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「完結済」「記録しか取り柄がない」と婚約破棄されたので、引き継ぎ書類だけ置いて静かに去りました  作者: 夢見叶
第6章 盟約書、そして「隣に」

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第31話 棚の奥から二重印

 声が、細くなった。


 2重の印影。外側の公爵印のさらに内側、古い封蝋の層の下に刻まれた別の印章が、朝の白光のなかで静かに浮いている。昨夜は燭台の揺れる炎でここまで見えなかった。台帳写しの照合がまだ終わっていない。王子の随行はすでに城内に入っている。なのに棚の奥の、その1枚が、今この瞬間だけ存在を主張するように光を返していた。


「——二重の印が、見えます」


 繰り返さずにいられなかった。もう1度声に出すことで、夢ではないと確かめたかった。


 気配がすぐ隣に来た。レオンハルトがわたくしの横に立ち、同じ方向を見た。視線が棚の奥の一点に集まる。


「……番号は」


「8番棚、奥段。索引では無番の区間です。昨夜の炎では奥まで届かなかった」


 彼が黙って手を伸ばした。麻張りの台帳を慎重に引き出し、棚板の上に置く。積まれた埃が一気に上がった。


 レオンハルトが前腕で払い、鼻先にうっすら灰がついた。


 わたくしは一瞬、迷ってから、懐の布を出して黙って差し出した。


 彼は受け取らなかった。代わりに視線をこちらへ向けた。沈黙が1秒続いた。


 わたくしは自分で布をたたみ直し、目を逸らした。彼も前を向いた。二人とも、何も言わなかった。


 台帳の表紙に、2重の封蝋が貼りついていた。外側は公爵家の印。その下、半透明になった蝋の層の底に、もう1枚の印影が確かにある。


「これが本物なら、照合できます」


 声が、さっきより少し落ち着いていた。




 机に戻って、封蝋の欠片と印影を並べた。


 机の隅にあった小さな欠片。レオンハルトが昨日の夜、手の甲でわたくしの側へそっと滑らせた、あれだ。ずっと「ただの残滓」だと思っていた。邪魔だとも、捨てるべきとも判断できず、そのまま置いてあった。


 台帳の封蝋に刻まれた印影と、欠片の刻み跡を、燭台の光で照らし合わせる。


 線が、重なった。


 外側の円弧。内側の3本線。欠けた右下の角すら、台帳の印影に残る欠損跡と一致する。


「……欠片です」


 思わず声が出た。


「欠片が、ここから割れたものだという証明になります。台帳の封蝋は公爵家印と一致する。そして印影の下層が——二重になっている」


 レオンハルトがそこで口を開いた。


「割れても、印は残る」


 確認するような言い方だった。問いではなく、宣言に近かった。


「……残ります」


 わたくしは答えた。「ゴミ」として扱われていたものが、今この瞬間に意味を変えた。割れていても欠けていても、印章の形は刻まれたままだ。消せない。それはわたくしの魔法が記録するものと、同じ性質を持っていた。




 廊下でロイドの足音がして、扉が開いた。


「マルセル殿より伝達です。台帳写しの引き渡しには、受領印の押印が必要とのこと。印章責任者は本日——」


「日没後まで出勤しない」


 先に言ったのはわたくしだった。ロイドが一拍おいてから続けた。


「左様でございます。したがいまして、本日中の照合は手続き上、不可能と」


 王子の側はこれを知っていて来ている。照合が終わらないうちに「判断しろ」と迫る算段だ。


 机の上の欠片を、指先で1度だけ触れた。


「……照合が遅れても、証拠の「順番」さえ整えば出せます。欠片の一致、台帳の二重印、盟約書との照合――この3点を書面にまとめれば、受領印なしでも正式な「確認書」として提出できます」


 ロイドが書類入れに手を添えた。


「お時間は」


「今夜中に」


 ロイドが頷き、扉の外へ戻りかけた。


「……もう1点」


 立ち止まった彼へ、わたくしは続けた。


「台帳の鍵穴を見ましたか。封の縁に、指の跡が残っています。わたくしのものでも、あなたのものでもない」


 ロイドの動作が、わずかに止まった。


「……確認いたします」


 声が、いつもより低かった。




 応接前の廊下に、王子の随行の気配が漂っていた。扉1枚の向こうで、誰かが床を踏む音が聞こえる。急いでいる。焦っている。


 わたくしは確認書の下書きに羽根ペンを走らせながら、今朝の城門を思い出した。


 ——俺の後ろじゃない、隣だ。


 あの言葉が、今もまだ胸の中にある。拭えない。消せない。記録しようとしたわけでもないのに「記録」してしまっていた。


 羽根ペンを一度置いた。


 恐くないとは言えない。王子が扉の向こうにいる。5年間、道具として扱ってきた人間が、今度は「戻れ」を持ってきている。「守られる=奪われる」という感覚が、まだ皮膚の下に残っている。


 でも。


 机の隅に、欠片がある。割れて、ゴミのように見えて、でも刻まれた印は消えていなかった。


 わたくしも、あれと同じだ。


 羽根ペンを持ち直した。




 夜の書庫に、ふたつの燭台を置いた。台帳の封蝋と確認書を並べ、照合の最終確認をしていると、レオンハルトが無言で隣の椅子を引いた。座る気配がする。書類を出す様子はない。ただ、そこにいた。


 二重印が、灯りの下でくっきりと浮く。線が揃う。刻みが重なる。


「残ったのは印だけじゃない」


 彼が言った。


 わたくしは顔を上げなかった。


「——君が残した順番もだ」


 心臓が、1度だけ速くなった。


 欠片を棚の隅に残したのはわたくしだった。索引を整えたのも、番号を追ったのも。その積み重ねが今夜ここで形になっている。


「……承知いたしました」


 わたくしは答えながら、ペンを走らせた。声が、かすかに揺れた。


 明日、王子の前で、この確認書を出す。


 盟約書と、欠片の印と、二重の刻みが並ぶ紙を。


 でも今夜は、まだここで仕事をしている。灯りの輪の中で、紙と向き合って。隣の椅子が、静かに温度を持っていた。


 翌朝、城内の廊下で、王子の随行の1人が確認書の写しを手にした、という報告がロイドから届いた。


 写しを要求したのは、随行ではなく――別の人間だと、ロイドは小声で付け加えた。


 わたくしは確認書を持つ手を、一瞬だけ止めた。


 台帳の鍵穴。知らない指の跡。そして今度は、写しを持ち出した「誰か」。


 ——欲しいのは、わたくしですか。それとも、この魔法ですか。


 胸の中でその問いが、声に出る前に静かに形を整えていた。


読んでいただき、ありがとうございます。


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『名前を呼ばれない婚約者を捨てたら、筆跡で見つけた公爵様に溺愛されました』
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