Ⅲ 黒い天使
それから、蓮が彼女の事を考えない日はなかった。
心配するのは専ら、何よりも大切な早苗のこと。体が弱く、今も病気がちで、自分が守ってやらなければならない儚い存在。早苗のことを想うたびに、あの黒い天使の不吉な姿が脳裏をよぎる。彼女はそうは言わなかったけれど、蓮は直感していた。愛する少女に死の影が迫っている。
そんなことを考えつつ、上の空で道を歩いている時。そう遠くない所で大きな音がして、蓮は不意に現実に引き戻された。そちらの方を見てみると、何かあったようで野次馬らしい人だかりが出来始めている。そちらから走ってきた小柄な人影が脇をすり抜けて立ち去ろうとするのを、蓮はとっさに腕を掴んで止めた。
「君……」
「何するの、放して。」
それは、あの黒い天使だった。この前と同じく大鎌を持って、胸に何か荷物のようなものを抱えている。手に持ったものを庇いながら、蓮をキッと見つめる少女。彼は、彼女に尋ねた。
「こんなところで何を? それに、この騒ぎ……」
人はどんどん増えている。何か並々ならぬことが起こったに違いない。と、知った顔が同じようにそっちへ向かって駆けて来るのを見付けた。
「おい、康平。」
「あ、先輩。」
声を掛けられてやっと蓮に気付いたらしく足を止めた後輩が近寄ってきた。彼の目に、蓮が手首を掴んでいる少女の姿は映っていないらしい。
「どうした? この先で、何かあったのか?」
蓮の問いに、力いっぱい頷いて答えた。
「僕も詳しくは知らないっすけど、交通事故か何かみたいですよ。という訳で、僕ちょっと野次馬に行って来ます。」
「おい待て! 康平! ……ったく。仕方ない奴だ。」
康平は蓮がもう一度呼び止める間もなく走っていってしまった。蓮は軽くため息をつき、少女の方に視線を戻した。
「康平にはお前は見えてないのか?」
「普通は見えないものなの。いいから放して。」
少女は身をよじって逃れようとするが、蓮は手をしっかりと握り直して放さない。その目は、少女の持っている包みに吸い寄せられていた。
(事故? って事は、これは、まさか……)
その時、蓮の背後で大きく息をのむ音が聞こえた。振り返ると、見覚えのある女子生徒が大きく目を見開いて立ち尽している。目は二人に釘付けになっていた。
「蓮くん? あなた、それ……」
「八重! お前には見えるのか?」
同じクラスの八重。彼女は霊感少女……他の人間に見えないものが見えるのだと、高校でも有名な存在だった。蓮の勢い込んだ質問に、八重はがくがくと頷く。
「え、ええ。あなた、一体自分が何をしてるか分かってるの?」
天使はよりいっそう、蓮の手から逃れようともがく。そこにもう一人、同じ姿をした娘が姿を現した。彼女は人間に捕らえられている仲間を見、冷ややかな声で言う。
「何事? あなたがこんなドジ踏むなんて。」
「ごめんなさい。でも大丈夫、何とかする。」
少女の言葉を聞き、蓮の視線が何かを探しているように泳いだ。
「何だ? なあ、誰かと話してるのか?」
「蓮くん、見えないの? どうして?」
蓮の言葉に唖然とした八重が叫ぶ。少女はその隙を突いて、蓮の手を振り払って駆け出した。仲間の隣に行くと振り返り、蓮に向かって叫ぶ。
「あたしとこんなに関わろうとするなんて、どうかしてる。警告はした筈よ。」
そのまま二人は去っていってしまう。追おうとする蓮を、八重が呼び止めた。
「待って。」
振り返った蓮をまっすぐに見つめて、八重は唇を噛む。震える声で言った。
「今の子……あの子が何なのか、分かってない訳じゃないんでしょ? あれは、人間じゃない。」
「だったら、何だ?」
「私は見えてしまうタチだから、ああいう……彼女たちとの付き合い方は分かってるつもりよ。言わせてもらう。あんまり深入りしない方がいいわ。どんなに願っても、限界はあるものなの。」
八重の言葉に、蓮は答えない。ただ、黙って不敵な笑みを浮かべる。それを彼の答えと受け取った八重は、蓮をメガネの奥から思い切り睨みつけた。
「信じてないのね。でも、今に分かるから。」
しばし睨み合った後、蓮は何も言わずに天使たちが姿を消した方へと歩き去った。八重はただその背を睨むように見送った。
何一つ音のない世界。真っ白な空間の中、黒い人影が二つ連れ立って歩いていた。
少し俯き加減で仲間の半歩後ろを歩いていた天使――先刻蓮に手を掴まれていた娘の白い翼が、ふっと震える。足を止め、蚊の鳴くような声で呟いた。
「あたし達が見える人間って、あんなにいるものなのかしら。」
「時々いるわね。大勢じゃないでしょうけど。それにしても珍しい事があるのね。あの男、あなたは見えて、わたしは見えないなんて。」
先に立って歩いていた少女が、どうでもいいように答える。相手は何か考え事でもしているのか、俯いたまま何も言わない。少女は振り向いて、仲間の顔を覗き込んだ。
「どうかしたの?」
問われて、ハッとして顔を上げ、首を横に振って答える。
「なんでもない。面白いのね、人間って。」
「いいけど、思い入れると後で辛くなるかもよ。人間は、いつかは死ななくてはいけないんだから。」
今まで当り前だと思っていたのに、その言葉が妙に胸に刺さった。小さく唇を噛む。
「……分かってる。別に、特別な思いがあるわけじゃない。」
「ならいいけど。」
そのまま立ち尽くしている少女を一人残して、小柄な黒い天使は先に去っていってしまった。残された少女は一人、自分の手をじっと見つめていた。さっき人間に掴まれた感覚が、まざまざと残っている。
「人間に掴まれたのなんて、初めて。手、何だかあったかい……。」
その手をそっと握り、気持ちを落ち着けるように胸に手を当てた。目をつぶると、あの顔が見える。特別な思いがあるわけじゃない。自分にも何度もそう言い聞かせた。そう思おうとした。だって、あたしは……
「あたしは……彼を傷付けてしまう。最悪の形で……。」
娘の呟きは誰にも聞かれず、少しも響かずに消えていった。




