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「完結済」「記録しか取り柄がない」と婚約破棄されたので、引き継ぎ書類だけ置いて静かに去りました  作者: 夢見叶
第8章 全回収と幸福の刻印

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第43話 焦げた匂いは、誰の合図

 窓の外から、匂いが来た。


 深夜の冷えた空気に溶けて、かすかだけれど確実に、その匂いはあった。紙が燃える時の、あの特有の苦みを持つ匂い。数え切れないほどの枚数に触れてきたわたくしには、灯芯の焦げとも獣脂の煙とも、すぐに区別がつく。これは紙だ。しかも乾いた、古い紙だ。


 書庫の方角から来ていた。


 わたくしは筆を置いた。白紙に書きかけた「レ――」の文字が、止まったまま机に残った。立ち上がる前に1度だけ、帳面の背表紙に手が触れた。触れて――握り直した。落ち着け。走ってはいけない。でも歩くには、匂いが近すぎた。


「レオン様」


 声が出た。振り返る前に、彼はもう机から立ち上がっていた。


 書庫への廊下を走らずに、しかし速く歩いた。足音が石の床を3つ、叩く。前を行くレオン様の外套の裾が、暗がりの中で揺れる。後ろからロイドが灯りを持ってついてくる気配がした。


 扉は、閉まっていた。炎も煙も、見えない。でも匂いは確かにここから来ている。かすかな熱が、扉の下の隙間から滲んでいた。わたくしが1歩踏み出そうとすると、レオン様の腕が先に出た。


「待て」


 1語だった。押さえるのでなく、わたくしと扉の間に割り込む形で、腕が静かに来た。扉を開けたのは彼だった。蝶番が低い音を立てる。


 中は暗かった。薄い煙が書架の間を這い、古い紙の匂いと焦臭が混じっている。床の石畳の端に、火種だけが、じわりと残っていた。紙の切れ端に、まだ赤みが残っている――あと少しで消えるほどの、小さな残り火だった。


「踏め」


 ロイドが即座に踏んだ。靴底が石の上で1度擦れた。消えた。


 静寂が戻ってきた。


 わたくしは書架へ向かいかけて――背表紙に手を伸ばしかけて、止まった。触れてはいけない。触れる前に、状態を記録しなければならない。帳面を出した。手が、かすかに震えた。気づかないふりをした。


 書庫の文書は、乱れていない。棚の並びも、表紙の向きも、そのままだ。狙いは文書そのものではなかった――まだ。来た痕跡だけがあった。


 保管庫の前に来た時、ロイドが息を詰めた。


「……扉の封が」


 封蝋が、割れかけていた。蝋の端が欠け、亀裂が走っている。外側から内側へ向かう形だ。昨日確認した時、ここは無傷だった。誰かが触れた痕だ。開けようとした――もしくは、封印を確かめた後で退いた。


 ロイドは白手袋を2重に重ねながら、扉の縁を覗き込んだ。真顔のまま、低い声で言った。


「念のため。今夜の状態をそのまま保存します。……触れずに記録だけ」


「承知しました」


 返しながら、帳面を開いた。亀裂の向きと長さ、欠けた蝋の形状、封印の外縁との距離。手が震えないよう、帳面を机の端で支えた。それでも文字がわずかに揺れた。揺れを止めようとせず、そのまま書いた。震えが止まるまで待っていたら、記録が遅れる。


 裏口へ向かう通路が、まだわずかに温かかった。


 3人で裏口へ向かった。レオン様が灯りを高く持ち、わたくしの左隣に位置を取った。気づいた時にはすでに、彼の腕がわたくしと通路の壁との間にあった。守るためでも引くためでもなく、ただ隣に、いた。


 裏口の扉は、開いていた。夜の外気が冷たく流れ込んでいた。足跡がない。砂利の乱れもない。人が逃げた形跡が、丁寧に消えている。追っても捕まらない相手だ、とわたくしは静かに思った。慌てて出た痕跡がない。段取りを持って来た、ということだ。


「逃している」


 レオン様が短く言った。苛立ちではなく、事実だった。


「追いますか」


 ロイドが問う。


「追わない。今夜は捕まえるより先に、残したものを拾う」


 彼が振り返って、わたくしを見た。灯りの光の中で、紺の瞳がわたくしの顔を真っすぐに見た。見られていると気づいた瞬間、胸の中で何かが揺れた。


「怖いなら、言え。……黙って奪わせる方が、俺は嫌だ」


 息が、一瞬だけ消えた。


 怖い、と声にする許可を、人からもらったことが――なかった。凪がせることで守ってきた。怖いという感覚より先に、仕事の手順が浮かぶように、5年間かけて慣らしてきた。それを「言え」と言われた。それだけのことなのに、胸の揺れが止まらなかった。


「……怖いです」


 声が出た。低かった。でも出た。


「書庫が燃える怖さじゃないんです。記録が燃えることが、怖い。……わたくしが1行ずつ積み上げた5年分が、消えることが」


 彼は何も言わなかった。ただ、持っていた灯りを少し高く掲げた。通路が明るくなった。それだけだった。それで、十分だった。


 机に戻ると、ロイドが書庫の床から紙片を2枚、取り上げていた。灰が端についた、薄い紙だ。白手袋で挟むように持ち、机に平置きにした。


「材質が分かるか」


 レオン様が問う。わたくしは屈んで、紙の端を確認した。焦げた縁から、指で押せばほぐれる程度の灰が落ちた。文字はほとんど読めない。でも紙の地は読める。薄く、目の細かい、上質な紙だ。王都の書類官が好んで使う種類だ。


「王都系の書類に使われる地です。……領の書庫のものではありません」


 レオン様が低く頷いた。


 帳面を開いた。灰の色、付着の範囲、焦げの形状。封蝋亀裂の向きと深さ、外縁からの距離。そして匂い――「紙の燃焼臭、古い乾燥紙の特徴。蝋燭・獣脂とは異なる」と書き入れた。最後の1行に、時刻を書いた。夜明けまであと2時間ほどだった。


 消せないんです。記録は。


「……だから、燃やされる前に刻みます」


 声に出していた。書き終えてから気づいた。


 レオン様が机の端へ歩いた。カップの位置を3度、かすかに直した。直してから手を止めた。いつもと同じ仕草だ。確かめた、という合図だ。


 見上げると、書庫の灯りがさっきより増えていた。いつ増やしたのか、わたくしは気づかなかった。でも増えていた。暗い場所に、光が足されていた。


 灰の紙片をもう1度見た。


 ただの事故ではない、とわたくしは思った。火種を置いて逃げた誰かは、燃えることより「来た」という跡を残すことに、今夜は重きを置いていた。合図だ。この匂いは、焦りが形になったものだ。裁定まで7日――7日、こちらには猶予がある。でも向こうには焦りがある。それが今夜の答えだった。


 レオン様が灰の紙片から目を上げた。


「7日、猶予がある。向こうが焦るなら、土俵はこちらが決める。……手続きの順は、命令より先だ」


 それだけ言って、机のカップを3度、かすかに直した。ロイドが段取り表を広げた。入場順と提示順が細かく書き込まれた、几帳面な字の表だ。


「裁定まで、残り7日を切っています。証拠束の移送と、保管庫の鍵の扱いを――今夜のうちに決めておかないと」


 机の上に、帳面と灰の紙片と、証拠束がある。全部を同じ机に置いて、わたくしは考えた。


 燃える前に守る。そのために、どれを先に抱えるか――まだ、決まっていない。


読んでいただき、ありがとうございます。


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