好きな人
それから何日か過ぎた。
アルクスは相変わらず忙しいようで、学校に来ることはほとんどない。放課後の魔法練習もなくなったため、顔を合わせる機会は自然と減っていった。
私は今まで魔法練習に使っていた時間を、『十年前の魔物』について調べる時間に使うようになった。
そんな私を見て、フランシスくんが言った。
「僕も魔法の練習、一緒にしようか?」
私はその言葉に甘えることにした。私の気持ちとは裏腹に、フランシスくんと過ごす時間だけが、少しずつ増えていった。
「スピカさん!」
ある日、フランシスくんが嬉しそうに駆け寄ってきた。
「スピカさんが好きそうな劇のチケットが取れたんだ」
「劇?」
「明日は休みだし、よかったら一緒にどうかな?」
「……うん」
少し迷ったけれど、私は頷いた。
「じゃあ、行こうか」
◇◇◇
――そして休日。
私はフランシスくんと初めて二人で出かけた。
劇の内容は恋愛物だった。最後には二人が結ばれる、幸せなハッピーエンド。
以前、アルクスと一緒に見た劇を思い出した。あの時は、胸が高鳴って、物語の中にいるみたいで、楽しくて仕方なかった。なのに、今は恋愛の物語を見ることが、少し辛かった。
劇が終わった後も、フランシスくんはいつも通りたくさん話をしてくれた。彼といる時間は楽しい。嫌いじゃない。
でも――。
「カフェでもどう?」
そう誘われた時、私は少しだけ笑って首を横に振った。
「ごめんね。今日はもう帰ろうかな」
「そっか。わかった」
フランシスくんは残念そうにしながらも、無理に引き止めることはしなかった。
帰りの馬車の中、私は一人、考えていた。アルクスと二人で出かけた時は、あんなにも心が踊った。
次はどこへ行くんだろう、何を話せるんだろう。そんなことを考えるだけで、楽しくて仕方なかった。
でもフランシスくんとは違う。この違いは――。
「……」
本当は認めたくない。でも、もう自分でも嫌というほどわかっている。
私は、アルクスに恋をしているのだ。
いつも自分にだけ優しい彼。少し低くて心地のいい声。他の誰にも見せないような笑顔。そして、いつでも堂々としていて、自信に満ち溢れている彼。
私は、そんなアルクスが大好きなのだ。
「……」
けれど、アルクスには婚約者がいる。デビュタントだって、一緒に踊ることはできない。
「自覚した瞬間、失恋とか……」
思わず笑ってしまった。
私が思い描いていた恋というものは、もっとキラキラしていて、もっと眩しくて、幸せなものだと思っていた。
でも現実は全然違った。嫉妬、妬み、独占したい気持ち。自分の中にこんな醜い感情があったことを、私は初めて知った。ドロドロとした感情が、胸の奥を支配していく。
恋なんて……もっと幸せなものだと思っていたのに。
◇◇◇
――翌日。
私は初めて学校を休んだ。
アルクスに会いたくない。そして、自分の気持ちを整理したかった。
普段ほとんど病気などしない私が学校を休むことに、父も使用人たちもひどく心配していた。食事もほとんど喉を通らない。
「大丈夫だから。今日は休ませて」
そういって、私は自室に閉じこもった。ベッドの上で横になっていても、目を閉じても、考えるのはアルクスのことばかりだった。愛おしいと思えば思うほど、胸が痛くなる。
――夕方。
そろそろ学校も終わった頃だろうか、そんなことを考えていると。
――コンコン。
扉を叩く音がした。
「お嬢様。リタ様がお見えです。お加減はいかがですか?」
「え? リタ? ……どうぞ」
そう答えると、ゆっくりと扉が開いた。
「スピカ……」
部屋に入ってきたリタは、一瞬驚いたような顔をした。
無理もない。私は今日一日、ベッドの上からほとんど動いていなかった。髪は乱れ、部屋着も皺だらけ。貴族である私たちは、家の中にいても、急な来客があっても対応できるようにある程度身なりを整えている。
だからこそ、今の私の姿は、リタにとって珍しいものだったのだろう。リタは何も言わず、私のベッドの横まで歩いてくる。そして椅子に腰を下ろすと、そっと私の手を握った。
「スピカ」
「今日お休みと聞いて、心配で見に来たんです」
「……うん。ごめんね。急に休んだりして」
「いいえ」
リタはゆっくり首を横に振った。
「たまには休んだっていいんです」
「……」
「何があったか、聞いてもいいですか?」
私は答えられなかった。そんな私を見て、リタは優しく続ける。
「ゆっくりでいいです。聞かせてください」
その優しい声に、私は、もう隠せないと思った。
「私ね……気づいたの。好きな人がいるの」
リタは静かに頷いた。まるで、私が気づくよりもずっと前から知っていたように。
「でもね」
声が震える。
「その人には、好きな人がいるみたい」
「え……?」
リタが目を見開いた。
「それは、アルクス様がおっしゃったんですか?」
名前は出していない。それなのに……やっぱり。リタには全部わかっていたらしい。
「ううん。婚約してるって聞いて」
「それはアルクス様から聞いたんですか?」
リタはもう一度、同じ質問をした。
「ううん。違う」
確かに、アルクス本人から聞いたわけではない。
でも、コーネリア様との関係。二人の距離感。そしてデビュタントのパートナーが決まっているという言葉。私には、それが答えにしか思えなかった。
「じゃあ……」
リタは少し考えるように俯いた。
「私は、一度アルクス様ときちんと話してみた方がいいと思います」
「でも……」
私はぎゅっとシーツを握る。
「私、振られるのが怖い……。自分の気持ちなんて、アルクスに話せない」
涙が溢れてきた。
「今の私、醜いの……。汚い感情がいっぱいなの。コーネリア様を見たら嫌な気持ちになるし。アルクスが他の人といるだけで苦しい。こんな自分、嫌なの」
自分の中に溜め込んでいた感情を、初めて言葉にした。すると、涙が止まらなくなった。
リタは何も言わなかった。ただ、そっと私を抱きしめてくれた。
「スピカ」
優しい声が耳元で聞こえる。
「スピカは本当に、アルクス様が好きなんですね」
「……っ」
「その気持ちは決して醜いものではありません。私は、スピカがせっかく自覚したその気持ちを、そんな風に思ってほしくないんです」
「……」
「恋をしたら、嬉しいだけじゃありません。不安になることも、嫉妬することも、怖くなることもあります……でも」
リタは私の背中を優しく撫でた。
「それだけ大切な人ができたということなんだと思います」
「……っ」
また涙が溢れる。
「きっとアルクス様なら」
リタは優しく微笑んだ。
「スピカのことなら、どんな気持ちでも聞いてくれると思います」
その後、私が泣き止むまで、リタはずっと抱きしめてくれた。
結局、リタはそのままキャンベル家に泊まることになった。その夜、私は今まで誰にも話していなかった自分の気持ちを、リタにたくさん聞いてもらった。
アルクスと初めて会った時のこと、魔法を教えてもらったこと、一緒に出かけたこと。狩猟大会で泣いた時、頭を撫でてくれたこと。
思い返せば、最初から――。私はずっとアルクスのことが好きだったのかもしれない。
リタはそんな私の話を、最後まで何も否定せず聞いてくれた。
◇◇◇
――翌朝。
目を覚ますと、昨日まで胸の中を埋め尽くしていたドロドロとした感情が、少しだけ消えていた。
まだ不安はある。怖くないわけじゃない。でも、不思議なくらい心は軽かった。
「リタ、おはよう」
「おはようございます、スピカ」
リタはすでに起きていて、身支度を整えていた。
「昨日は本当にありがとう」
「いいえ」
リタは微笑む。
「私はスピカの友達ですから」
その言葉が嬉しくて、私は少し笑った。
二人で朝食を食べ、いつものように身支度を整える。そして、一緒に学校へ向かった。




