第31話 棚の奥から二重印
声が、細くなった。
2重の印影。外側の公爵印のさらに内側、古い封蝋の層の下に刻まれた別の印章が、朝の白光のなかで静かに浮いている。昨夜は燭台の揺れる炎でここまで見えなかった。台帳写しの照合がまだ終わっていない。王子の随行はすでに城内に入っている。なのに棚の奥の、その1枚が、今この瞬間だけ存在を主張するように光を返していた。
「——二重の印が、見えます」
繰り返さずにいられなかった。もう1度声に出すことで、夢ではないと確かめたかった。
気配がすぐ隣に来た。レオンハルトがわたくしの横に立ち、同じ方向を見た。視線が棚の奥の一点に集まる。
「……番号は」
「8番棚、奥段。索引では無番の区間です。昨夜の炎では奥まで届かなかった」
彼が黙って手を伸ばした。麻張りの台帳を慎重に引き出し、棚板の上に置く。積まれた埃が一気に上がった。
レオンハルトが前腕で払い、鼻先にうっすら灰がついた。
わたくしは一瞬、迷ってから、懐の布を出して黙って差し出した。
彼は受け取らなかった。代わりに視線をこちらへ向けた。沈黙が1秒続いた。
わたくしは自分で布をたたみ直し、目を逸らした。彼も前を向いた。二人とも、何も言わなかった。
台帳の表紙に、2重の封蝋が貼りついていた。外側は公爵家の印。その下、半透明になった蝋の層の底に、もう1枚の印影が確かにある。
「これが本物なら、照合できます」
声が、さっきより少し落ち着いていた。
机に戻って、封蝋の欠片と印影を並べた。
机の隅にあった小さな欠片。レオンハルトが昨日の夜、手の甲でわたくしの側へそっと滑らせた、あれだ。ずっと「ただの残滓」だと思っていた。邪魔だとも、捨てるべきとも判断できず、そのまま置いてあった。
台帳の封蝋に刻まれた印影と、欠片の刻み跡を、燭台の光で照らし合わせる。
線が、重なった。
外側の円弧。内側の3本線。欠けた右下の角すら、台帳の印影に残る欠損跡と一致する。
「……欠片です」
思わず声が出た。
「欠片が、ここから割れたものだという証明になります。台帳の封蝋は公爵家印と一致する。そして印影の下層が——二重になっている」
レオンハルトがそこで口を開いた。
「割れても、印は残る」
確認するような言い方だった。問いではなく、宣言に近かった。
「……残ります」
わたくしは答えた。「ゴミ」として扱われていたものが、今この瞬間に意味を変えた。割れていても欠けていても、印章の形は刻まれたままだ。消せない。それはわたくしの魔法が記録するものと、同じ性質を持っていた。
廊下でロイドの足音がして、扉が開いた。
「マルセル殿より伝達です。台帳写しの引き渡しには、受領印の押印が必要とのこと。印章責任者は本日——」
「日没後まで出勤しない」
先に言ったのはわたくしだった。ロイドが一拍おいてから続けた。
「左様でございます。したがいまして、本日中の照合は手続き上、不可能と」
王子の側はこれを知っていて来ている。照合が終わらないうちに「判断しろ」と迫る算段だ。
机の上の欠片を、指先で1度だけ触れた。
「……照合が遅れても、証拠の「順番」さえ整えば出せます。欠片の一致、台帳の二重印、盟約書との照合――この3点を書面にまとめれば、受領印なしでも正式な「確認書」として提出できます」
ロイドが書類入れに手を添えた。
「お時間は」
「今夜中に」
ロイドが頷き、扉の外へ戻りかけた。
「……もう1点」
立ち止まった彼へ、わたくしは続けた。
「台帳の鍵穴を見ましたか。封の縁に、指の跡が残っています。わたくしのものでも、あなたのものでもない」
ロイドの動作が、わずかに止まった。
「……確認いたします」
声が、いつもより低かった。
応接前の廊下に、王子の随行の気配が漂っていた。扉1枚の向こうで、誰かが床を踏む音が聞こえる。急いでいる。焦っている。
わたくしは確認書の下書きに羽根ペンを走らせながら、今朝の城門を思い出した。
——俺の後ろじゃない、隣だ。
あの言葉が、今もまだ胸の中にある。拭えない。消せない。記録しようとしたわけでもないのに「記録」してしまっていた。
羽根ペンを一度置いた。
恐くないとは言えない。王子が扉の向こうにいる。5年間、道具として扱ってきた人間が、今度は「戻れ」を持ってきている。「守られる=奪われる」という感覚が、まだ皮膚の下に残っている。
でも。
机の隅に、欠片がある。割れて、ゴミのように見えて、でも刻まれた印は消えていなかった。
わたくしも、あれと同じだ。
羽根ペンを持ち直した。
夜の書庫に、ふたつの燭台を置いた。台帳の封蝋と確認書を並べ、照合の最終確認をしていると、レオンハルトが無言で隣の椅子を引いた。座る気配がする。書類を出す様子はない。ただ、そこにいた。
二重印が、灯りの下でくっきりと浮く。線が揃う。刻みが重なる。
「残ったのは印だけじゃない」
彼が言った。
わたくしは顔を上げなかった。
「——君が残した順番もだ」
心臓が、1度だけ速くなった。
欠片を棚の隅に残したのはわたくしだった。索引を整えたのも、番号を追ったのも。その積み重ねが今夜ここで形になっている。
「……承知いたしました」
わたくしは答えながら、ペンを走らせた。声が、かすかに揺れた。
明日、王子の前で、この確認書を出す。
盟約書と、欠片の印と、二重の刻みが並ぶ紙を。
でも今夜は、まだここで仕事をしている。灯りの輪の中で、紙と向き合って。隣の椅子が、静かに温度を持っていた。
翌朝、城内の廊下で、王子の随行の1人が確認書の写しを手にした、という報告がロイドから届いた。
写しを要求したのは、随行ではなく――別の人間だと、ロイドは小声で付け加えた。
わたくしは確認書を持つ手を、一瞬だけ止めた。
台帳の鍵穴。知らない指の跡。そして今度は、写しを持ち出した「誰か」。
——欲しいのは、わたくしですか。それとも、この魔法ですか。
胸の中でその問いが、声に出る前に静かに形を整えていた。
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