第34話 告白と任命の境界線
封蝋の刻印を見た瞬間、わたくしの指が紙の端で止まった。
外務局の印章だった。王子殿下が去った翌朝、ロイドが執務室へ持ち込んだその書状は、丁寧な折り方の裏に「照会の件につき、当該人物の所属を確認されたし」という一文を潜ませていた。当該人物、とは——言うまでもなく、わたくしのことだ。
昨日の広間で、盟約書が王命に線を引いた。それでも王都は、別の回路から手を差し込んでくる。
書状を机に置いたレオンハルト閣下は、しばらく黙っていた。紺の瞳が書面の一点に落ちたまま、カップの取っ手を人差し指でゆっくりと正す。いつもの癖だ。
「外務は動いていた」
低い声が静寂を割った。
「……早いですね。昨日の今日で」
「外務に動かせる者がいる。把握はしていた」
閣下はそう言って、机の引き出しから別の書状を取り出した。こちらには外務の印ではなく、求人欄を抜き出した紙片が挟まっている。わたくしが初めて辺境行きを決めた、あの太字の広告だ。
「閣下、それは」
「日付を見ろ」
差し出された紙片の隅に、わたくしは目を凝らした。
婚約破棄が公になった日の、3日前。
数字が目に入った瞬間、頭の中で何かが組み直されるような音がした。
太字の「根気のある者」。身分不問。辺境の僻地。誰も手を挙げないことを想定したような条件。
「待っていたのですか」
口に出してから、自分の声が思いのほか素直だと気づいた。怒りではない。驚きでもない。何か、もっと脆いものが喉の奥で動いている。
「婚約破棄を待って、打った」
閣下は答えた。説明ではなく、事実の列挙として。言い訳の形をしていないのが、かえって胸に刺さった。
「……では、わたくしの魔法が目当てだったと、そういうことでしょうか」
聞きながら、自分でも分かっていた。この問いは防衛だ。傷つく前に一度だけ疑って、距離を測ろうとしている。道具として扱われた日々の記憶が、まだそこにある。
閣下は答えるまでに、少し間を置いた。その沈黙が、誠実さの形をしていた。
「記録魔法は必要だ。それは本当のことだ」
正面から、わたくしを見た。
「だが——欲しいのは、君の働きではない。……君が折れないことだ」
言葉が着地するまでに、数秒かかった。
君が折れないこと。
王子殿下は一度も、そんな言い方をしなかった。あの方が必要と言うとき、指しているのは機能だった。魔法の出力だった。わたくしという人間の輪郭ではなかった。
目の奥が、じんと熱くなる。泣くつもりはない。ただ、長い間ずっと冷えていた場所に、小さな火がついたような感覚があった。
「……なら」
わたくしは羽根ペンの軸に指を沿わせながら、言った。
「わたくしに客人ではなく、ここで生きる名をください」
閣下は一度だけ目を細めた。それから机の端に置いてあった一枚の書状を、こちらへ押し出した。
「任命状だ。書記官——正式な官職として、城の書庫と文書管理を担当する。待遇は」
そこから、閣下は早口になった。
「専用の机。羽根ペンと紙の支給は月次で。灯り油の制限はなし。休暇は月に2日、申請制。給金は辺境官吏の基準額に準ずる。書庫の改修予算は別途相談。以上だ」
言い切って、一瞬だけ黙った。
「……以上だ」
繰り返した声が、わずかに低くなっていた。閣下の耳の縁が、灯りのせいではない色に染まっているのを、わたくしは見なかったことにした。
それが全部、折れるなの言い換えだと気づいたら——笑ってしまいそうだったから。
わたくしは書状を手に取り、任命状の文言をひとつひとつ読んだ。外務から届いた「照会」の書状が、まだ机の端にある。王都の手は長い。官職があれば、少なくとも「当該人物の所属」への答えになる。
そして——それだけではない、と分かっている。
羽根ペンを握り直した瞬間、扉の外でくぐもった咳払いが1つ聞こえた。
「……失礼いたします。夜明けまでに決裁が必要な書類が4件ございます」
ロイドの声だった。閣下が静かに咳払いを返す。わたくしはペンを置いて、任命状を折り目正しく二つに畳んだ。
「閣下。署名は——夜明けまで、保留させてください」
閣下は何も言わなかった。ただ、カップの位置をもう一度だけ微調整して、扉の方を見た。
翌朝、王都から次の封蝋が届くまでに、答えを出さなければならない。
読んでいただき、ありがとうございます。
よければブックマーク・評価・いいねなどしていただけるととても嬉しく思います。




