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「完結済」「記録しか取り柄がない」と婚約破棄されたので、引き継ぎ書類だけ置いて静かに去りました  作者: 夢見叶
第7章 逆転の実務――記録で国を救う

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第36話 正式書記官、机が二人のもの

 夜明け前の書庫で、灯りがもう1本増えていた。


 レオンハルトが燭台を引き寄せたのは、わたくしが羽根ペンを置いて少し経った頃だった。机に2枚の紙が並んでいる。1枚目には、わたくしの名前が乾いたインクで刻まれている。問題は2枚目だ。署名欄がある。でも名前がない——彼の名前の欄だけが、灯りの下で白く主張し続けていた。


「……契約、と言いました」


 声に出すつもりはなかった。ただ、白い欄を見ていたら出た。


 レオンハルトは答えなかった。紙の端を1度だけ指先で押さえて、カップに手を伸ばした。位置を直す音が3回した。それで十分だった。聞かなかったことにした。


 夜明けが来た時、わたくしは任命状を懐に収めて書庫を出た。彼の名前の欄の話は、まだ宙に浮いたままだった。名前のない欄が、ひとつの問いのように胸の中心に居座っている。名前を入れれば答えになる、でもそれが何の答えなのかを、わたくしはまだ言葉にできていない。


 廊下を歩きながら、記録帳の背表紙に指が触れた。革の感触が、少しだけ呼吸を整えてくれた。


 午前の執務棟に着くと、廊下の奥からものを引く音がした。


 ロイドが机を運んでいた。


 机だ。新しい机ではなく、使い込まれた天板の、しっかりした机だ。執務室の扉を入って右側——窓に近い、光が1番均等に落ちる場所へ、ゆっくりと押し入れていた。わたくしは廊下に立ったまま、その作業を眺めた。客人の控室用か、と思った。もしくは書類置き場だろうか。


 ロイドは近づいてきたわたくしに気づくと、手袋をはめ直してから机の天板に何かを置いた。


 名札だった。


 「セレスティーヌ・フォルセット 書記官」


 彫り文字ではなく、木板に焼き付けた文字だった。焦げ跡の深さが均一で、あわてて作った仕事ではない。今日の朝に作ったのではなく、もっと前から——用意されていた文字だ。


 喉の奥で、何かが詰まった。


「……いつから、これは」


「机は、3日前に搬入してございます。名札は7日前に」


 3日前。任命状にわたくしが署名したのは昨夜だ。決まる前から、場所だけがここにあった。


「……椅子は、空けておいた。君がいなくなる前提で、置きたくなかった」


 低い声が背後から落ちてきた。振り返ると、レオンハルトが扉枠に肩を預けていた。外套が皺一つない。視線はわたくしを見ていたが、わたくしが振り向いた瞬間、別の方向へ逃げた。


 言い訳ではない。弁解でもない。ただそれだけの言葉だったのに、足の裏が床に貼りついたように動けなくなった。


 客人の仮席だと思っていた。もしくは監視のための近場だと。いつでも動かせる、仮の場所だと。いなくなることを前提にした場所だと。


 違う。


 最初から、ここだった。逃げ道ではなく——帰る場所として、用意されていた。


 名札の文字を指の腹でなぞった。焼き付けた跡は滑らかで、深い。書いた人間が迷わなかった証拠だ。「セレスティーヌ・フォルセット 書記官」——名前が肩書きと並んでいる。道具の名前ではなく、立場の名前として。


 机を分けることは簡単だ。でも、席を最初から誰かのものとして置いておくのは——簡単じゃない。


 わたくしは名札に指先を当てて、それから記録帳の表紙を1度だけ撫でた。背表紙の革の感触が、いつもの癖だ。今日は止まれた。呼吸が、少しだけ戻った。


「……承知しました。使います」


 そう言ったら、レオンハルトが小さく咳払いをした。ロイドが無表情のまま「大変よろしゅうございます」と言って、羽根ペンと紙を机の上に並べ始めた。


 午後から、条約更新の帳束を広げた。


 棚から出すたびに、赤い索引札が目につく。条約の更新期限だ。今年だけで7件。来年に入れば11件が重なる。赤が連鎖するように束を開くたびに増えて、机の上が赤い端でにぎやかになっていった。1件処理すれば次が出る。関所周りの再交渉、王都との照合、原本の確認——どれも首尾よく片付く類の仕事ではない。期限だけが、待たずに積み上がる。


「……多いですね」


「去年が遅れた分の繰り越しに加え、関所の再交渉が重なっています」


 レオンハルトが机の向こうから答えた。わたくしの机の赤い端を一瞥して、すぐ手元に視線を戻す。


「再交渉まで、あと何日ありますか」


「7日だ」


 7日。記録帳の端に「再交渉:期限7日」と書いてから、参照棚の補充作業を思い出した。


 参照棚は執務室の奥にある。条約の照合に使う参照札——原本写しの対応番号が記された薄い紙片だ。整理のために棚を確かめると、「関所通商条約・参照第12番」の位置が空だった。


 前後の札はある。抜き跡がある。


 でも、乱暴ではない。ひどく丁寧に、急がずに引き抜いた跡だった。


 指を止めた。探して見つかれば落下だ。落下なら周辺が乱れる。この棚は乱れていない。引き抜いた者は、棚の並びを知っていた。どの札がどこにあるか、知った上で取った。


 議事録の写しが奥に並んでいる。確かめるように1冊引き出すと、裏表紙の受領印が目に入った。薄い。他の写しと比べて、著しく薄い。急いで押したのか、力が足りなかったのか——いずれにしても、正式な受理とは呼べない重さだった。


 記録帳を開いて、2行書いた。「参照12番:欠落。抜き跡あり。乱れなし」「議事録写し:受領印が薄い(第3棚、右より2冊目)」それ以上は書かない。まだ事実だけでいい。推測は証拠を積んでから乗せる。


 お茶の時間になった。


 ロイドが盆を運び、カップを3つ並べた。蜂蜜の小瓶を取り出してわたくしのカップに傾け始めた。傾ける角度が——どう見ても、傾けすぎだった。蜂蜜が底に溜まって、茶の色が変わり始めた頃にようやく手を止めた。


「蜂蜜は多めが……ご好評と伺いまして」


「誰からですか」


「諸説ございます」


 諸説ある蜂蜜をわたくしは黙って受け取り、記録帳の余白に「蜂蜜:多め」とだけ書いた。レオンハルトがカップを引き寄せ、位置を3回直して止まった。


 机が2つになった執務室に、夕方の光が長く差し込んだ。名札の焼き文字が光を反射して、少しだけ光った。


 参照棚の欠落は、まだ誰も気づいていない。赤い索引札が束の中で増えている。再交渉まで7日——その期限が今日から、わたくしの机にまで迫ってきている。

読んでいただき、ありがとうございます。


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『名前を呼ばれない婚約者を捨てたら、筆跡で見つけた公爵様に溺愛されました』
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