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「完結済」「記録しか取り柄がない」と婚約破棄されたので、引き継ぎ書類だけ置いて静かに去りました  作者: 夢見叶
第7章 逆転の実務――記録で国を救う

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第38話 抜かれた参照は、誰のため

 閲覧記録簿の空白は、最初から「綺麗」だった。


 関所の保管庫、奥の棚。分類番号の順に並んだ文書の束を確認していたわたくしは、参照照合の記録帳を引き出したところで手が止まった。閲覧した日付、参照した文書番号、担当者の署名——その3欄が、4行続けて空白になっている。記入漏れなら欄外が乱れる。途中で止めたなら引っかき傷が残る。でもこれは違う。消した跡もない。書き直した跡もない。まるで最初から何も書かれていなかったように、欄が整然と空いていた。


「……空白が、多い」


 わたくしの横に立っていたレオンハルト様が低く言った。

「偶然なら、こうはなりません」


 声に出して確認すると、胸の中でかたちが固まる気がした。空白の日付帯を指先でなぞる。押した痕も擦れた跡もない。急いでいない。知っていた者が、丁寧に、抜いた。


 閲覧した者の手が、ここにあった。でも記録だけが、ない。




 役人控室で議事録の写しを広げた時、2枚目の裏表紙で目が止まった。受領印だ。他の写しの印と並べれば、すぐに分かる。この1冊だけ、印が半分の濃さしかない。急いで押したのではない。急いでいれば圧が強くなる。力を抜いて——あるいは、押したくなかった。正式に受け取ったと刻まれることを、誰かが避けた。


 記録帳を開いて書いた。「議事録写し(第3棚右2冊目):受領印、著しく薄い」。それからもう1行、「閲覧記録簿:日付4行、連続空白。乱れなし」。


 空白の日付帯と、受領印の薄い写しの日付が——重なっている。


 胸の中で何かが静かに整列した。偶然が2つ重なれば、もう偶然ではない。これは系統的だ。同じ意思が、別々の場所から、同じ時期に働いていた。そして、その意思はまだここにある。昨日ではなく、今も。


 わたくしは記録帳の背表紙に指を当てた。革が少しだけ温かかった。すぐに離した。まだ確証ではない。ここで動揺すれば、書く文字が乱れる。




 中庭に出たのは頭を整理するためだった。


 夜気が頬に当たり、少し呼吸が楽になった。踏み出したところで、背後から布が擦れる音がして、黒い外套が肩にかかった。振り返る前のことだった。タイミングが完璧すぎた。半拍遅れても早くもない。まるで、わたくしが出る前から用意されていたかのような動きだった。

「……監視ですか」


 小声で言ってしまってから、余計なことを言ったと思った。


 レオンハルト様は何も答えなかった。ただ隣に立ち、手に持っていたカップの位置を指先で直した。1度。2度。3度。それで止まった。


「ひとりで背負うつもりか」


 低い声だった。責めてはいない。ただ確かめている。

「欠落の整理は、わたくしの仕事です」

「奪うつもりはない」


 彼が口を開きかけた。「守るための」という形に、唇が動いたように見えた。でも次の言葉は来なかった。口が閉じ、前を向く。そのまま少し間があって、

「……手を貸す。それだけだ」


 わたくしは頷いた。外套が肩に重い。重いが、悪くなかった。監視でも束縛でもない何かが、その重さにあるような気がして——それ以上は考えるのをやめた。


 ひとりで詰めることには慣れていた。王宮書庫にいた5年も、ほとんどひとりで帳面を広げていた。誰かが隣にいて、灯りを消さないでいてくれることに、わたくしはまだ慣れていない。慣れてはいけないのかもしれない——そう思いながら、中庭の夜気を少し吸った。




 夜の保管庫に戻ったのは3人だった。


 ロイドが囮用に仕立てた参照札を懐から出した。白手袋をはめ直してから棚の前に立ち、無表情のまま「どこに置きましょうか」と言った。

「欠落が多かった棚の、隣の位置で。触りやすい高さに」


 わたくしが指さすと、ロイドは無言で丁寧に挟み込んだ。手慣れた動きだった。邪魔にならず、抜きやすく、でも抜いたら分かる位置に。

「閣下、あとは誰が来るか、ですね」

「待つ」


 レオンハルト様は短く答えて、壁際に立った。腕を組まず、灯りを手に持ったまま、ただ静かに立っている。


「疑いは言葉では消えません。……欠落で、逆に釣り上げます」


 呟いたら、横から「欠落で釣るなら、君が触れた頁は俺が守る」と静かな声が落ちてきた。言葉が続いた。「触れられないようにではない。——奪われないようにだ」


 何も言い返せなかった。


 囮の参照札は、何も言わずに棚に収まっている。誰かが触れるまで、ただそこにある。仕掛けは地味だ。でも地味な記録が、次の手を決める。わたくしは帳面の隅に「囮:第12番帯、設置済」と書いた。




 深夜、皆が引いた後もわたくしは保管庫に残った。


 帳面に記録を足していた手が、扉のそばで止まった。鍵穴の縁に、細い線傷があった。刻印が擦れた痕だ。外から差し込んだ鍵の跡なら、縁の手前側に傷がつく。でもこれは違う。傷の向きが内側を向いていた。


 指先でそっと触れた。内側から鍵を操作した痕だ。


 背筋が冷えた。


 王都から誰かが手を伸ばしているのだと、そう思っていた。でもこの傷は、遠くから来ない。ここにいる誰かが、この保管庫の中から扉を動かした。敵は遠くない——敵は、現場にいる。


 記録帳を開いて書いた。「鍵穴:内側傷あり。外からの侵入跡ではなく、内側からの痕」


 筆を止めて、もう1度鍵穴を見た。傷は新しくない。少なくとも2日以上前だ。荷馬車でここに着いた日より前、わたくしたちが関所に入る前から、誰かがここで何かをしていた。


 記録帳の背表紙に、指が自然に触れていた。革の感触が落ち着かせてくれる。でも今夜は呼吸が戻るのに少し時間がかかった。


 廊下で音がした。足音ではない。もっと静かな音だ。扉を開けると廊下に人影はない。ただ、石床の端に視線を落とした瞬間、息が止まった。


 小さな蝋の欠片が落ちていた。封蝋の色だ。王都の紋でも辺境の紋でもない。わたくしが知らない紋だった。見たことがないのに、見た気がする——その感覚が、喉の奥に引っかかったまま解けなかった。


 帳面を開き直し、欠片の形を素描した。


 明日、評議がある。レオンハルト様が公の場に立つ。その場でわたくしに向かって、何かを言おうとする気がした。言いかけて——きっと、飲み込む。名前のような、それよりもっと手前にある何かを。内側に抱えたまま、公の言葉に変えて出てくる。


 聞けていない言葉が、まだここにある。

読んでいただき、ありがとうございます。


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『名前を呼ばれない婚約者を捨てたら、筆跡で見つけた公爵様に溺愛されました』
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