第40話 私室の灯り/公文書の冷気
廊下に、足音が消えた。
外套が、わたくしの肩にかかったのは一瞬のことだった。レオンハルト様は振り返らず、扉の向こうへ歩き去る。声ひとつ、なかった。残されたのは黒い布の重みと、わずかに松脂と紙の混じった匂いだけ。
わたくしは3秒、その場に立っていた。
「……監視ですか」
聞こえるはずのない声で呟いて、すぐに口を閉じた。廊下には石と沈黙しかない。誰も、答えない。
私室の扉を閉めると、肩の力が少しだけ落ちた。関所での評議から帰還して2日、ようやく仮眠以上のまとまった夜が戻ってきた。机の上には今日整理した帳票の束、窓際に昨夜の灯りのまま置かれた記録帳。背表紙が擦れて色が薄い、わたくしが5年かけて作った索引帳だ。
指先でそっと撫でた。
呼吸が、一段、静かになる。これだけは変わらない。どれだけ場が乱れても、ここに触れると次の一歩が見つかる。
「……燃やされるわけには、いかない」
小声で言ったのは、独り言だ。39話の評議でカシウス様の目がこちらの記録帳に向いた瞬間のことを思い出していた。「機密」という言葉の使い方が、あまりにも慣れていた。慣れている人間は、もっと前からそれを武器にしている。
書庫へ向かったのは、夜の鐘が2つ鳴った後だった。
灯りがついていた。
扉を開けると、レオンハルト様がすでに長机の前に座っていた。条約更新の束を広げ、赤い期限札が複数、端から顔を出している。視線は紙の上に向いているが、足音に気づいた様子で顔だけ上げた。
「来るとは言っていない」
「……来ないとも言いませんでした」
わたくしは向かいの席に座り、自分の記録帳を開いた。帳票の列に照合の跡がある。レオンハルト様はすぐに視線を書類へ戻した。
しばらく、羽根ペンの音と紙の擦れる音だけが続いた。
灯りが、風もないのに一度揺れた。
「灯りを消さないのは、監視ですか」
思ったより普通の声が出た。
レオンハルト様の手が、一瞬止まる。カップの位置を直す。また直す。3回目で止まった。
「……違う」
低い声だった。
「君が怖がる間、消えないように、だ」
わたくしは帳票の列を見つめたまま、次の行に目を移した。返す言葉を、すぐには見つけられなかった。喉の奥に何か詰まったような感覚があって、それを呼吸で押し込んだ。
「……位置は固定でいいんです」
気がつくと、口が動いていた。
「カップの、ですか」
「人も」
沈黙。
レオンハルト様が咳払いを一つした。わたくしはペンを持ち直した。頬が少し、熱い。先に目を逸らしたのはわたくしの方だ。
照合が3枚進んだところで、扉が叩かれた。
「失礼いたします」
ロイドが入ってきた。白手袋に何かが付着している。黒い、細かい粒。灰だ。手袋をはめ直す間もなく、折りたたんだ紙片を机に置いた。
「関所の倉庫で、小火騒ぎがありました」
空気が変わった。
「けが人は」
「ございません。ただ——」
ロイドが折り目を広げると、焦げた紙片が出てきた。縁が黒く丸まり、中央に何かの文字列の痕がある。完全には読めないが、数字が並んでいたことはわかる。
「帳票の類です。倉庫番が消火の際に拾ったそうで。都合よく燃えている、と」
都合よく。
わたくしはその紙片に手を伸ばした。焦げの縁を崩さないよう、端だけを持つ。数字の配列に見覚えがある。参照札の番号帯だ。F系の——。
「ロイド、倉庫の鍵は誰が管理していましたか」
「昨日までは倉庫番、今日の昼から評議の指示で鍵が移されたと聞いています。ただ……」
ロイドが言葉を切った。
「ただ?」
「移す前の鍵を確認した際、封印が割れておりまして。倉庫番は自分は触っていないと」
レオンハルト様が立ち上がった。
「案内しろ」
倉庫棟への廊下は暗かった。ロイドが先を行き、レオンハルト様がわたくしの少し後ろを歩く。足音が3つ、石の上を叩く。
倉庫の扉の前で、ロイドが灯りを掲げた。
わたくしは鍵穴に顔を近づけた。
封印痕が、ある。蝋の残り方が、外からではない。内側から押し付けたような跡。封蝋に使う鉄棒の先端が当たる形で、蝋が内側に寄っている。これは——。
「……内側から」
声が、自分でも気づかないほど低くなっていた。
「外から鍵を開けたのではなく、中にいた誰かが——開けた」
ロイドが口を閉じた。レオンハルト様が灯りを持ち直し、鍵穴の角度を変えて確認する。
「焼けた帳票の参照番号帯は、36話以降に欠けていた系列か」
「……一致します」
抜かれた参照札と、燃やされた帳票。どちらも同じ方向を向いている。欠落は偶然ではない。整然と消えている。手慣れた消し方で。
焦げた紙片の中に、1か所だけ読める行があった。
受領印、という文字の痕。
「燃やされるなら、燃やされる前に」
わたくしは手元の記録帳を開いた。焦げた紙片の数字をそのまま書き写す。読めなくなった列も、配置の跡から推測できる部分は残す。全部は救えなくても、並べれば形が見える。
「写す。残す。並べる」
「セレス——」
レオンハルト様の声が、一瞬だけ変わった。名の途中で止まる。それ以上は、来なかった。
わたくしはペンを止めずに、頁を埋めた。焦げた縁の粉が指先についた。爪の端が、今夜もわずかに欠けた。
書庫に戻り、灯りを囲んで3人で束を広げた。
欠けた参照の系列。受領印が薄い写しの系列。そして今夜の焼却痕の系列。別々だったものが、1枚の机の上に並んだ時、わたくしの視野の中でゆっくりと、線が繋がりかけた。
繋がりかけた、だけだ。まだ1か所、埋まらない行がある。
国庫の穴と、条約失策の間にある、欠けた1行が——。
「明日、もう一度照合します。……受領印の薄さが、条約更新の遅延期間と重なる可能性があります」
ロイドが「承ります」と手帳を出した。レオンハルト様は答えず、灯りの向こうで書類を見つめている。
その横顔を、わたくしは1秒だけ見た。
灯りは、消えていない。
深夜、ロイドが下がり、わたくしも私室へ戻った。
机の上に記録帳を開いたまま、今夜書き写した列を読み返す。焦げた欠片が、わたくしの文字に置き換わって、そこに存在している。
1行だけ、どうしても埋まらない空白がある。
その欠けた1行が——あの国庫の穴まで、届く気がする。
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