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「完結済」「記録しか取り柄がない」と婚約破棄されたので、引き継ぎ書類だけ置いて静かに去りました  作者: 夢見叶
第6章 盟約書、そして「隣に」

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第35話 署名欄は夜明けまで空白

 任命状の署名欄が、灯りの下で白く光っている。


 白すぎる。


 羽根ペンを手に取ろうとして、わたくしは3度止まった。1度目は紙が滑り、2度目は指が迷い、3度目は——何が怖いのかを、まだ言葉にできなかったから。


 夜の書庫は静かだ。盟約書が片付けられ、王子が去り、証拠の照合も終わった今夜、残っているのは2枚の紙だけだった。盟約書の写しと、任命状。どちらも、わたくしの名前が必要な書類だ。


 指先が冷たい。羽根ペンを置き直す。机の角に軽く揃えて、呼吸を整えようとした——その拍子に、手が棚の背表紙へ届いた。


 革表紙の感触が、すっと指の腹に広がる。


 知らずにやっていた。


 不安の癖だと気づいていたのに、止められなかった。


 王都にいた頃から変わっていない。棚に触れるたびに「記録はここにある」と確かめてきた。整った背表紙の並びが、揺れた心を落ち着かせてくれた。仕事さえあれば、場所は問わなかった。場所を問う必要が、なかったから。


 でも今夜は違う。


 棚に触れているのは、記録を確かめるためではない。ここに居てもいいのか、と問いながら触れている。


 その違いに気づいて、指が止まった。


 「……」


 沈黙の中で、扉が開く音がした。足音は少ない。革靴の重みだけが、板の間を静かに横切った。


「起きていたのか」


 声は短い。責める色もなく、驚く色もない。当たり前のように空気に混じった。


 振り向かなかった。振り向けば、背表紙から手を離すことに気づいていた。


 レオンハルトが机の前を通り、燭台をもう1本引き寄せた。灯りが増えて、紙の白さが増した。それから——外套が、肩に落ちた。


 重い。温かい。書物と冷えた夜の匂いが混ざって、鼻の奥に届く。


「寒い」


 彼の言葉はそれだけだった。説明ではない。言い訳でもない。寒いから掛けた、それだけの、あまりにも簡単な言葉だった。


 その簡単さが、胸に刺さった。


 隣の椅子が引かれる音がした。彼が座ったのだと分かった。何も言わない。促さない。ただそこに居る。灯りの円の中に2人分の影が落ちて、わたくしの指は、まだ背表紙の上にあった。


 止めない。


 視線を感じる。でも彼は止めなかった。ただ、見ていた。


 ——ああ。


 気づいた瞬間、指の力が抜けた。


 止めないのではなく、止めなくていいと言っている。背表紙を撫でていても、棚に縋っていても、構わないと。その癖ごと、ここに置いてもいいと。


 守られる、と思っていた。守られることが怖かった。「客人」という名の檻に戻ることが、あの頃の道具という扱いと、同じ形に見えていた。


 でも違う。


 彼が用意したのは壁ではなく、椅子だった。隣の椅子。わたくしが座るかどうかを、ずっと、わたくしに委ねていた。


 手を棚から離した。


 外套の襟を少し直して、羽根ペンを取った。今度は止まらなかった。


「1つ、条件があります」


 声に出してみると、驚くほど落ち着いていた。


 彼が動く気配がした。問い返す言葉を選んでいるのか、少しだけ間があった。


「……聞こう」


「名前で呼んでください」


 静かになった。


 燭台が揺れる。紙の白さが灯りの動きで伸び縮みした。


「……レオンハルト殿下」「殿下ではない」


 被せるように言った。少し早かった。珍しいほどに、早かった。


「閣下でも、公爵でもない」


 声が低い。でも怒っていない。


「……セレスティーヌ」


 名前だけで、答えになった。


 わたくしは羽根ペンを署名欄に当てた。インクが紙に馴染む前に——廊下から、足音がひとつ届いた。


 静かな足音だ。ロイドの歩き方とは違う。板の軋み方が、知らない重さをしている。


 レオンハルトの気配が変わった。椅子から立つ気配ではなく、聴く気配。灯りを庇うように、わずかに体を傾けた。


 足音は止まらなかった。廊下の奥へ消えていく。


 消えた。


 でも、いた。確かに、いた。


「……続けろ」


 彼の声が戻ってきた。何事もなかった口調。でも目が廊下の方向を見ていた時間の長さを、わたくしは聞いていた。


 安全は、1度確保すれば終わりじゃない。守り続けるものだ。


 そのことを、彼は毎夜わたくしより知っている。


 羽根ペンを動かした。


 その時、扉の外から微かな声が届いた。


「夜明け前は冷えますので……蜂蜜を」


 中から2人同時に言った。


「今は!」


 短い沈黙の後、足音が遠ざかった。ロイドの、いつもの革靴の音だった。


 肩の力が、少しだけ抜けた。彼も同じだったらしい。外套の布が揺れる気配がした。


 書き終えた。


 セレスティーヌ・フォルセット。


 名前が、紙に残った。消えない。記録は消えない。それが恐怖だった頃もあった。でも今夜は——消えなくていいと思った。


 羽根ペンを置いて、紙を横へ押した。


 レオンハルトが手を伸ばした。受け取る前に、もう1枚の紙を机に出した。


 灯りに透かすと、署名欄がある。でも名前はない。書かれているのは、わたくしの名前の横に並ぶはずの——彼の名前の、欄だけだ。


 「……これは」


「契約だ」


 彼の声は静かだった。


 静かすぎて、それ以上の意味を、わたくしはまだ問えなかった。


読んでいただき、ありがとうございます。


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『名前を呼ばれない婚約者を捨てたら、筆跡で見つけた公爵様に溺愛されました』
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