第37話 再交渉まで7日
荷馬車が動き出した瞬間、向かいの席でレオンハルトが窓の外を確認して——何も言わなかった。
書記官として同行するのは分かっていた。分からなかったのは、彼が乗り込んでくることだ。
「……閣下も、関所へ」
「再交渉の立会だ」
視線は窓の外のままだった。守られているのか、見張られているのか——どちらにも見える。胸の奥でざわついた何かを、記録帳の背表紙に触れて落ち着けた。
関所の会議室は、空気が最初から圧縮されていた。商人代表と役人が向かい合い、どちらの顔も険しい。評議長ミレイユ・バルドが鍵束を鳴らしながら双方の怒りを受け止めていた。わたくしを見た瞬間、一度身を縮めた。裁かれに来たと思ったのだろう。
「関税の変更は去年からだ。原本を出せ」
「原本は……それは……」
ミレイユの声が小さくなった。帳簿の端の赤い期限札を指で撫でて、胃のあたりへ逃げた。
渡された帳簿を追うと、五分で分かった。関税の変更時期と条約の更新期限が重なっている。去年の秋、関所から王都へ送った照会が三ヶ月間、返答なしのまま放置された。返答がないまま現場が仮の数字で動かし続け、帳簿が噛み合わなくなり、誰も原因を言えないまま怒鳴り合いになっていた。
交渉相手が強硬なのではない。王都の遅延が、原本照合を最初から不可能にしていた。
戦場は、会議の席ではない——机の上にあった。
「……勝つための言葉は要りません」
「期限の前に、原本を出してください」
会議室が静まった。ミレイユが首を縮め、商人代表が目を上げた。レオンハルトが机の端でカップの位置を一度直した。
「原本は……見た者しか」
「では見た方に証言いただきます。照合はわたくしが行います」
夜になった。
仮宿の一室に机を引き寄せ、照合を続けた。照会記録の写しを一年ずつ並べると、照会が届いた時期だけ返答欄が空白になる規則性が浮かんだ。周期が整いすぎていた。
ろうそくが一本燃え尽きた頃、椅子を引く音がした。レオンハルトが斜め向かいに座っていた。書類を広げているが、ペンを持っていない。灯りはそのままだった。
「……眠れますか」
「君が眠れないなら、灯りは消さない」
少し間があった。
「……執務だ」
付け足した声が、耳の端でかすかに丸かった。視線を帳面に戻す。部屋が、少しだけ温かかった。
翌朝、廊下でロイドが追いついてきた。両腕に白手袋を山ほど積んで、顎の高さまで重なっていた。
「戦支度です」
「……手袋は戦支度ではありません」
「書庫仕事には埃が」
「関所の会議室です」
一拍考えて「念のため」と言い、一組を差し出した。記録帳の余白に「手袋:過剰」と書くと、背後でレオンハルトが短く咳払いをした。
廊下を歩きながら、昨夜の照合が頭の中で整列した。返答欄の空白は一定の周期を持っている。その周期と、執務室の参照棚で欠けていた「参照第12番」の番号帯が——同じ時期を指していた。
あの抜き跡に乱れはなかった。棚の並びを知った者が、急がずに引いた跡だった。
床に封蝋のかけらが落ちていた。拾い上げると、小さな紋が刻まれている。王都でも辺境でもない——どこで見たか、まだ出てこない。
参照の欠落は、執務棟だけではないはずだ。
関所の帳簿にも——同じ番号帯が、抜かれている。
誰のために、抜かれたのか。
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