第32話 欲しいのは私――魔法
オーギュスト殿下が微笑んでいた。
それが、1番恐ろしかった。
広間の扉が開く前、控えの間でわたくしは確認書を左手に持ち直した。昨夜まとめた3点の証拠が、折り畳んだ紙の中に整列している。レオンハルトが右隣に立っていた。声をかけてこない。ただそこにいた。それだけで背筋が1本に整う自分が、少し怖かった。
扉の向こうで、随行の誰かが床を踏んだ音がした。
夜の間に、写しを持ち出した「誰か」の話が、頭の隅でまだ尾を引いていた。
広間は朝の光が斜めに入っていた。
殿下は玉座の間のように座ってはいなかった。立って、窓際に位置を取っている。王族らしい姿勢で、装いは申し分なく、笑みは穏やかで、覇権を主張していない顔をしていた。それがすべて計算だとわかっていても、胸の中に細い針が刺さるような感覚が走った。5年間、この顔の前で頷いてきた。
「久しぶりだな、セレスティーヌ」
名前を呼ばれた。
でも呼び方が――同じだった。5年間と、まったく同じ声の温度で。それがすでに答えの1つだとわたくしは思った。
「……ご無沙汰しております、殿下」
レオンハルトが一歩前に出た。礼節の範囲で、でも確実にわたくしの斜め前に立った。その位置が、昨日の城門と同じだと気づいた。言葉より先に体が守りの位置に入る人だ。
「辺境公爵。貴殿に礼を言う。セレスティーヌが世話になったようだ」
殿下がレオンハルトへ言った。「世話」という言葉の選び方が、わたくしには聞こえた。まるで、荷物の預かりへの返礼のようだった。
「言葉の選び方を確認させてください」
わたくしが口を開いた。自分でも少し早かった。でも止まれなかった。
「世話とは。わたくしが、どなたかの管理下に置かれていた、という意味でしょうか」
殿下が笑みのまま、わずかに止まった。
「そうではない。……心配していた、と言いたかっただけだ」
「では、正確にそう仰っていただけますか」
沈黙が広間に広がった。
「撤回しに来た。婚約破棄を撤回する。手続きを整えるだけだ。誰も傷つかない」
殿下がようやく切り出した。整えた言葉だった。「整える」「傷つかない」という包み方に、確認書を持つ手の指が、わずかに締まった。気づかれないように、そのまま動かさなかった。
「撤回、と仰いますが――何をお望みなのか、確かめさせてください」
わたくしは一歩だけ前に出た。
「殿下。わたくしを欲しいのなら、まず名前で呼んでください」
殿下が眉を動かした。
「……名前で呼んだ。『セレスティーヌ』と」
「苗字なしで、呼んだことはありますか」
返事がなかった。
わたくしは続けた。声は落ち着いていた。落ち着かせようとしていたのではなく、今この瞬間に何かが定まっていたから、落ち着いていた。
「殿下が戻れと仰るとき、何が不足しているから戻れと思われますか。書庫の業務ですか。記録の整理ですか。条約の原本参照ですか」
殿下の視線が、わずかに泳いだ。袖口を握る癖が出た。5年間で何度も見てきた、理解が追いつかない時の仕草だった。
「……そういう話ではない」
「では、どういう話ですか」
「君がいないと困る」
「わたくしが困らせているのですか。それとも、わたくしの魔法が使えなくて、困っているのですか」
答えが来なかった。
広間の光が、変わらず斜めに差し込んでいる。殿下の口が、1度開いて閉じた。もう1度開きかけて、止まった。その沈黙が、わたくしの問いへの答えだった。
認識がひっくり返る、というのは、こういうことだと思った。「撤回」という言葉は「復縁」の形をしていた。でもその中身は最初から――機能の回収だった。5年間も、そうだった。今日も、そうだ。
そこへ、扉が静かに開いた。
「……失礼いたします」
ロイドが、盆を持って入ってきた。湯気の立つカップが3つ。全員の視線が一瞬だけそちらへ流れた。殿下も、わたくしも、レオンハルトも。
「落ち着きのお茶をお持ちしました」
ロイドの顔は変わらなかった。
殿下が先に視線を戻した。わたくしも戻した。でも広間に漂っていた空気が、その1秒でわずかにほどけた。
「……答えが出ましたね」
わたくしが言った。声が震えなかった。
「わたくしは戻りません。戻る先が道具ならば、なおさら」
殿下が口を開こうとした。でも言葉が来る前に、レオンハルトが静かに割り込んだ。
「撤回の要請については、追って書面でお答えします。本日はこれにて」
有無を言わせない静けさだった。命令ではない。でも「終わり」という形をした声だった。殿下がロイドの盆を一瞥して、それ以上何も言わなかった。随行がその場を読んで扉へ動いた。
殿下が最後にわたくしへ視線を向けた。何か言いたそうな顔で、でも言わなかった。やがて踵を返した。
広間から人が出ていくのを、わたくしは動かずに見ていた。
回廊に出て、壁に背を付けた。
膝が震えているわけではない。でも呼吸が乱れていた。乱れていると気づいた時には、もう乱れていた。
温かいものが、肩に落ちた。
振り返らなくてもわかった。外套だ。レオンハルトの、いつもの黒いあれだ。
彼は何も言わなかった。わたくしも言わなかった。
外套の端を、わずかに握った。重かった。でも重さが、今は支えになった。
背表紙を撫でる代わりに、布の感触を指先に確かめた。気づいた時には、そうしていた。
夜になって、ロイドが報告を1つ持ってきた。
「明朝、盟約書を正式に提示する段取りが整いました。しかしながら――」
一拍おいた。声が、いつもより低かった。
「今朝の確認後、盟約書の封蝋に新たな指の跡が見つかりました。昨夜の照合を終えた後に付いたものと思われます」
わたくしは羽根ペンを、机の上にそっと置いた。
「では、誰かが夜の間に……」
「はい」
ロイドが言った。
明朝、この盟約書を広間へ持ち出す。それを、誰かが知っている。
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