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「完結済」「記録しか取り柄がない」と婚約破棄されたので、引き継ぎ書類だけ置いて静かに去りました  作者: 夢見叶
第8章 全回収と幸福の刻印

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第46話 裁きの朝まで、あと一夜

 書庫に入った瞬間、目が痛んだ。


 灯りが多い。いつもの倍以上ある。壁の燭台は全部に火が入り、机の上にも3本の蝋燭が立っている。天井近くの棚の影まで、すっかり照らし出されていた。昨夜のあの焦げた匂いの中に立って眺めると、書庫が別の部屋になったような気がした。


「……監視ですか」


 口をついて出た。書庫の入り口に背を預けたレオン様が、わずかに眉を上げた。


「灯りは消さない。……執務だ」


 短く、それだけ言って、視線を窓の方へ向けた。暗い夜の色が、硝子の向こうに張り付いている。


 監視ではない、とわかっている。でも「執務だ」と言い切る声の、何かが詰まったような間が、わたくしには消えなかった。灯りは確かに温かい。温かいと思うことに、まだ少し戸惑う。


 机に向かった。帳面を開く。封印痕の記録を昨夜から続けている。保管庫の鍵穴の縁に、細い傷がある。封蝋の割れ目の方向が、鍵の抜き差し方向と一致しない。つまり、鍵ではない何かが入っていた。左側の傷の深さが右より浅いのは、利き手が左の者が焦って作業をしたからか、それとも――


「F06……封印痕、内側」


 声に出して確かめる。帳面に書き込む。傷の方向、深さの差、割れ目の位置。文字が、手の中に納まっていく。昨夜の震えはもうない。書いているあいだは凪でいられる。これが、わたくしの作り方だ。


 扉が開いて、ロイドが入ってきた。段取り表を2枚、腕に抱えている。手袋が、また二重になっていた。


「明朝の入場順と提示順の確認です。裁定長アデルバルト様の取り決めでは、申立側が先に提出箱へ書類を納め、被申立側がその後——ただし、書類の受理確認に最低でも30分を要します。書類枚数が多い場合は、追加で時間が伸びます」


「どれだけ伸びますか」


「念のため、1時間と見ています」


 1時間。帳面の余白に書き込んだ。段取り表を受け取って、提示順の列を目で追う。欠落束が5件、受領印の要確認が3件、封印痕の記録が1件——並べ方は悪くない。でも、1つだけ気になった。


「例外条項の提示が、後ろになっています」


「はい。最後に管轄の確定として出す予定で」


「先に出した方がいいです。逃げ道を塞ぐ順番として、まず管轄を固めてから欠落と印を出した方が、相手が途中で話の筋を換えられません」


 ロイドが段取り表の該当列に丸をつけた。真顔のまま、すばやく動く。


「夜食は蜂蜜を……」


 ロイドが言いかけた瞬間だった。


「今は!」


 声が2つ、重なった。レオン様とわたくしの声が、ほぼ同時に出た。ロイドが蜂蜜の小瓶を机の端に静かに置き、一歩退いた。空気が、ほんの少しだけ緩んだ。


 レオン様が机に近づいてきた。羊皮紙を1枚、広げる。条文の束だ。例外条項の原本。ページを繰る音だけが、しばらく響いた。


 彼はどこかのページを開いたまま、付箋を1枚、取り出した。声に出さない。署名欄の横に、付箋をそっと貼り付ける。


 わたくしは思わず立ち上がって、横から覗き込んだ。


 付箋に書かれた文字は少ない。「第7条第3項:上位命令による上書き不可」。それだけだ。


「……王命でも」


「越えられない線だ。この条項が通れば、裁定の管轄はこちら側に固定される。相手がどの権威を出してきても、この条の外に出ることはできない」


 声に出さなかった理由が、少しわかった気がした。言葉にすれば呪いになる。言葉にする前に、紙に刻む。それが彼のやり方だ。


 付箋を貼った条文を、静かに段取り表の間に差し込んだ。


 時計の音が、規則正しく刻んでいる。窓の外は、まだ真夜中の黒だ。


 ここで、ふとわかった。


 来る。


 来ると言った。ロイドが昨夜「今夜、もう1度」と言った。その今夜が、今だ。燭台の灯りが揺れた気がして、思わず窓を見た。揺れていない。揺れたのは、自分の視界だった。


「……大丈夫です」


 声に出したのは、自分に言い聞かせるためだった。帳面を開いたまま、記録を続ける。封印痕の傷の深さ。灰の散らばり方。小火の痕が内側寄りだったこと。1つずつ書いていく。書けば証拠になる。証拠は燃やされない。消えない。


 でも、手が止まった。


 部屋の中の灯りが、いつのまにかひとかたまりの温もりになっていた。壁の影まで払われた書庫に、レオン様が椅子を引いて、机の端に座った。羊皮紙を手に持ったまま、視線をわたくしの方には向けない。向けないが、隣にいる。


 一人にしない形で、そこにいる。


 そのことが、だしぬけに胸に触れた。


 昨夜まで、灯りは目が覚める感じがした。監視、という言葉が先に来た。でも今、この温度は違う。安心という言葉を思い出した。安心を差し出されることが、これほど慣れていないとは思っていなかった。


「執務なら、隣に座ってください。——一人にしないで」


 声に出てしまっていた。


 彼が顔を上げた。静かな紺色の瞳が、真っ直ぐこちらを見た。


 わたくしは帳面を胸に引き寄せて、続けた。


「記録は消せません。……でも今夜、もし来たら、一人でいる時に来てほしくないんです。1人で書庫にいる時には、来てほしくない」


 沈黙が、1秒だけ続いた。


 レオン様が、椅子をわたくしの机の横に動かした。音を立てずに引いて、腰を下ろした。外套の袖が、机の端でわずかに重なるくらいの距離に。


 それだけだった。


 彼は何も言わなかった。言わなかったが、隣にいた。


 窓の向こうに、小さな音がした。風かもしれない。枝が揺れただけかもしれない。耳を澄ませたが、続かなかった。灯りが、また静かに揺れた。今度は本当に揺れた。


 手元に戻って、記録を続けた。封印痕が、証拠になる。欠落の並びが、指紋になる。小火の手口が、焦りを証明する。敵が焦っているのは、こちらが追い詰めているからだ。燃やしに来るのは、燃やさなければ間に合わないからだ。


 不利ではなかった。


 来ることが、来るほど、証拠が積み上がっていく。


 帳面に「来るなら来い」とは書かなかった。でも、指先の震えがなかった。


 ロイドが扉の外に戻った。レオン様が段取り表の最後の行に目を落としたまま、何かを書き込んでいる。羊皮紙のこすれる音と、時計の音だけが響く。


 静かだった。静かなまま、夜が続いていく。


 明日の前に——彼が顔を上げた。段取り表を机に置いて、わたくしの方を向いた。何かを言いかける形に、口が開いた。


 でも、言葉は、出なかった。


 彼はしばらくそのままでいた。口を閉じて、また段取り表に視線を戻した。


 言いかけた言葉の輪郭が、空気の中に残っている気がした。何だったんだろう、と思いながら、わたくしは帳面を1ページめくった。


読んでいただき、ありがとうございます。


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『名前を呼ばれない婚約者を捨てたら、筆跡で見つけた公爵様に溺愛されました』
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