第33話 王都の言葉、辺境の沈黙
盟約書の封蝋に、見知らぬ指の跡があった。
朝の光の中でそれを見た瞬間、わたくしの呼吸が浅くなった。蝋の表面に薄く刻まれた線。引っ掻いたのでも、熱で歪んだのでもない。誰かが、確かめるように触れた跡だ。爪の形が残っている。
「……ロイドさん」
執務室の扉が開いたのは、わたくしが声を上げたのとほぼ同時だった。革鞄を抱えたマルセルと、その後ろでロイドが頭を下げる。
「台帳写し、届きました」
ロイドの声は静かだったが、目が封蝋に落ちた瞬間、指先が封蝋の縁をそっとなぞった。封蝋粉を確かめている。
レオンハルト様が机から立ち上がり、黙って封蝋を見た。
「……写しは使えるか」
「はい。受領印の照合が完了次第、お使いいただけます」
マルセルが硬い声で答える。鞄の留め具を3度確かめてから、台帳写しを机の端に置いた。ページの端が、かすかに揃っていない。早馬で揺れた証拠だ。
レオンハルト様が封蝋の跡を指先で示し、ロイドに視線を渡した。言葉はなかった。ロイドが一礼する。
「確認いたします。今日の広間が終わるまでに」
盟約書は、動かされていない。でも、誰かが触れた。その事実だけが、朝の空気の中でじわりと重くなった。
広間への移動は、10分後だった。
城の広間は高天井で、午前の光が横から差し込む。石の床が白く光り、壁際の燭台の炎が小さく揺れている。オーギュスト殿下は既に上座の近くに立ち、随行の者たちを左右に配置していた。リゼット嬢が殿下の袖をそっと掴み、わたくしを見た。
わたくしはレオンハルト様の左隣に立った。昨日と同じ位置だ。けれど今日は、昨日より一歩だけ前に出た。自分でそうした。
「まだ答えは出ていないのか」
殿下の声に、圧があった。「戻れ。今ならまだ間に合う」という型の言葉が来ると思っていた。でも今日は違う。殿下の眉間の皺が、昨日より深い。焦りが、滲み出ている。
「答えは出ております、殿下」
レオンハルト様が口を開いた。声は低く、広間に真っ直ぐ届いた。
「提示するものがあります。今日、ここで」
盟約書を机の上に広げた時、殿下の随行の1人が小さく息を呑んだ。二重印が、午前の光を反射してはっきりと浮かぶ。
「辺境盟約、第3条。本領域に置かれた者の身分・立場に関する事項は、領主の判断に委ねられ、王命はその裁量に優先しない」
レオンハルト様が読み上げた。台帳写しの当該箇所を、マルセルが横に広げた。印影の一致が、誰の目にも見えた。
殿下が動かなかった。視線が、盟約書から台帳写し、そして印章へと泳いだ。袖口を、指が握る。5年間、何度も見てきた仕草だ。理解が追いつかない時に出る。
「……王命は」
「国を動かします」
レオンハルト様の声が、遮った。静かに、しかし確かに。
「ですが——ここは盟約で守られている」
広間が、しんとした。
リゼット嬢の手が殿下の袖から離れた。殿下が口を開きかけて、また閉じた。
その沈黙の中で、わたくしは一歩前に出た。
「殿下」
声が、震えなかった。
「わたくしは、戻りません。……戻る先が道具なら、なおさら」
今度こそ、答えが来なかった。
殿下の視線が、わたくしの顔に止まった。見ていた。でも見えていなかった。5年間の、そういう目だ。
随行の1人が殿下の袖を引いた。小さく何か囁く。殿下は一度だけ盟約書に目を落とし、それから背を向けた。退場は早かった。圧をかけるつもりで来た人間が、圧をかけられたまま去る時の速さだ。
広間に残されたのは、午前の光と、揺れる燭台と、静かになった空気だった。
マルセルが台帳写しを鞄に収め始めた。受領印を確認しながら、手が止まる。台帳写しの端に、封蝋の粉がうっすらと付着していた。彼の顔が、一段青くなった。でも何も言わずに鞄の留め具を締めた。
ロイドが動いた。視線だけでレオンハルト様に確認を取り、マルセルを連れて扉の外へ出る。
夜になるまで時間があった。でも書庫に足が向いた。
迷宮書庫は、日中でも薄暗い。灯りを足して、盟約書を棚に戻した。棚の前に立ったまま、わたくしはしばらく動けなかった。
手が、背表紙に触れた。
いつからの癖か、もう正確には思い出せない。でも不安になるほど、指は勝手に動く。紙の固さを確かめて、綴じ糸の感触を辿って、それでようやく呼吸が落ち着く。今日も同じだった。
指が止まった。
足音が聞こえた。扉ではない。書庫の中から。
振り返ると、レオンハルト様が入口の近くに立っていた。灯りの円の端、外套を片手に持っている。わたくしの手が背表紙の上で止まったまま、気づかれた。
視線が、一瞬だけわたくしの手に落ちた。
何も言わなかった。ただ、灯りをひとつ追加して、隣の椅子を引いた。
その椅子に、外套を掛けなかった。
それだけのことで、胸が、少し緩んだ。
しばらくして、レオンハルト様が机の端のカップをずらした。位置を1寸ほど直して、また戻した。それを2回繰り返した。
「……今さら整えても」
わたくしは思わず言った。
彼は顔を上げて、短く答えた。
「癖だ」
耳の端が、うっすら赤かった。
わたくしはもう一度、背表紙に手を置いた。今度は確かめるためではなく、ただそこにある感触を、一度だけ確かめた。
レオンハルト様が何かを言いかけた。「隣に」という音が、口の端で形を作りかけた。わたくしには聞こえた。確かに聞こえた。
でも彼は、続けなかった。
代わりに、机の引き出しから紙を取り出した。いくつかの文言が並んでいる。肩書き、待遇、任命の手続きの番号。執務的な、正しい言葉だけが並んでいた。
「隣に」は、そこにはなかった。
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