第48話 「呼び方」ひとつで何が変わる
名札が、指の中で小さく歪んでいた。
気づいた時には、端を折り返していた。紙の厚みが薄いのに、角だけが鋭い。4文字——「書記官候補」という役職と、わたくしの名前。議場前廊下の冷えた空気の中で、その紙がやけに重く感じた。今日、あの場所で、わたくしは何と呼ばれるのだろう。呼び方1つで、立場が変わる。昨夜からずっと、胸の奥でその問いが鈍く転がっていた。
廊下の奥から銀の鐘が1度だけ鳴った。開廷の合図だ。
足が、ひと呼吸だけ止まりかけた。
隣でレオン様が歩調を崩さず進んでいる。銀灰の髪が廊下の灯りに触れ、深い紺の瞳は議場の扉を真っ直ぐ見ている。揺れがない。その揺れのなさが、今だけは背骨の代わりになった。わたくしは名札を袖の下に滑らせ、扉の前に立った。
今日の呼び方が、わたくしの居場所を決める。
そういうことに、なっていた。
ロイドが後ろで小さく息を整えた。段取り表を腕に抱え直す音がする。封蝋の棒は今日、正しく向きで持っている。確認した。昨夜の内に確認した。
扉が、内側から開いた。
議場の空気が、廊下の空気と全然違った。冷たく、高い。石造りの天井が声を吸い上げ、代わりに緊張を降らせてくる。正面の席に裁定長アデルバルトが座っていた。白い手袋を膝に重ねて、入場してくるこちらを無言で測っている。数秒で人数を数え、役職を測り、持ち込んだ書類の量を確かめる。感情を出さない目だ。
反対側の席には、グレゴールがいた。
磨かれた靴、硬い襟。ただ指先だけが、紙の白い粉で汚れていた。本人は気づいていない。その指先が、机の上の書類に触れてはすっと引く動作を繰り返していた。
「辺境公爵レオンハルト・フォン・ヴァイスガルト。随行は」
裁定長が口を開いた。問いではなく確認の声だ。
「書記官、セレスティーヌ・フォルセットです」
レオン様が、間を置かず答えた。
短い。飾りがない。余分なものが何もない。でも、その1語に、わたくしはしばらく動けなかった。役職を先に言って、名前を後に続けた。書記官として、わたくしの名前を出した。わたくしが言うより先に、彼がわたくしを名付けた。議場の奥から、かすかにざわめきが動いた。
「名を告げよ。記録に残す」
裁定長が続けた。わたくしは顔を上げた。
「セレスティーヌ・フォルセット。書記官候補です」
声が、震えなかった。
裁定長が1度だけ頷き、手元の帳面に何かを書き込んだ。その書き込みの音が、議場にひっそりと響いた。
名前が、記録に落ちた。
胸の中で、何かがほんの少しほどけた。
間を置かず、グレゴールが口を開いた。
「……記録係が、名乗りを行う必要がある場とは思えませんが」
滑らかな声だった。抑えてある。けれど、意図が全部入っている。記録係。その2文字が、空気の中にゆっくりと広がっていく。わたくしの立場を縮める設計の言葉だ。
「ただの記録係が発言できる場ではないと、規定にも——」
「記録係ではありません」
レオン様の声が、遮った。
1語。静かで、短い。圧をかけていない。それが余計に、重い。
「記録係じゃない。……セレスティーヌだ」
議場の空気が止まった。
わたくしの胸の中でも、何かが静止した。名前を呼ばれたことは、ある。でも、こんなふうに呼ばれたことは、1度もない。公の場で、宣言のように、余分を削って名前だけで。飾りでも役職でもなく、ただわたくしの名前が議場に置かれた。
指先が袖の下の名札を探した。紙の端が、そこにある。
呼び方が飾りだと思っていた。でも違う。呼び方は、居場所だ。どこに立っているかを、言葉で刻む行為だ。それが今、公の場で、彼の口から出た。
グレゴールの唇が、1度閉じた。開く。また閉じる。指先が再び書類の縁を拭く仕草をした。机の上には何もないのに。
「……規定では」
「提出順を守れ。——順は、嘘を暴く」
裁定長が口を挟んだ。白い手袋の指が、書類を1枚ずらした。
「発言より先に、証拠を提示せよ。本来の順序だ」
わたくしは帳面を開いた。
昨夜、整理し直した欠落索引の束。第14番から第19番。参照欠落——F03の逆算線。抜かれた参照札の方向を書庫の収受記録と並べた時に見えた、指紋のような痕。欠落がどこへ向いているか。それを素直に並べると、指先がある場所が浮かび上がる。
「欠落索引、第14番から第19番を提示します」
帳面を開いて、1枚ずつ取り出した。1枚、2枚、3枚。机の上に順番に置いていく。
「参照先が欠けている方向が、全件において、同じ起票者欄を向いています。前後の第13番と第20番には正常な参照が残っている。欠かし方がそろっています。偶然の欠落ではなく、設計された欠落です」
グレゴールの指先が、また動いた。
インクが付くのを嫌う動作。でも机の上には紙粉しかない。それが今は、答えになっていた。
「……そのような状況証拠では、直接の関与は——」
「提示順を守った。発言は後だ」
レオン様が静かに断ち切った。裁定長がわたくしに目を向けた。
「続けよ」
4枚目を置いた。5枚目を置く。
そして最後に、封蝋の欠片を1つ、束の端に並べた。
まだ提示しない。次の段階のための前置きとして。でも置いた瞬間、グレゴールの目がそこへ引き寄せられた。視線が欠片の上で止まり、それからわたくしの顔に移った。
引っかかった。
後ろでかすかな音がした。ロイドが何かを堪えていた。振り返らなかったが、気配でわかる。右手が胸に当てられていた。拍手をしかけた手を、自分で止めた形だ。
「……今は」
そっと言うと、ロイドが深く息を吸って、押し込んだ。立派だと思った。
帳面を閉じた。
「承知いたしました。——では、その名で公に残します」
声が、凪ではなかった。
凪の代わりに、別のものが入っていた。言葉を選ぶより先に出てきた声で、それでも揺れなかった。震えなかった。指先も、止まらなかった。
裁定長が鐘を1度だけ鳴らした。
その音が、高い天井に吸われていくのを聞きながら、わたくしは机の端の封蝋の欠片を見た。
欠落の並びと、この印。2本の糸がすでに手の中にある。次の提示で繋がる。その瞬間に、浮かび上がるものがある。
グレゴールがまだ気づいていないことを、机の上のその欠片は、もうすでに知っている。
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