表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
「完結済」「記録しか取り柄がない」と婚約破棄されたので、引き継ぎ書類だけ置いて静かに去りました  作者: 夢見叶
第7章 逆転の実務――記録で国を救う

この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

39/50

第39話  公の場で呼びかけかけて、飲み込む

 評議の間は、薄ら寒かった。


 石造りの壁が熱を吸う関所の会議室は、灯りを四つ並べても温度が上がらない。商人代表が三人、役人が二人、中央の長机を挟んで向かい合っている。ミレイユ評議長は鍵束を膝の上で握りしめ、赤札の縁を親指で撫でながら口を開こうとして、また閉じた。


 上座にレオンがいる。黒の外套に皺一つなく、手だけが机の上でやけに静かだ。私はその二つ隣に座って、記録帳の新しい頁に今日の日付を書いた。


「……それで」


 商人の一人が苛立ちを隠しもせず言った。


「関税の例外条項は生きているのか。期限はいつ更新される。原本は誰が持っている」


 3つの問いが、矢のように並ぶ。


 ミレイユが「こちらも必死でして」と呟き、赤札に指を這わせる。私は羽根ペンを走らせながら、その言葉の後ろに括弧でひとこと、〈前置き、実質答えなし〉と書いた。記録だ。あくまで記録にすぎない。


 そのとき扉が開いた。


 ノックはなかった。


 細身の男が入ってくる。指先が乾いていて、足音だけが神経質に尖っている。カシウスだ。王都の監査名目で関所に入り込んで三日、一度も保管庫の前から離れなかった男。


「失礼いたします」


 謝罪にまったく聞こえない声で彼は言い、上座を一瞥することなく、私の方を向いた。


「書記官――フォルセット嬢でしたか。機密に指定された参照書類を、正規の手続きなしに閲覧した疑いがあります。王命です。書類の一切を、今すぐ王都へ」


 会議室が静まり返った。


 商人の誰かが息を呑む音が、やけに大きく聞こえた。


私は羽根ペンを止めた。帳面のうえに、乾いていないインクが少しだけにじんでいる。


機密。


またその言葉だ。あの言葉は万能刀のように使われる。差し込めば、理屈より先に人を黙らせる。


「……承知しました」


平坦に答えながら、私は記録帳の頁を、音をたてずにめくった。38話で挟んでおいた写しが現れる。薄い。受領印が、紙を透かして見てもほとんど読めないくらい薄い。


「少し、確認させていただいてもよろしいですか」


「何を確認する必要が」


「閲覧記録簿の話です。正規の手続きがなかったとおっしゃるなら、記録簿に空白があるはずです。――その空白は、いつ誰が作ったのか」


カシウスの目が、一瞬細くなった。


「些末な話でしょう、書記官如きには関係のない」


「些末でも」私はその薄い写しを机の上に置いた。音は立てなかったが、室内の目線がそこへ集まった。「受領印の有無は、手続きの正否を決めます。この写しの受領印は、正式な認証を経たものですか」


 カシウスが止まる。


「印……今はそれどころでは」ミレイユが呟いたが、自分でも気づいたように口をつぐんだ。印の薄さは、現場の人間も気づいていたのだ。ただ声に出さなかっただけで。


「印は些末です」カシウスが言葉を選びなおして言う。「問題は書記官が閲覧した内容の性質です。王命によれば――」


「彼女を疑うなら」


低い声が、カシウスの言葉を遮った。


レオンだった。


彼は立っていた。いつのまに立ったのか、私には分からなかった。上座で黒の外套が静止している。視線だけが鋭く、カシウスの方を向いている。


「まず――あなたの受領印を見せてください」


場が、静まった。


今度は先ほどとは違う静寂だった。商人の一人が、身を乗り出した。役人が目を見合わせた。ミレイユが手元の赤札を強く握って、でも指が止まっていた。


「……公爵閣下、それは関係のない」


「関係ある」レオンは短く言った。「この評議は関所の実務整理が目的だ。正規手続きの欠落を問うなら、全ての手続きが対象になる。あなたの通達も含めて」


カシウスの指先が、封蝋の欠片を無意識に撫でていた。私はそれを見た。見て、帳面の端に小さくひとこと書いた。〈印の話、嫌がる〉と。


しばらく沈黙があった。


「……この領の机で書かれる文字は、俺の管轄だ」


レオンが静かに続ける。皺ひとつない外套が、灯りの中で少しだけ揺れた。


「彼女も、だ」


 場が、変わった。


 商人の代表が背を伸ばした。役人の一人が小さく頷いた。ミレイユが指から力を抜いて、赤札がかすかに机に落ちた。


 私を孤立させるつもりで乗り込んできた言葉が、逆に部屋の向きを変えていた。


 カシウスは唇だけで笑った。しかしその目は笑っていなかった。


「……猶予を、差し上げましょう。ただし記録の照合は継続します。手続きの正否については、改めて」


 彼は扉へ向かった。音もなく出て行った。


 扉が閉まって数拍後、ロイドが脇の扉から入ってきた。銀盆に小さな茶器を乗せ、真顔で評議長の前に差し出す。


「議長、蜂蜜はいかがでしょう」


 ミレイユが「……何を」と絶句した。


 私は咳払いを一つした。ロイドが銀盆を引っ込め、「失礼いたしました」と無表情のまま一礼して下がった。評議の緊張が、かすかに緩んだ。


 その後の整理は短かった。受領印の写しを照合に提出することと、閲覧記録簿の空白について評議長が証言を提供することで、暫定合意が成立した。ミレイユは鍵束を持ち直し、「……助かりました」と私の方を見て言った。


 低く、ほとんど聞き取れないくらいの声だった。


 でも聞こえた。


 私は帳面に最後の一行を書いた。走り書きで、少し字が乱れていた。


 廊下へ出ると、灯りが一つ少なかった。石造りの廊下は夕方でも暗く、関所の外から風が入って、蝋燭が揺れていた。


 レオンが先に廊下に出ていた。


 私を見た。


「お疲れさまでした」と言おうとして、止まった。


「……セレス」


 彼が口を開いた。


 私の名前だ。書記官でもフォルセットでもなく、ただの私の名前を、低い声が呼びかけた。


 胸の中で何かが、止まった。


 でも彼はそこで黙った。


 黒の外套が灯りの中に立って、手元だけが、妙に静かになっていた。カップの位置を直す癖が出そうになって、でも手元にカップがないから、指が止まっていた。


 次の言葉が、来なかった。


 飲み込んだのだ、と私は思った。


 何かを言いかけて、飲み込んだ。


「……ご苦労だった」


 代わりに出てきたのは、それだけだった。


 私は帳面を胸に当てた。背表紙が擦れた指に触れる。ゆっくり、呼吸を整えた。


「……承知しました」


 答えた自分の声が、いつもよりわずかに小さかった。


 ロイドが廊下の端から戻ってくる足音がした。いつのまにか手袋を三枚重ねてはめていて、何かを言いかけてから止まった。


 その夜、書庫へ戻る道で、私はかすかな匂いを嗅いだ。


 焦げた、紙の匂い。


 振り返っても、廊下には何もなかった。でも匂いは消えなかった。関所の保管庫の方角から、確かに漂ってきていた。


読んでいただき、ありがとうございます。


よければブックマーク・評価・いいねなどしていただけるととても嬉しく思います。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
★ ▼3/19より新作短編公開中 ★

↓タイトル押すと作品サイトに飛びます↓
『名前を呼ばれない婚約者を捨てたら、筆跡で見つけた公爵様に溺愛されました』
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ