第35話 署名欄は夜明けまで空白
任命状の署名欄が、灯りの下で白く光っている。
白すぎる。
羽根ペンを手に取ろうとして、わたくしは3度止まった。1度目は紙が滑り、2度目は指が迷い、3度目は——何が怖いのかを、まだ言葉にできなかったから。
夜の書庫は静かだ。盟約書が片付けられ、王子が去り、証拠の照合も終わった今夜、残っているのは2枚の紙だけだった。盟約書の写しと、任命状。どちらも、わたくしの名前が必要な書類だ。
指先が冷たい。羽根ペンを置き直す。机の角に軽く揃えて、呼吸を整えようとした——その拍子に、手が棚の背表紙へ届いた。
革表紙の感触が、すっと指の腹に広がる。
知らずにやっていた。
不安の癖だと気づいていたのに、止められなかった。
王都にいた頃から変わっていない。棚に触れるたびに「記録はここにある」と確かめてきた。整った背表紙の並びが、揺れた心を落ち着かせてくれた。仕事さえあれば、場所は問わなかった。場所を問う必要が、なかったから。
でも今夜は違う。
棚に触れているのは、記録を確かめるためではない。ここに居てもいいのか、と問いながら触れている。
その違いに気づいて、指が止まった。
「……」
沈黙の中で、扉が開く音がした。足音は少ない。革靴の重みだけが、板の間を静かに横切った。
「起きていたのか」
声は短い。責める色もなく、驚く色もない。当たり前のように空気に混じった。
振り向かなかった。振り向けば、背表紙から手を離すことに気づいていた。
レオンハルトが机の前を通り、燭台をもう1本引き寄せた。灯りが増えて、紙の白さが増した。それから——外套が、肩に落ちた。
重い。温かい。書物と冷えた夜の匂いが混ざって、鼻の奥に届く。
「寒い」
彼の言葉はそれだけだった。説明ではない。言い訳でもない。寒いから掛けた、それだけの、あまりにも簡単な言葉だった。
その簡単さが、胸に刺さった。
隣の椅子が引かれる音がした。彼が座ったのだと分かった。何も言わない。促さない。ただそこに居る。灯りの円の中に2人分の影が落ちて、わたくしの指は、まだ背表紙の上にあった。
止めない。
視線を感じる。でも彼は止めなかった。ただ、見ていた。
——ああ。
気づいた瞬間、指の力が抜けた。
止めないのではなく、止めなくていいと言っている。背表紙を撫でていても、棚に縋っていても、構わないと。その癖ごと、ここに置いてもいいと。
守られる、と思っていた。守られることが怖かった。「客人」という名の檻に戻ることが、あの頃の道具という扱いと、同じ形に見えていた。
でも違う。
彼が用意したのは壁ではなく、椅子だった。隣の椅子。わたくしが座るかどうかを、ずっと、わたくしに委ねていた。
手を棚から離した。
外套の襟を少し直して、羽根ペンを取った。今度は止まらなかった。
「1つ、条件があります」
声に出してみると、驚くほど落ち着いていた。
彼が動く気配がした。問い返す言葉を選んでいるのか、少しだけ間があった。
「……聞こう」
「名前で呼んでください」
静かになった。
燭台が揺れる。紙の白さが灯りの動きで伸び縮みした。
「……レオンハルト殿下」「殿下ではない」
被せるように言った。少し早かった。珍しいほどに、早かった。
「閣下でも、公爵でもない」
声が低い。でも怒っていない。
「……セレスティーヌ」
名前だけで、答えになった。
わたくしは羽根ペンを署名欄に当てた。インクが紙に馴染む前に——廊下から、足音がひとつ届いた。
静かな足音だ。ロイドの歩き方とは違う。板の軋み方が、知らない重さをしている。
レオンハルトの気配が変わった。椅子から立つ気配ではなく、聴く気配。灯りを庇うように、わずかに体を傾けた。
足音は止まらなかった。廊下の奥へ消えていく。
消えた。
でも、いた。確かに、いた。
「……続けろ」
彼の声が戻ってきた。何事もなかった口調。でも目が廊下の方向を見ていた時間の長さを、わたくしは聞いていた。
安全は、1度確保すれば終わりじゃない。守り続けるものだ。
そのことを、彼は毎夜わたくしより知っている。
羽根ペンを動かした。
その時、扉の外から微かな声が届いた。
「夜明け前は冷えますので……蜂蜜を」
中から2人同時に言った。
「今は!」
短い沈黙の後、足音が遠ざかった。ロイドの、いつもの革靴の音だった。
肩の力が、少しだけ抜けた。彼も同じだったらしい。外套の布が揺れる気配がした。
書き終えた。
セレスティーヌ・フォルセット。
名前が、紙に残った。消えない。記録は消えない。それが恐怖だった頃もあった。でも今夜は——消えなくていいと思った。
羽根ペンを置いて、紙を横へ押した。
レオンハルトが手を伸ばした。受け取る前に、もう1枚の紙を机に出した。
灯りに透かすと、署名欄がある。でも名前はない。書かれているのは、わたくしの名前の横に並ぶはずの——彼の名前の、欄だけだ。
「……これは」
「契約だ」
彼の声は静かだった。
静かすぎて、それ以上の意味を、わたくしはまだ問えなかった。
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