第39話 公の場で呼びかけかけて、飲み込む
評議の間は、薄ら寒かった。
石造りの壁が熱を吸う関所の会議室は、灯りを四つ並べても温度が上がらない。商人代表が三人、役人が二人、中央の長机を挟んで向かい合っている。ミレイユ評議長は鍵束を膝の上で握りしめ、赤札の縁を親指で撫でながら口を開こうとして、また閉じた。
上座にレオンがいる。黒の外套に皺一つなく、手だけが机の上でやけに静かだ。私はその二つ隣に座って、記録帳の新しい頁に今日の日付を書いた。
「……それで」
商人の一人が苛立ちを隠しもせず言った。
「関税の例外条項は生きているのか。期限はいつ更新される。原本は誰が持っている」
3つの問いが、矢のように並ぶ。
ミレイユが「こちらも必死でして」と呟き、赤札に指を這わせる。私は羽根ペンを走らせながら、その言葉の後ろに括弧でひとこと、〈前置き、実質答えなし〉と書いた。記録だ。あくまで記録にすぎない。
そのとき扉が開いた。
ノックはなかった。
細身の男が入ってくる。指先が乾いていて、足音だけが神経質に尖っている。カシウスだ。王都の監査名目で関所に入り込んで三日、一度も保管庫の前から離れなかった男。
「失礼いたします」
謝罪にまったく聞こえない声で彼は言い、上座を一瞥することなく、私の方を向いた。
「書記官――フォルセット嬢でしたか。機密に指定された参照書類を、正規の手続きなしに閲覧した疑いがあります。王命です。書類の一切を、今すぐ王都へ」
会議室が静まり返った。
商人の誰かが息を呑む音が、やけに大きく聞こえた。
私は羽根ペンを止めた。帳面のうえに、乾いていないインクが少しだけにじんでいる。
機密。
またその言葉だ。あの言葉は万能刀のように使われる。差し込めば、理屈より先に人を黙らせる。
「……承知しました」
平坦に答えながら、私は記録帳の頁を、音をたてずにめくった。38話で挟んでおいた写しが現れる。薄い。受領印が、紙を透かして見てもほとんど読めないくらい薄い。
「少し、確認させていただいてもよろしいですか」
「何を確認する必要が」
「閲覧記録簿の話です。正規の手続きがなかったとおっしゃるなら、記録簿に空白があるはずです。――その空白は、いつ誰が作ったのか」
カシウスの目が、一瞬細くなった。
「些末な話でしょう、書記官如きには関係のない」
「些末でも」私はその薄い写しを机の上に置いた。音は立てなかったが、室内の目線がそこへ集まった。「受領印の有無は、手続きの正否を決めます。この写しの受領印は、正式な認証を経たものですか」
カシウスが止まる。
「印……今はそれどころでは」ミレイユが呟いたが、自分でも気づいたように口をつぐんだ。印の薄さは、現場の人間も気づいていたのだ。ただ声に出さなかっただけで。
「印は些末です」カシウスが言葉を選びなおして言う。「問題は書記官が閲覧した内容の性質です。王命によれば――」
「彼女を疑うなら」
低い声が、カシウスの言葉を遮った。
レオンだった。
彼は立っていた。いつのまに立ったのか、私には分からなかった。上座で黒の外套が静止している。視線だけが鋭く、カシウスの方を向いている。
「まず――あなたの受領印を見せてください」
場が、静まった。
今度は先ほどとは違う静寂だった。商人の一人が、身を乗り出した。役人が目を見合わせた。ミレイユが手元の赤札を強く握って、でも指が止まっていた。
「……公爵閣下、それは関係のない」
「関係ある」レオンは短く言った。「この評議は関所の実務整理が目的だ。正規手続きの欠落を問うなら、全ての手続きが対象になる。あなたの通達も含めて」
カシウスの指先が、封蝋の欠片を無意識に撫でていた。私はそれを見た。見て、帳面の端に小さくひとこと書いた。〈印の話、嫌がる〉と。
しばらく沈黙があった。
「……この領の机で書かれる文字は、俺の管轄だ」
レオンが静かに続ける。皺ひとつない外套が、灯りの中で少しだけ揺れた。
「彼女も、だ」
場が、変わった。
商人の代表が背を伸ばした。役人の一人が小さく頷いた。ミレイユが指から力を抜いて、赤札がかすかに机に落ちた。
私を孤立させるつもりで乗り込んできた言葉が、逆に部屋の向きを変えていた。
カシウスは唇だけで笑った。しかしその目は笑っていなかった。
「……猶予を、差し上げましょう。ただし記録の照合は継続します。手続きの正否については、改めて」
彼は扉へ向かった。音もなく出て行った。
扉が閉まって数拍後、ロイドが脇の扉から入ってきた。銀盆に小さな茶器を乗せ、真顔で評議長の前に差し出す。
「議長、蜂蜜はいかがでしょう」
ミレイユが「……何を」と絶句した。
私は咳払いを一つした。ロイドが銀盆を引っ込め、「失礼いたしました」と無表情のまま一礼して下がった。評議の緊張が、かすかに緩んだ。
その後の整理は短かった。受領印の写しを照合に提出することと、閲覧記録簿の空白について評議長が証言を提供することで、暫定合意が成立した。ミレイユは鍵束を持ち直し、「……助かりました」と私の方を見て言った。
低く、ほとんど聞き取れないくらいの声だった。
でも聞こえた。
私は帳面に最後の一行を書いた。走り書きで、少し字が乱れていた。
廊下へ出ると、灯りが一つ少なかった。石造りの廊下は夕方でも暗く、関所の外から風が入って、蝋燭が揺れていた。
レオンが先に廊下に出ていた。
私を見た。
「お疲れさまでした」と言おうとして、止まった。
「……セレス」
彼が口を開いた。
私の名前だ。書記官でもフォルセットでもなく、ただの私の名前を、低い声が呼びかけた。
胸の中で何かが、止まった。
でも彼はそこで黙った。
黒の外套が灯りの中に立って、手元だけが、妙に静かになっていた。カップの位置を直す癖が出そうになって、でも手元にカップがないから、指が止まっていた。
次の言葉が、来なかった。
飲み込んだのだ、と私は思った。
何かを言いかけて、飲み込んだ。
「……ご苦労だった」
代わりに出てきたのは、それだけだった。
私は帳面を胸に当てた。背表紙が擦れた指に触れる。ゆっくり、呼吸を整えた。
「……承知しました」
答えた自分の声が、いつもよりわずかに小さかった。
ロイドが廊下の端から戻ってくる足音がした。いつのまにか手袋を三枚重ねてはめていて、何かを言いかけてから止まった。
その夜、書庫へ戻る道で、私はかすかな匂いを嗅いだ。
焦げた、紙の匂い。
振り返っても、廊下には何もなかった。でも匂いは消えなかった。関所の保管庫の方角から、確かに漂ってきていた。
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