第42話 最終通告、残り七日
封蝋は、割れていなかった。
ロイドが差し出したその文書を、わたくしは書庫の机の上で受け取った。赤い蝋が朝の光を吸って、ぬるりと光っていた。蝋の表面には王家の紋。手が、かすかに冷たかった。気づかないふりをして、索引札を1枚、揃えた。揃えずにいられなかった。
「開けます」
声が平らに出た。自分で驚いた。平らに出たのは、恐れていたからだと、開けてから分かった。
封蝋を割る音が、書庫に短く響いた。
文書を広げた瞬間、目が文字を追った。追いながら、意味が体の中へ落ちてきた。
「……条約に関わるすべての記録を、七日以内に王都へ引き渡せ」
声に出したのは、確認のためではなかった。耳で聞けば、夢ではないと分かると思ったからだ。でも聞いても、消えなかった。遅延した場合は強制収去とする、という一文が、文書の下段に整然と並んでいた。署名は監査官カシウス・グレーの名。封蝋は王家の紋だった。
わたくしは文書から顔を上げた。手元の帳面の背表紙に、指が触れていた。気づかなかった。触れている。撫でている。それだけで、少し、息ができた。
5年前の重さが、戻ってきていた。謁見の間で名前が落ちた時とは違う。あの時は婚約が終わった。今は——記録が、終わろうとしている。わたくしが1行ずつ積み上げた時系列表が、欠落の並びが、受領印の写しが——全部、王都へ消える。
「渡しません」
口から出た言葉は、思ったより速かった。
「欲しいのが記録なら、渡しません。……わたくしの骨です」
レオン様が振り返った。ロイドが息を詰める音がした。部屋が、一瞬、静止したように感じた。わたくしは帳面を両手で持ったまま、続けた。震えていたのかもしれない。でも声は、出た。声が出た、という事実だけを確かめながら、続けた。
「参照欠落の記録も、受領印の突き合わせも、時系列表も、わたくしが1行ずつ書きました。誰かの命令で渡す理由が、ありません。……改竄と切り抜きは許しません。それは記録の話だけではないんです」
沈黙が、3秒、伸びた。
「そうだな」
レオン様が言った。低い声が、静かに落ちた。机の端のカップへ手が伸びて、位置を3回、かすかに直した。それから手を止めた。珍しかった。直し切らないまま、止めた。
「渡す必要はない。——こちらが土俵を変える」
わたくしは顔を上げた。
「裁定の場を、この領で開く。七日後、こちらで証拠束を並べる。王都が引き渡せと言うなら、先に正式な手続きを持ってこさせる。盟約の例外条項がある——この領内の案件は、まず領主の審理が先だ」
机の上の文書を指で押さえた。その指先が、静かだった。押さえたまま、動かなかった。重さを確かめるような、そういう静かさだった。
「七日後、俺が言う。——彼女は客人じゃない。俺の隣だ」
胸の中で、何かが揺れた。揺れた、と気づいた時には、すでに息が消えていた。隣、という言葉が、どこか予期していない場所に落ちてきた。わたくしは帳面の縁を握り、頷いた。声が出なかったから、頷いた。
それで十分だった。
準備は、昼を越えて夜まで続いた。
証拠束を3度、組み直した。時系列表の写しを2部作り、欠落の並びを色違いの索引札で区切った。ロイドが出入りするたびに机が少しずつ片付いて、また別の帳面が積まれた。
夕刻、ロイドが書庫へ戻ってきた時、両手に白手袋を重ねてはめていた。表情は真顔だった。
「今夜は私が書庫になります」
わたくしは手を止めた。
「……保管庫、ですよね」
レオン様が低く、1度、咳払いをした。ロイドは首を傾けた。
「機能的には同義かと存じますが」
「同じではありません。書庫は分類があります」
「では私は、分類付きで守ります」
そう言って、ロイドは扉の前に立った。帳面に何か書き入れようとして、やめた。笑いかけていた。証拠束を仕上げてからにしようと思った。
深夜に差し掛かった頃、封蝋つきの文書をもう1度、手に取った。
目が、蝋の端に止まった。
細い亀裂が入っていた。最初に受け取った時には気づかなかった。でも今、窓の灯りに近づけると、蝋の割れ方が外側からではない。割れた方向が、内側へ向かっている。誰かが一度、触れた——開封される前に。
指で、亀裂の縁をそっとなぞった。ざらりとした感触の中に、かすかに焦げたような匂いが残っていた。蝋そのものの匂いとは、違う。
帳面に1行、書き入れた。「封蝋:亀裂あり、内側方向。微かに焦臭」と。
レオン様がわたくしを見ていた。
「気づいたか」
「はい。……届く前に、誰かが触っています」
彼は文書を受け取り、亀裂を確認した。指が亀裂の縁で1度だけ動いた。カップの時の3回ではなく、1度だけ。それが、彼の確信した時の仕草だと、わたくしは知っている。
「使者は一人ではない、ということだ」
それ以上は言わなかった。言わなくても、線は見えた。
夜明けの少し前、証拠束を最後の1つまとめ終えた。
わたくしは新しい白紙に七日後の日付を書いた。「裁定記録」と標題を置いた。担当者の欄が空白になった。筆を持ったまま、止まった。
頭の中に、別の名が浮かんでいた。「俺の隣だ」と言った声が、まだどこかに残っていた。
筆先が、白紙に触れた。
レ——
止めた。
まだ早い。七日後が、終わってから。
筆を置いた瞬間、窓の外から、かすかな匂いが流れてきた。
焦げた匂いだった。
紙が、燃える匂い。
書庫の方角から来ていた。
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