第47話 言葉を差し出しかける
言葉の輪郭が、空気の中に残っている。
帳面を閉じ、わたくしは顔を上げた。レオン様はまだ段取り表に視線を落としていた。口を閉じて、先ほどの続きを探すように黙っている。あの口が開いた形——何かを言いかけて引っ込めた、その残骸が、夜の書庫にぶら下がっている。
時計が3つ、針を進めた。
「……セレス」
突然だった。
声が低く、ほんの少しだけかすれていた。わたくしの名前を呼ぶ声で、こんな音を聞いたことがない。呼びかけというより、吐き出しそこなった何かが、端を噛んで出てきたような声だった。
顔が上がる前に、彼は続きを止めた。
外套の裾が、膝の上でかすかに揺れた。手元の羊皮紙を、指先で一度だけ折り曲げる。また戻す。指先の癖が、言葉の代わりに動いている。
「……何かありましたか」
わたくしが問い返すと、彼は視線を窓の方へ向けた。夜が薄れかけている。暗いが、東の端が数時間後には白む色をすでに孕んでいる。
「いや」
それだけだった。続きが来ない。言葉はまた、机の上に置き去りにされた。
わたくしは手元の帳面を引き寄せ、昨夜の続きを広げた。焦げ跡の記録。保管庫の壁に残った薄い灰の筋。炎が届いた、その痕だ。
文書の1枚が、端を焼かれていた。半分以上は残っている。残った方に、封蝋の印があった。
わたくしは指先を伸ばして、その印をそっとなぞった。
指の腹に、でこぼこした感触が返ってくる。蝋が溶けて固まった証拠。押された紋章。焼かれても、これだけは残った。灰の下から浮いてくるように、印だけが鮮明だった。
燃やされた、と思っていた。燃やされたから、証拠がなくなる、と。
でも違う。焼けたからこそ、この印が浮いた。焦げた紙の上に刻まれた形は、かえって鮮明だ。燃やそうとした手が、逆に刻み込んでしまったのだ。
「F02……封蝋の印、浮出し確認」
声に出して、帳面に書き込んだ。文字が紙の上に落ちていく。証拠が、積み上がる。消えない。
扉の向こうで足音がした。ロイドだ。間合いの取り方でわかる。
「失礼いたします」
ロイドが入ってきた。今日は手袋が1枚しかない。代わりに、封蝋の棒を逆さに持っていた。蝋を垂らす方が上を向いている。
わたくしは立ち上がって、無言で封蝋の棒を持ち替えた。ロイドが「ああ」と気づいた顔をして、小さく頭を下げた。生活感が、ほんの少しだけ空気をほどいた。
「受領印の件です」
ロイドが机の上に紙を3枚広げた。
「グレゴール様が提出した記録の受領印を突き合わせました。第14番から第19番の文書、全6件。先方の帳面には受領済みと記録されています。しかし、こちら側の収受記録には、1件も対応する印がありません」
6件、とわたくしは帳面に書き込んだ。
「受け取りがないのではなく」
「はい。受け取った記録がないのです。受領印が薄いのではなく、欄そのものが空白です」
空白。
沈黙が3秒続いた。レオン様が段取り表を手に取って、ロイドの紙の隣に並べた。提示順の表を指で押さえながら、目だけが動く。
「6件全部か」
「念のため、第13番と第20番も確認しました。こちらは正常に受領されています。つまり、第14番から第19番だけが、意図的に受領を飛ばされた形です。前後には正常な印が残っている。飛ばし方が計算されています」
飛ばし方が計算されている。
わたくしは指先が冷えるような感覚で、その言葉を繰り返した。前後を残して、中だけを消す。前後が正常だから、途中を疑わなければ見えない。欠落を、欠落として見せないための設計だ。
「欲しいのが記録なら、渡しません」
口から出た言葉が、自分でも予想していない声量だった。
レオン様が顔を上げた。ロイドが静止した。
「……渡さないとは」
「わたくしが作った記録です。わたくしが5年かけて、骨にした仕事です。渡したくないんです。奪わせたくない。……わたくしの骨です」
声が、かすかに震えた。震えたが、止まらなかった。道具扱いはされない。ただの記録係、ただの機能、ただの有用な手段——その言葉に頷き続けた時間は、もう終わりにする。
レオン様が、一度だけ段取り表を机に置いた。立ち上がる気配がして、わたくしは無意識に後ろへ半歩下がった。
彼は来なかった。
ただ、静かな声で言った。
「君を機能と呼ぶやつは、明日——俺が止める」
短い。
でも、その短さに、言い訳が1つもない。飾りがない。彼が本当に言いたいことだけが入っている声だった。
わたくしは帳面を胸に引き寄せて、深く息を吸った。
窓の外が、ほんのわずかだが明るみ始めていた。夜が終わる。数時間後、公開裁定の議場で、あのグレゴールと向き合う。受領印の空白を突きつける。封蝋の印を並べる。例外条項で管轄を固める。段取りは整った。
でも今、わたくしの頭にあるのは段取りではなかった。
「セレス」と呼びかけて、続きを飲み込んだあの声。止まったまま、机の上に残っている言葉。明日、公の場で——
彼は、わたくしをどう呼ぶのだろう。
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