016 レスティア
しばらくして、馬車が止まる。
目を覚ました。外からは歓談が聞こえる。八雲は目をこすりつつも、ゆっくりと扉を開く。
途端に、眩い日差しに目がくらんだ。太陽はすでに昇っていて、昼くらいになっている。
何度か目をしばたたかせると、明るい光にも慣れ始めた。
「お目覚めになられたのですか」
横から声が掛けられた。振り向くと、馬車を手繰っていた御者がいる。その後ろには白髪の男性が立っていた。
誰だろう、と思うと、向こうも八雲の視線に気づいたらしい。
深々と頭を下げて、
「よくぞいらっしゃいました、勇者殿」
と八雲を迎える。
八雲は恐縮しきって、「あ、ありがとうございます」としか言えなかった。
それからは御者の説明があった。この老齢の男性はレスティアの村長であるらしく、村民一同八雲を歓迎してくれるのだとか。
一連の説明を受けたのち、八雲は村を案内してもらうことになった。馬車を停めた場所から村までは徒歩でのみ行ける。馬車が通れるほど道が広くないのだ。むろんそれでは不便であるから、村を挟んだちょうど反対には馬車も通れる道を整備しているようだが。
ここで御者とは別れた。馬車を反対側へ持っていくからである。
馬車が行くのを見送ってから、八雲は村長とともに歩き出した。
「勇者殿は、名前を何と申されるのです?」
先を行く村長は、楽しげに尋ねる。唐突な問いかけに八雲は驚き、一瞬の間をおいたあとゆっくりと答えた。
「服部八雲、です」
「では、八雲殿とお呼びしても?」
「できればそちらの方が嬉しいですね」
こちらの世界で一般人に名前を訊かれたのは初めてかもしれなかった。思わず頬が緩んで、笑みがこぼれ落ちた。
「事情は伺っております。どういうわけかここらは魔物がほとんど出ません。出ても温厚な魔物くらいですから、安心してください」
八雲は苦笑した。だが先方が八雲を弱い人間だと知ってくれているのならば、その方がずいぶん気が楽である。勝手に期待されて、勝手に失望されるのは懲り懲りなのだ。
少し歩くと、村長が何か思い出したように「そういえば」と手を打つ。
「レスティアは景色も豊かですから、心を癒すには最適とも言えますね」
あたりを見てみる。
木漏れ日。葉の影がゆらゆらと揺れている。陽がこぼしたひかりのしずくが溶け込んでいく。絶え間なく凪ぐそよ風はふわりとしている。今思えば、幻想のなかにいるようだ。
「綺麗でしょう?」
八雲は頷いた。村長は満足げに目を細める。よほどこの景観を気に入っているのだろう、だが八雲にだってそれがわからないでもない。
「こんなふうに、綺麗なところがあるのか……」
意外だった。魔物が跋扈する世界にこんな綺麗な自然を見出せるとは思いもしていなかった。だがよく考えてみれば、そこら中すべてに魔物がいるわけではない。
八雲が出会ったのはダンジョンの中でのみだ。むろん騎士団が討伐しているからでもあるが、ここは王城にさほど近くない。
「魔物だってね、生きてるんですよ。人に害をなすのが魔物と言うなら、それこそわれわれ自体が魔物じゃないですか」
八雲が視線を送ると、村長は肩越しに柔らかく微笑んだ。深い皺が刻まれているのは、はたして歳のせいだけなのだろうか。
「子供を育てますよ、魔物だって。ほら、あそこ」
村長が指し示す。その先にいたのは、一見すれば鹿だ。だがその角は刃物のように鋭く輝きを見せている。八雲たちの気配を察知したのか、こちらを向いた。
アーディ、と呼ばれる魔物だ。草食ながらも敵対生物を見つけると容赦なく襲い掛かってくると言う、危険度の高い魔物として知られているはずだ。八雲の記憶が正しければ、その一方でアーディは“案内人”とも呼ばれている。ただ、これは御伽噺のなかだけだ。
それにしても……、
「襲ってこない?」
八雲が目を丸くすると、村長は「ふふっ」と笑う。
「危害を加えなければ襲い掛かってきませんよ。それに、子供がいる」
「……あ」
牝鹿の後ろには、まだ小さな小鹿がいた。子を護ろうとする母、頼りにした母に隠れる子。八雲の考えている魔物からは、まったく想像もできない姿だ。
「繁殖するのは知ってたが……、まさかこんな……」
「やはり、母と子の営みがあるとは思っていませんでしたか」
悲しそうに村長は眉を曇らせる。
「ですが、無理もありません。そういうのが世の常識となっていますから」
その笑顔は痛ましかった。八雲は何も言えなくなって、黙り込む。魔物が人に害をなす存在だと思われている以上、できることは何もないかもしれない。
「すみません、暗い話をしてしまいました」
いえ……、と八雲はそれだけ言って、村長から目を逸らした。そしてもう一度だけ見ようとアーディの方を向くと、そこにはすでに何もいなかった。
× × × ×
レスティアに着くと、八雲はまず村民全員が集まる中で自己紹介と挨拶をした。村民は五十人ほどで、老若男女さまざまである。中には鎧を纏った老年の騎士もいて、その顔には見覚えがあった。
挨拶を終えると、村長からはちょっとした知らせがもたらされた。特別優遇するということはできないまでも、なるべくもてなすとのこと。だが八雲はそれを固辞した。
八雲は大いに困った。なにせ勝手がわからないなかで放り出されてしまったのだ。だが村民たちにも生活がある。仕事やらを邪魔するのは申し訳ない。そんななか。
夜まで何をしようか、と考えていた矢先のことだ。
「兄ちゃん、遊ぼうぜ!」
あどけない声とともに、服の裾がくいと引っ張られる。
「ん?」
下を見ると、まだ小さい少年がいた。王城では見かけなかった黒髪で、肌はこんがりと焼けている。声音は女の子にも思えるが、恰好からして男の子だろう。短パンにノースリーブ、短髪で活発となれば、八雲には男の子としてしかイメージできない。
「一緒に遊ぼう!」
黒髪の少年は、大きな瞳を輝かせて、しきりに遊ぼうとねだってくる。愛想のいい笑顔に八雲の心はすっかり和まされて、
「よし、じゃあ何して遊ぶ?」
と笑いかけた。すると少年はたちまち思案顔になって、顎に手を当てる。何をするかはまだ決めていなかったらしい。
八雲が答えを待っていると、少年は何か思いついたように明るくなった。
「なんかして遊ぶ!」
「いや、そのなんかを訊いてるんだけどな……」
がっくりと肩を落としつつ、八雲はしゃがみこんだ。少年と視線を交わして八雲は頭を鷲掴みにする。少年は「やめろぉ!」と叫びつつも逃げようとはしない。可愛いものだ。
「さっきも言ったが、俺は八雲だ。よろしくな」
「やくも!」
「そ。八雲だ八雲。で、お前は?」
「……?」
少年は小首を傾げる。何言ってんだこいつ、とでも言うような目が少しイラッときた。が、八雲もそういった反応には慣れている。名前だよ、と口を開きかけたとき、声が掛けられた。
「ふふ、ラルカって言うんです」
見上げると、中学生くらいの女の子がいた。こちらも黒髪で、長さは肩ほどである。顔つきは少年と似ていたから、八雲はおそらく姉弟なのだと推察した。
八雲と少年のやり取りを見ていたのか、姉と思われる少女は口許に手を押しやって笑いを噛み殺していた。笑顔が可愛らしい少女だ。その可憐さもさながら、しかし礼儀正しさもあるため、外見から推測される年の頃に反してしっかりしている。
小さな肩を揺らして笑う姿を見ていると、少女は顔を赤らめた。
「ああ、すみません! で、でも、ついおもしろくて……その……、」
「気にしなくていいさ」
「あ、ありがとうございます……や、やくもさん」
何を恥ずかしがることがあるのだろう、と思ったが、八雲はあえて口には出さないことにする。愛華や麗華もそうだったように、あまりつつきすぎると怒られそうだ。
「わたしはリリカ。この子、ラルカの姉です。ほらラル、ちゃんと挨拶して」
「えーっ! なんでー……」
「勇者様にはちゃんと挨拶! 昨日も言ったでしょ!」
姉が弟をたしなめるさまは八雲の心をますます和ませる。
「いいよ、リリカ」
「で、でもっ」
「俺は勇者って呼ばれるようなもんじゃない」
八雲は何の含みもなく呟く。すると、それを自嘲と取ったのか、リリカは申し訳なさそうに唇を噛んだ。姉が落ち込む姿を見て、弟は仇敵を睨む。
わかってるよ、とばかりに、八雲はラルカの額を人差し指でとつつく。
「けど、なにより名前で呼ばれたいんだよ。さっきみたいにな」
朗らかに笑って、八雲はリリカの肩を叩く。それだけでリリカは、ぱあっと顔を綻ばせる。なんだか向日葵のようだ。
八雲は内心恥ずかしかったが、それを抑えつけて、
「さてラルカ!」
「なに!?」
「このあたりを案内してくれないか? まだここに来たばかりだからどうも勝手がわからないんだ」
「かって? ……よくわかんないけどわかった!」
ラルカは勢いよく了承して、八雲の手を取る。はたして大丈夫だろうかと心配したが、そこはこの少年を信頼してみることとしよう。
「案内すればいいんだろ?」
「ま、そういうことだ」
「よっしゃー! まかせとけー!」
八雲を連れていこうとして、ラルカは自身の身体ごと傾けて八雲を引っ張る。力が弱いからよかったものの、勢いが良すぎた。うっかり転びそうである。
「そ、そんなに急がなくてもいいぞ……」
「なにいってんだ! 時間はゆーげんだぞ!」
「どうしてそんな難しい言葉知ってんだ……」
「ねーちゃんがいつも言ってるからな!」
八雲はリリカを横目に見遣る。顔を手で覆っているが、隠しきれない部分、すなわち耳が真っ赤である。
「いい言葉だから覚えとけよ、ラルカ」
悪戯っぽく言い放つ。リリカは「ふぁ……」と恥ずかしげに肩を震わせた。八雲はちくりと胸が痛んだ。
だがそれは、今気にしていても仕方がない。今はただ離れているだけなのだから。
ラルカに手を引かれるがまま、八雲は走り出した。