか、八雲さん」
「……そうだな。まずはあの蛇を絞めてやらないと」
当然、釈然としないだろう八雲は仏頂面だ。アリスはますます機嫌をよくして、身体の奥底、魂の存在を感じつつ魔力を湧き起こした。
魔法。
それは、厳密に言えば世界との契約である。自身の魔力を捧げ、世界との契約を結び、代価として己の臨んだ事象を引き起こす。
呪文は、いわば世界に触れるための祝詞にすぎない。
詠唱省略によって魔法の威力が落ちるのは契約のプロセスを無視しているから。プロセスを無視するために魔力を消費するから、結果として魔法に掛けられる魔力が減るのだ。
そして呪文が祝詞なのだとすれば、魔法を発動させるための詠唱は儀式である。
儀式を正しく完成させるためには、峻厳な態度で臨まねばならない。むろん感情のままに詠唱を行っても魔法は発動するし、本来の威力は発揮できる。だが、完成とは言えない。
すべての工程に礼を尽くしてこそ、儀式は完璧に成る。
「――終わらせましょう」
すべての感情を排す。
アリスは、詠唱を開始した。
「【我が祈りをここへ】」
自身の裡にある魔力が昂るのを感じる。ビリビリとした緊迫感が空間を伝い、アリスの肌を痺れさせる。八雲が聖剣を構え直し、バジリスクをねめつける。
アリスは目を瞑り、両手を胸の前で組んだ。そして、祈る。
「【極星の導きに従い、我、此の者に祝福の祈りを捧げん】」
世界の理に触れるための祝詞。
秘めていた魔力が迸り、祈りを捧げるアリスを燐光が包み込む。
「【“天上の祝福”】」
アリスの瞳が白金に煌めき、八雲の姿を映す。アリスを包んでいた燐光が消えうせ、視界の中央に立つ八雲の身体が燐光を纏い始めた。
どこからともなく風が吹き、バジリスクが吼える。ようやっと獲物を見つけた大蛇は、残った左目の瞳孔をこれでもかと開いた。
初動。
バジリスクが首をもたげる。もはや合図となったそれは、アリスに次の行動を予期させる。
「――来る」
またしても、八雲が呟く。
果たして、バジリスクの巨体が電光石火の勢いで迫った。右眼から流れ出す鮮血で尾を引き、大蛇の毒牙が肉薄した。八雲は躱す素振りを見せない。アリスは意図を汲んだ。
「【我、此の者を護らん。四重奏、聖壁】」
四枚の盾が出現し、バジリスクの牙を撥ね退ける。
アリスは深く息を吸い込むと、
「【星を目指せ、“狡知の神の深靴”】」
付与魔法。
八雲の足を深紫の光が覆い、深靴を形作る。
アリスは、すべてを賭けた。代償に魔力を失い、急激に意識レベルが低下する。限界まで絞り尽した結果だった。
それでもアリスは、倒れ掛かる直前に八雲の背を押した。たしかな感触があった。
「行ってください、八雲さんっ!」
八雲は返事をしない。だが、たしかに応えた。
アリスの声援を背に受け、八雲が宙を駆ける。
「疾れ」
踏み込むたびに六芒星を描いた魔法陣が展開し、足場を形成していく。
クァアアア――ン!
超高圧の水が直線を引く。八雲は頬を掠めるそれを意にも介さない。
「疾れ」
六芒星が現れ、消える。
「もっと疾く」
撃鉄が鳴る。数多の弾丸が射出され、標的を捉える。白金の光を帯び始めた聖剣を振るい、すべてを薙ぎ払う。
そして八雲は、最後の六芒星を、全力で踏んだ。星を目指すように、高く。
「終わらせる」
最初に発動した魔法が、遅れて効力を発揮する。
八雲を纏っていた燐光が聖剣に宿る。銀の両刃に魔力が流れ込み、蒼黒の文字が浮かび上がる。白金の燐光が煌めき、長大な刃を創りだす。
「うおおおぉおっ!」
聖剣が振り下ろされる。
白金に輝く魔力の刃が大蛇に触れる。強固な鱗は光に焼かれ、強靭な筋肉は裂かれていく。一息の間に、大蛇の首と胴体が分断される――
まるで物語の英雄を見ているようだった。
大蛇が地に伏せる光景を見て、アリスは意識を失った。